1年ぶりの東海道は味噌カツと櫃まぶしから始まります

第30日目 2014年12月30日

平均気温5.1℃ 最高気温11.0℃ 最低気温0.0℃ 平均湿度--% 最大瞬間風速9.9m/s 降水量0.0mm 日照時間7.7時間
気象庁電子閲覧室より引用


1年ぶりに東海道へ帰って来たよ。今回は名古屋見物もスケジュールに入れて
12月29日~1月1日の3泊4日、そのうち歩くのは30日・31日の2日間なんだ。
初日は、名古屋城を見に行ったら工事の為入れませんでした。続いて浅田真央
ちゃんの街大須へ行きました。ここの
御幸亭で名古屋名物の味噌カツを食べたよ。


大須観音にお参りして、活気のある商店街を楽しみました。
途中、信長が父の位牌に抹香を投げつけた万松寺に寄って
織田信秀のお墓にお参りしました。

 

さて、今日はみんなが忙しい12月30日だよ。ボクたちは今年の元旦に
ゴールした
岡崎公園前駅に戻ってきました。こんな日に観光する人も
いないので、街はとっても静かだよ。歩き始めると八丁味噌があるよ。
9時35分

 
    岡崎の地場産業 八丁味噌

  大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方
 特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。
  矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で
 製品の出荷にも舟運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造に良くて、また気候及び
 風土にも適しているといわれています。
  江戸時代以来、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名
 となり、地元周辺のみでなく江戸にも多く積み出され、その名を高らしめました。
 現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。

   歌にみる八丁味噌

  「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば極よし、焼いて又よし」
 といわれる八丁味噌は、三河武士・農民・町人たちの常食・兵食として親しまれ、
 一日も欠くことのできない食品でありました。また、天正十八年(1590)、徳川家
 康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ
 需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い、三河木綿の運搬との
 相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。
  それが「ふるさとへ、まめを知らせの旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る
 荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌
 あぶりて喰うも」という斉藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下
 の名産として称賛されてきました。




八丁味噌は、岡崎城から八丁(約870m)のところにある八丁村造られた
まるやカクキューの二つの味噌蔵で作られた味噌なんだ。東海道を挟んで
右側がカクキュー、左がまるやだよ。裏はすぐ矢作川になっていて、ここから
船で原料の大豆や塩を運び、出来たお味噌も船で出荷していた便利な場所なんだ。
もっと詳しいことが知りたい人は組合のページを紹介しましょう。
9時43分


カクキュー蔵の前には「純情きらり」の有森桜子(宮崎あおい)の手形が有ったよ。
ドラマの中での山長がカクキューなのかな。ボクたちも手形の上に自分の手を
合わせてみたけど、
宮崎あおいさんの手って小さいんだね。その先に進むと
突き当たりになって、「
左江戸 右西京」という道標があるので右に曲がります。
曲がった通りが、
八帖往還通りだよ。急坂を登ると国道1号線だよ。そのまま左へ
行けば矢作橋なんだけど、橋を渡った右側に見所があるというので、ここで
地下道を通って国道の向こう側へ移動しました。
9時46分

 
 
 
パパは前回渡った矢作橋は昭和26年に架けられた15代目の矢作橋だけど
今回ボクたちが渡った橋は平成23年に出来た16代目だよ。1代目は慶長六年
に架けられた土橋だったんだ。橋を渡った右側にはこの出合之像があるけど
豊臣秀吉が生まれたのは天文六年(1537)だからこの橋が出来たときには、
64歳ということになるよね。でも秀吉が亡くなったのは慶長三年なんだから
亡くなってからこの橋が出来たことになるんだ。従って碑に書いてあるような
出会いは有り得ないってことだよ。でもその話は面白く夢があるのでボクたちは
嫌いじゃないよ。下にその話を写してみたので読んでみてね。

 
   出合之像  太閤伝説・日吉丸と小六

  日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(今の名古屋市中村公園)の木
 下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、八才のころから奉公にだされまし
 たが、十二才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家へ帰ることも
 できず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で
 寝ていました。ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後
 の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢
 作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけった
 ところ、日吉丸は「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。
 詫びて行け」と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸が
 あると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸は
 すぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内
 にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。目的を果たし逃げようと
 した時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投
 げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、す
 ばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。史実とは異なりま
 すが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六
 の人間的一側面を物語として、今なお私たちの心に生き続け、乱世の
 時代劇を垣間みる挿話となっています。
  この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。

