前回お世話になった大橋屋は年末年始休業です


赤坂宿は東海道と中山道にあるんだよ。同じ名前の宿場があるなんて
面白いね。幕府の人も間違えたことが有るんじゃないかな。中山道の
赤坂宿は江戸から56番目の岐阜県大垣市に在るけど、ここは江戸から
36番目の宿場だよ。江戸時代は御油と共にとても活気のある宿場
だったけど、東海道本線が蒲郡の方へ行っちゃったから寂れてきたんだよ。


赤坂宿の入り口にあるのが関川神社だよ。境内には芭蕉の句碑があって

夏の月 御油よりいてゝ 赤坂や

って書いてあります。これは両方の宿場が非常に近いという意味なんだ。
右後ろには大きな
クスノキがあるよ。この木も天然記念物で、目通り
7.29m、樹齢は
800年と推定されているんだ。木の根元がえぐられて
いる部分は、慶長十四年(1609)の大火で火の粉が飛び散って焼けた
という伝説もあるよ。

14時00分


落ち着いた佇まいの街道を行くと左側に本陣跡がありました。赤坂宿には
本陣が4軒あったけど、そのうちの一つ松平彦十郎の本陣がこの場所に
あったんだよ。建物は間口十七間半、奥行二十八間、畳は422枚もある
大きな本陣だったんだ。
14時04分


名電赤坂駅から街道へ、真っ直ぐ来た交差点赤坂紅里には、両側に赤坂宿公園
有りました。パパが観ている間石の椅子に座って休憩できました。手前の公園には
高札や常夜灯そして宿場の古地図、、向かいの公園には駕籠のミニチュアとお祭りの
案内板があったよ。お祭りは、8月の第3日曜日の
雨乞い祭りと、10月第2日曜日の
大名行列が行われるんだ。雨乞いは関川神社の隣にあった宮道天神社の得意とする
ところで、280年ほど昔の大日照りの年、何度も祈願しても雨は降らず、百万遍の
大念仏を納めたら、田畑を潤す大雨が降ったということから始まったんだ。一方
大名行列は、杉森八幡社の祭礼で、古くは人形芝居や神楽などが納めされて
いたんだけど、太平洋戦争で中断し、元々宮道天神社で行っていた祭りを氏子が
八幡社に移ったことから、同社の祭礼として行われるようになったんだよ。
14時05分

 
 
大旅籠の大橋屋は、屋号を鯉屋といい、正徳六年(1716)に建てられました。間口は九間
奥行は二十三間と大きな旅籠でした。赤坂宿には家の数が400軒のうち、旅籠だけで
83軒もあったから凄い賑わいだったんだね。パパは2000年5月24日に泊まったことが
あるんだ。気に入ったので今回のボクたちを泊めてあげようと予約したら年末年始は
休業なんだって、残念。内部の写真は13年前に泊まったときのもので、二階の右側の
部屋に寝て、食事は中庭の向こうの奥の大広間で食べたんだって。大きな写真は
パパが合成に失敗しちゃって曲がっているんだよ。本物は曲がって無いよ。
14時11分


大橋屋の先に正法寺というお寺があるよ。本堂は新しく、万延元年(1860)のもの
だけど、由緒は古く
聖徳太子がこの辺りを旅したときに太子堂を建てたことが創立
のきっかけなんだ。浄土真宗の開祖親鸞も、ここを訪れ太子像を拝んでいったんだよ。
また明治天皇も明治23年4月3日にここへ寄って宝物を天覧したんだって。
その隣は
御休処よらまいかんだよ。どうせ休業中だと期待しなかったけど
やっぱり休みでした。赤坂ではよい休憩所なのに、年末年始は厳しい~。
14時12分


宿場も外れに近づくと右側に赤坂陣屋跡がありました。陣屋は代官所で、年貢の
徴収や裁判などを取り扱っていたんだ。この陣屋は三河の天領支配の中心で
幕末には三河県役所と改められ廃藩置県後の明治5年に廃止されたんだ。
3分ほど行くと右側に八幡社の鳥居です。大名行列の神社だよ。境内には
赤坂の舞台と呼ばれる建物があって、戦前は芝居が盛んに行われていたん
だけど、中断し2000年に舞台の復元工事が行われ、以来年1回歌舞伎の
公演が行われているんだ。観客席は小屋掛けといって竹を格子状に組んで
屋根を作るんだって。ここで歌舞伎が見られるなんて村の人は幸せだね。
14時16分

 
杉森八幡社の先で宿場の集落は終わって地名も西縄手と昔は田圃になったんだね。
その場所には現在
音羽中学校が建っていました。この先1kmは変化の無い道で
頭上を走る
道路をくぐる場所に来ました。この道路は、東名高速の音羽蒲郡インター
からトンネルの連続で蒲郡に出られる素晴らしい道路なんだって。手前の音羽川の
土手に階段があって風が当たらず陽が当たる場所だったので休憩しました。
14時21分~55分

 
 
