姫街道最後の宿場、さて嵩山は何て読むでしょう?


本坂峠の下りは、ずっと冷たい風が吹き上げ、左手の尾根で日陰になって
とっても寒い道だったよ。でも周りは見事に手入れされた
杉林で、圧倒
されました。ポツンと立っていた
石碑には、姫街道って刻んであったよ。
12時18分

 弘法水 11時55分   旧本坂トンネル分岐 12時00分  水場 12時08分
 嵩山七曲り 12時08分  座禅石 12時15分  浅間神社分岐 12時16分
 
坂を下ってくると、旧本坂トンネルという道標がいくつか出てくるけど、
トンネルを見たい人以外は行かない方がいいよ。ここで横断する舗装路
が旧本坂トンネルへ向かう
旧国道362号線で、山道が大変だから
舗装路を歩こうと思う人もいるかもしれないけど、本坂峠から嵩山まで
姫街道は
1600mだけど、旧国道は3400mもあるんだよ。
12時19分


里が近づいたところに、嵩山一里塚跡がありました。江戸から73番目の
一里塚だよ。そこから3分下ると山道が終わり簡易舗装の道になります。
その場所には姫街道の案内板がありました。ここで改めて姫街道の
勉強をしてみましょう。

 
 姫街道

  やさしい名をもつ姫街道は、東海の見付または浜松から気賀・三ヶ日の浜名
 湖北岸を通り、本坂峠を越え豊川・御油までの東海道脇往還61.5kmである。
  正式名は、県境にある本坂峠を越えることから本坂通(本坂道)といわれる。
  浜名湖の今切の渡しや新居の関所を避ける人々で一時期かなりの賑わいを
 みせたこともある。
  この街道は歴史的にも古く、万葉集の東歌にも詠まれたている。沿道の人々
 を驚かせた通行の例としては、享保3年(1718)8代将軍吉宗の実母浄円院の
 通行や享保14年(1729)、安南国(現在のベトナム)から将軍への献上品として
 象の通行があげられ夢とロマンの街道でもある。
  平成8年文化庁から「歴史の道百選」に選定された。
                              平成18年10月吉日


「詠まれたている」って何だ~。珍しく案内板間違っているよ。
パパは、原文をそのまま書き写すので間違いもそのままだよ。
12時26分


ススキの穂がきれいな歩き易い姫街道を下って行くと、嵩山宿の
旗が立っていたよ。これ一本だけだったけど、昔は他にも有ったの?
12時38分


やっと家が出てきました。でもこれは民家ではなく、豊橋ケアセンターという
お年寄りの介護施設なんだ。嵩山町を通る姫街道は豊橋市にあるんだよ。
12時40分


この場所は、旧本坂トンネルから来る旧国道と姫街道が合流する場所だよ。
そこには大きな
姫街道道標が立っていて東本坂峠、西嵩山宿って刻まれて
いるよ。道標の裏側にも説明文が刻まれていたので、紹介します。

 
 ましらなく 杉のむらだち 下にみて 幾重のぼりぬ すせの大ざか 景樹

 
香川景樹 江戸期歌人 天保一四(一八四三)年七六歳で没す 号は桂園 長門介
 または肥後守 本歌は高弟の菅沼斐雄をつれ文政元(一八一八)年東下りをした際
 の斐雄の随行紀行「神くらべ」にあり 舟嫌いの景樹は荒井の渡しを避け二月二九
 日吉田宿より嵩山街道を通り姫街道嵩山宿 名勝「どんかめ」を過ぎて本坂峠の
 難所であり三遠国境の景勝地「嵩山七曲り」付近にて本歌を詠んだ


 

この碑文の中に嵩山の読み方の答えがあるんだけど、この時は気付きません。

12時45分


狭石川を挟んで両側に公会堂があったよ。手前が藤上公会堂、川の向こうが
藤下公会堂なんだ150mしか離れていない場所に2つの公会堂。
いったい何故こんな近くに作ったんだろう。風が冷たくて休む場所を探していたら
右側にトンネルの出口があって、その隣の草地がよい場所だったので休みます。
何のトンネルだろうとトンネルの上にあった碑を見たら、
豊川用水東部幹線水路
中藤トンネルって書いてありました。詳しいHPがあったので引用させてもらったよ。
ここを流れる水は、遠く知多半島の先端まで行って田畑を潤しているんだよ。

 
  