9時52分

 

矢作橋を渡ったら、国道から離れ右側(北側)にある旧道を進むよ。
右に勝蓮寺を見て、1ブロック進むと左に
近江屋本舗という和菓子屋さんが
有りました。ボクたちはお菓子に目が無いので、開店していれば
なるべく立ち寄ることにしているよ。今日も朝からお饅頭をいただきます。
写真のお兄さんは、FMおかざきのパーソナリティをやってる黒田さんだよ。
FACEBOOKもやっているので、寄ったらお友達になろう。
10時18分~30分

 

ここは、誓願寺十王堂だよ。十王堂の詳しい説明は、塩の道にパパが載せたので
そちらを見てね。このお堂はそもそも西暦997年に溺れて亡くなったこの寺の住職の
冥福を祈って建てられたんだ。その後1138年源義経を慕うあまり、川に身を投じた
矢作の里の長者の娘浄瑠璃姫をこの寺に埋葬し、十王堂に義経と姫の木造を祀った
んだよ。でもボクたちにはお堂正面の十王像より、左右に描かれた地獄図にビビリました。
10時40分


しばらく進むと国道1号線と合流するよ。そのまま右を進むと、大きなタイヤ屋さん
山本タイヤの前に本物のレーシングカーが有ったので記念撮影。暮戸交差点を
過ぎると130mだけ歩道のような旧道があり、その先トラックショップの前を
通るよ。ここには屋外トイレがあったので、お借りしました。ありがとう!鹿乗橋東
交差点を過ぎると右側に
薬王寺がありました。このお寺は元々宇頭大塚古墳という
古墳時代中期の前方後円墳の後円部に奈良時代造られたんだ。伝説としては、
池から光を放って現われた仏様を祀っています。その後この村に疱瘡が流行り
旅の僧が薬を飲ませると、病は癒え子供が持っていた銭輪を首にかけ姿を
消しました。後に尊像を見ると、首に銭輪をかけ体に疱瘡の跡があったとさ。
10時52分・11時14分


宇頭町交差点を過ぎ、尾崎東交差点に来ました。薬王寺から530mだよ。
ここで街道は再び右の旧道へと入って行きます。松並木が目印だよ。
11時20分

 

 
  第一岡崎海軍航空隊の由来

  第二次世界大戦が熾烈を極め、戦局必ずしもわれに利あらず、戦略上一大転
 機に直面し、戦力の画期的増強が急務となった昭和十九年二月、若き精鋭を
 鍛えるため、海軍はこの地に練習航空隊を設置、当初河和海軍航空隊岡崎分
 遣隊として発足したが、急遽訓練を開始することとなり名称も昭和十九年四月
 一日岡崎海軍航空隊となり作戦機能も独立して同年五月より本格的訓練が開
 始され、その後昭和二十年二月第一岡崎海軍航空隊と改称された。
  本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選
 抜された童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍
 航空隊派遣の命により、昭和十九年五月入隊の一期生より毎月続々と入隊、
 十二月入隊の八期までその数およそ六千名と記録されている。入隊後は日夜
 の別なく猛練習を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、全国各地の実戦
 航空隊へ実務練習生として巣立って行った。しかしわが軍の劣勢は如何とも
 し難く、昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を無条件で受諾、戦争は終結し
 本航空隊も解隊されるところとなった。
  広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され元の美田に戻り大いにその成
 果を挙げてきたが、その後のわが国の驚異的な経済成長に伴い本跡地も著し
 く変貌し、戦後四十年を経た今日、最早往時を偲ぶ痕跡すらなく幻の如く人人
 の脳裏から消え去らんとしている。
  こゝにわれ等相い集い保存資料に基づき、史実を後世に伝えるため、この
 由来を記録しておくものである。

     昭和六十一年五月十八日       


この場所には、そのほかに第二航空隊と第三航空隊があって、第一第二は
整備士の訓練施設で、第三が飛行士の訓練施設だったんだ。第三の飛行士は
その後、知覧や鹿屋、沖縄へと特攻隊として派遣されたんだよ。
永遠のゼロを読んだり、知覧を訪れたパパは、ここでも感無量になってます。
11時34分