5分程進むと、左側に一里塚跡があったよ。七十七番目の塚のようですが、
今は両方とも跡形もなく、この碑だけが頼りだね。音羽川の向こうに
山が迫って左側は良い景色が広がっていました。
14時59分


直ぐ先は、長沢小学校だよ。小学校シリーズのために小学生のボクが
記念写真。学校の石垣にあったのは、
長沢城跡の案内板です。
なるほど、御油から本宿へ続く長い谷は、戦略上の要衝だったんだ
だからここに城を設けて東西の交通に睨みを利かせていたんだね。
15時01分


道が右にカーブし始める場所に、お寺みたいな屋根をした古民家があったよ。
その先国道がちらほら見え始めた10分ほど進んだところに
磯丸みほとけ歌碑
という石碑が建っていましたが、そのほかの説明が無いので何だかわかりません。
15時18分

 

やがて旧道は国道1号線の関谷という場所で、合流します。その手前
東名高速と国道に挟まれた立信寺の門前に祠が並んでいます。
15時19分

 

関谷の標高が83m写真右の岡崎市に入る峠が113m、距離は1520m
つまりだらだらと30m登っていく直線道路を進むことになります。
足が痛くなったボクにはとてもきつい登り坂でした。途中でパパに
ストレッチをしてもらったり、靴を脱いで足の裏をマッサージしたりと
大変でしたが、相棒の佐武は元気満々で、走り回っていたんだよ。
岡崎市に入ったところには本宿の石碑が出迎えてくれました。
15時50分


峠からくだり始め、新箱根入口交差点を過ぎたところで旧東海道は左の小径へ
入ってゆくよ。ここからはゆっくりとした下りだから助かります。この先の
法蔵寺はパパが見学している間、門前で休憩していいよといわれたので
先を急ぐように頑張って歩きました。2日目なので筋肉痛が出てしまったみたい。
15時57分


分岐の間には、新しい道標 右国道1号線 左東海道があって隣には
本宿の歴史と文化をたずねてという案内板があったよ。ここには
主にこれから向かう法蔵寺のことが書かれています。
法蔵寺の前には
御草紙掛松があります。この松は、徳川家康が
幼少のころ、この寺で学問を習い、そのとき草紙を掛けたことから
家康公ゆかりの松として永く人々に親しまれてきたんだ。
でも平成17年に虫にやられて枯れちゃったので新しく植えたんだ。
15時59分

 
 
赤い欄干の鉢地川を渡れば法蔵寺なんだけど、手前の左には、団子を売る
茶屋があったんだ。一本の串に指でつぶした餅に醤油を付けてあぶる団子で
風味が良くて評判だったんだよ。その名も
法蔵寺団子と呼ばれていました。
昭和の始め頃まで有ったらしいけど、今でも作ったらいいのにね。
16時00分

 
パパはボクたちを門前において一人でお寺に入って行きました。
山門へ登るには落差から言って階段がふさわしいと思うが、
何故か無理やり傾斜を落とした砂利道になっています。
後で車が入ってきて気が付いたのですが、この山門を抜ける
しか上の境内に入れない地形になっていたんです。階段を登り
本堂へ来ました。法蔵寺は大宝元年(701)行基の開創といわれ
代々松平氏の帰依が深い寺です。近世は
家康公のお手習いの
寺として親しまれてきました。この本堂は嘉慶二年(1388)に
松平親氏が建立し、明治十年に改築されています。


左手にある六角堂は、弘法大師の建立といわれ、聖観音像は平安末期の
作です。現在の建物は嘉慶二年龍芸が再建し、堂内の観音像もその頃の
作と言われています。更に左手の階段を登ってゆくと
近藤勇の首塚があります。
近藤勇は東京板橋の刑場で処刑され、遺体は近親者が掘り起こし、三鷹の
竜源寺に埋葬します。しかし首は塩漬けにして京都三条大橋でさらし首に
され、それを同士が三晩目に持ち出し、勇が敬慕していた新京極裏寺町の
住職に埋葬を依頼しますが、住職は半年前からこの法蔵寺に転任していた
ので、ここに運んだというわけです。世間をはばかって石碑を土で覆い
無縁仏のようにして埋葬したため、いつしか存在を忘れられてしまいますが
昭和三十三年記録に基づいて調査の結果埋葬の由来が明らかになり
石碑を覆っていた土砂を取り除き、更に勇の胸像を立てて供養することに
至ったと、現場の法蔵寺執事が書いた案内板に記されていました。
16時07分

 
少し元気になったボクたちと合流して、もうすぐそこのゴールを目指します。
左手に現われたのは、
陣屋跡だよ。元禄十一年(1698)旗本の柴田出雲守
勝門(柴田勝家の子孫)が知行所支配の為作った陣屋で、明治まで
続いたんだ。今は病院になっているよ。左写真の奥の四角い建物だよ。
今日のゴールは本宿駅で、本当はもう少し進んだところが駅入口なんだけど
この
本宿村道路元標で終わりにしました。あ~くたびれた。
16時18分


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