航空隊跡地は熊野神社境内にあり、そこには他にも一里塚跡
鎌倉街道跡があるよ。京から来た鎌倉街道は、ここで右折して
JR岡崎駅方面へ向かっていたんだって。東海道とは随分違う
ルートだったんだね。熊野神社から710m、宇頭茶屋交差点の
先左側の宇頭茶屋説教所バス停の隣には
明治天皇御駐蹕之所
碑がありました。駐蹕って何って聞いたら、天皇陛下がここを
通って、ここで一時乗り物を止めた場所なんだって。これと
同じ碑は良く見るけど、ボクたちが休憩しても何も残らないけど
やっぱり天皇陛下は凄いんだね。
11時50分

 
 
 

290m進むと右側に永安寺があるよ。ここで有名なのは雲竜の松という黒松だよ。
このお寺は延宝五年(1677)貧しい村人の為に助郷役の免除を願い出て刑死した
庄屋の柴田助太夫を祀ったお寺なんだ。この松は、助太夫の家にあったか、この
寺に元々あったか分からないそうですが、樹齢は300年と言われているんだ。
樹高は4・5mだけど。枝張りは東西17m、南北24mもあるんだよ。ボクたちも
休憩しながら松に触れてそのエネルギーをもらいました。
11時53分~12時07分


すぐそばには明治川神社があって、その先から小さな松並木が始まるよ。
12時09分


明治川神社の先は、新安城駅に近づくので食堂も出てくると楽しみに
していたら、ネットでいい店探したからそこへ行こうとママが言いました。
もう12時過ぎて腹ペコで文句たらたらなボクたちは、2100m先まで
歩かされ、今本町4という交差点を左折して更に180mの場所にある
この店に連れて来られました。ここはうなぎの
かねぶん新安城店で
パパとママは、名古屋五大めしのひとつ、
櫃まぶしを食べにきたのです。
櫃まぶしは高いのでパパとママだけ、ボクたちは普通のうな丼を
食べました。でもとても美味しかったよ。パパは、櫃を四等分して、
そのまま・薬味かけ・お茶漬け・薬味かけ、と4回楽しんでました。
ボクたちも大人になったら絶対食べてやる~。
12時42分~13時30分


猿渡川を渡ると、来迎寺公園が左側にあって、ボクたちはブランコ遊び。
パパは公園の中に
玉乃井の碑を見つけましたが、説明がなくなんだか
分かりません。向かいは
御鍬神社だよ。
13時49分

 

300mほど進むと、来迎寺一里塚があるよ。両側が残っている一里塚は
珍しいけど、北側は公民館の後ろに隠れているんだよ。そうなると
塚と塚の間がとても広くて、本当に当時の塚なのか怪しくなっちゃうよ。
13時54分


一里塚の前には東海道の案内板があります。提供がトヨタ車体というところが
愛知県らしいとパパは、そこに感心していました。


知立の観光協会は、こんな案内標識を出しているので東海道を歩く人には
便利だよ。その先には
弘法大師の石柱があったよ。この辺に来ると
明治用水の案内板も増えて来ます。上流からの水を下流の田んぼへと
送っていた明治時代の用水路も、今はパイプになって地下に埋められ
その上は市民がジョギングできる遊歩道になっているんだ。
14時06分

 
 
ここは、国道419号と頭上の衣浦豊田道路を越える場所だよ。
横断歩道橋でしか向こう側へは進めないんだ。ここを右(北)に行くと
トヨタの工場群で、左(南)へ進むと港なんだ。きっと部品や車体を
船に積むために出来た道路なんだろうね。
14時08分


越えるといよいよ知立宿に入ってきました。知立は池鯉鮒って書くんだね
きっと昔、この辺の池はコイとフナがたくさんいたんだね。江戸から39番目の
宿で、当時の人は10日でここまで来たといわれているけど、ボクたちは
30日もかけて来たよ。昔は立派な
松並木があったけど、伊勢湾台風で
倒れてしまい、今は若い松が植えられていました。
14時10分


昔、馬市が行われていた場所には、その様子を描いた広重の池鯉鮒と
馬の銅像が建っています。馬市は毎年4月から五月初めに開かれ、遠くは
山梨県や長野県からも馬が連れてこられ、4~500頭の馬で賑わったんだって
売りに来た人や買いに来た人で、とっても賑やかだって書いてありました。
14時14分


こっちは馬市之址碑と万葉の歌碑だよ。元気なサブは少々興奮気味です。
国道までは松並木に広い歩道があってとても歩き易い道だよ。
14時21分


すぐに国道1号線を横断するんだけど、人間は地下の歩道を行きます。
地下道にもしっかり知立観光協会の標識がありました。地下道を抜けると
大きな教会みたいな建物が、パパが名古屋名物結婚式場だと
教えてくれました。この式場はヴェルサイユガーデン知立だったのだけど
明々後日から
チャペルグレイスと統合されちゃうんだよ。名古屋と言っても
少子高齢化や婚礼人口の減少には敵わないんだね。
14時26分

 
 
御林交差点で国道を渡り旧道を真っ直ぐ進むと、名鉄三河線の踏切だよ。
ここ知立を境に猿投へ向かうのが北線、碧南へ向かうのが南線と呼ばれて
いるんだよ。この電車は左にある三河知立駅に向かう電車の最後尾だから
北線だね。
14時28分

 
 
中町交差点は六差路で、そこで目立っていたのがこのお店ゑびすやだよ。
ここから東海道は複雑で迷子にならないでください。実際は進んできた道を
真っ直ぐ進めばいいんだ。ゑびすやの向かいのきものどころ丸八と時計の
スギウラの間の路地みたいな
狭い道に入って下さい。
14時40分


入ってすぐに、この茶煎房という喫茶店があったら正解です。
ちょっと疲れたボクたちは、早速入って名古屋の珈琲をいただきました。
パパは単品で珈琲を頼みましたが、やっぱりお菓子が付いてきたよ。
また、おばちゃんが面白い人で、ボクたちのことに興味があるのか
色々なことを聞きたがっていました。おばちゃんご馳走様でした。
14時42分~15時32分


その先はホテルクラウンパレス知立で、この下にも喫茶店があって、
ボクが生まれる直前の2000年5月25日に立ち寄ったんだって。
右の写真の上にカーソル合わせると当時の写真が現われます。
15時35分


街道はサンハイツに突き当たるので右折しましょう。直ぐ左に知立古城址
現れるよ。桶狭間の戦いで落城し、江戸時代は将軍の休泊用の御殿だったんだ。
今は公園になっているけど、疲れてきたボクたちは遊ばないで先を急ぎます。
15時38分


再び道は、了運寺というお寺に突き当たるよ。ここでは左折してください。
直ぐ左の珠算教室の前に
ソロバンマンがいたよ。子ども達にいたずら
されたのかボロボロでかわいそうでした。国道155号線は
地下道で渡ります。
15時40分

 
パパは知立神社へ寄りたかったけど、ボクたちの足を考えて
神社の前を直進、左側には
知立不動尊の竜宮城みたいな門があるよ。
土手へ出たら右に曲がって
逢瀬川を渡りましょう。
15時43分


逢瀬橋は、隣に国道の逢瀬大橋があるので、静かな橋です。デザインも洒落ていて
歩道にはお祭のタイルが張ってあったよ。パパがカメラを構えたら前を歩く
小学生達が意識しちゃって面白い写真が撮れました。
15時49分


1km弱、国道歩きになるよ。昔この歩道橋の下に変な人形がたくさんあって
ボクたちを驚かそうとパパは張り切っていたんだけど、今は綺麗になって
何処にも人形はいませんでした。その代わり
一里塚跡がありました。
15時56分


刈谷市今岡町歩道橋が現れたら、左の小径に入ってね。直ぐ左には
洞隣寺があり、ここが旧東海道だって確認出来ます。この寺には何度
直しても反対側に傾くといわれる豊前国中津藩士のお墓があるんだよ。
またその隣には「
めったいくやしい」のお墓もあるんだ。昔この寺で
働いていた女の人が、医王寺で青年僧侶に恋をして、見向きもされ
なかったので食も喉に通らなくなり死んでしまいました。その亡骸を
この寺に葬ったところ、その墓石から青い火の玉が出てきて
めったいくやしいと叫びながら医王寺のほうへ飛んでいったとさ。お墓
参りに行こうかとパパは言いましたが、ボクたちは拒否しました。
16時08分

 

もう直ぐ今日のゴール。その手前にいもかわうどんの碑がありました。
江戸時代の紀行文にも良く出てくるいも川うどんで、ここの名物だったよ。
平べったいうどんで、東に伝わりひもかわうどうになり、今でも東京で
ひもかわと呼ばれているんだ。そういえばきしめんもひもかわかなぁ?
というわけで、今日のゴールは街道から90mの
富士松駅です。
16時21分


今回の宿は金山駅前の名鉄イン名古屋金山です。帰りの電車は
ボクたちで貸しきり状態。夜は駅前の居酒屋へ繰り出し乾杯です。


表紙のページへ 前のページへ 次のページへ このページの地図へ