豊川用水のできるまで
  豊橋市を中心とする東三河地方は、古来より幾度となく干害に見舞われてきた地域です。
 特に渥美半島は大きな川がないために、日照りが続くと作物を育てるのに大変苦労してい
 ました。そこで、苦しむ人々のために何とかこの地域に豊川の水を引こうと考えたのが現在
 の田原市出身の政治家 近藤寿市郎翁(後に県会議員、衆議院議員、豊橋市長を歴任。)
 です。
  近藤寿市郎翁は視察に訪れたインドネシアでの農業水利事業をヒントに、豊川上流の鳳来町
 (現新城市)にダムを建設し、貯めた水を東三河地方に導水するという構想を抱きました。
 実現には地域の人々の協力が不可欠であることから、人々に構想を説き、自らも国等に精力
 的に働き掛け、先の大戦などでの紆余曲折がありましたが、昭和24年、宇連ダムを皮切りに
 国営事業として豊川用水の建設工事が始まりました。昭和33年には農業用水の他に水道用水
 と工業用水の開発が追加され、昭和36年に愛知用水公団に引継がれることとなりました。
 さらに愛知用水公団は昭和43年に水資源開発公団(平成15年に独立行政法人水資源機構へ
 改組)と合併し、20年の歳月を経て豊川の水は渥美半島、静岡県湖西市まで行き渡り、この
 地方の農業、工業における今日の発展の礎となったのです。
  その後、老朽化施設の改築を目的とした豊川用水施設緊急改築事業が平成元年に始まり(平
 成11年完成)、国及び愛知県で実施されていた豊川総合用水事業を平成11年に継承(平成14年
 完成)、また、同年には水路の複線化等により、さらなる効果的な水利用と合理的な水管理を
 目指して豊川用水二期事業の建設工事に着手し、現在もなお工事は進められています。

                  独立行政法人 水資源機構 豊川用水総合事業部


12時51分

 
 
 
 
用水の先には嵩山宿本陣跡があったよ。大きな民家とこの案内板だけが
寂しそうに建っているだけなんだ。嵩山宿の歴史は新しく、明和元年(1764)
なんだよ。どうして出来たかというと、宝永四年(1707)の宝永地震で
東海道浜名湖の今切の渡しが津波で通行できなくなったんだ。それで
旅人達がこの姫街道を通るようになり、人馬継立が急増して村人は姫街道
の通行止めを幕府に願い出たんだ。幕府も願いを聞いて通行止めに
したんだけど、浜名湖の通行を嫌った旅人が姫街道の通行をやめなかった
んだ。仕方なく幕府は姫街道に気賀宿・三ヶ日宿、そしてこの嵩山宿を
作ったんだよ。それ以降は大名も通るようになったんだよ。元々宿場にする
予定がなかったので東海道の宿場としては小さく脇本陣や旅籠は無くて
本陣1軒だけだったんだ。問屋場も大きな通行があるときだけ農家を
使っていたんだって。
13時10分


宿場の外れには秋葉山常夜灯が建っていたよ。面白いのは、
その周りを囲む塀がレンガ造りだってことかな。どう見ても明治時代の
香りがするってパパが感心していました。
13時16分


700mほどの宿場を抜けると、国道362号線と合流するよ。そこにこのページの
問題の答えがありました。信号機の上についた地名には嵩山(すせ)って書いて
有りました。「かさやま」かと思ったら
「すせ」なんだって。とても読めないね。
信号から340mは右側に新興住宅が広がっていました。そこには筆の里の
看板が、豊橋は筆で有名なんだね。伝統工芸品として経済産業省に認定され
ているのは、ここの
豊橋筆と奈良筆・熊野筆・そして広島の川尻筆だけなんだ。
バス停の名前が
自由ヶ丘って言うのも可笑しかったよ。東京みたいだね。
13時20分


自由ヶ丘の外れで目に留まったのは嵩山工房だよ。結構大きな船の模型が
たくさん並んでいて、中ではおじちゃんが一生懸命作っている姿が見られたよ。
13時30分

 

自由ヶ丘の住宅を抜けると天神川を渡るんだけど、国道で渡っちゃだめだよ。
国道から写真左の場所、バス停嵩山市場手前を左折します。写真中の小径を
進み突き当りを右折すれば
天神川を渡って、写真右で国道に戻るよ。たった
450mだけど立派に姫街道なんだ。みんなもこっちを通ってね。
13時34分

 
 
国道に戻ると、右の山が目立つよ。山を半分くらい削っているのは
中採長楽鉱山だよ。この会社で砕石した石が六本木ヒルズ
に使われたんだって。凄いね。写真中は、パパがタクシーで来るときに
チェックした喫茶店
カフェブリュージョンです。でも玄関まで行ったら
休みでした。折角暖かい部屋に座ってケーキが食べられると
思ったのにボクたちはがっかりしました。その先で100mだけ
旧道を歩きます。
交番の裏を歩く道だよ。前を通過したらだめだよ。
13時46分


100mの旧道を抜けると長楽寺の前に出るよ。そこにはこんな石碑が
あったので、座って休憩しました。でも暖かい部屋もケーキも無いんだ。
秋葉山常夜灯の下には
追分道標があったので、読んだらビックリ
左農道、右豊川だって、姫街道とは関係ない新しい道標だったんだ。
13時56分

 

長楽寺の5分先には長楽一里塚跡がありました。江戸から74番目の
一里塚だよ、京都までは53里なんだ。もう京都の方が近いってことだね。
14時03分

 

少し行くと茶房和楽という喫茶店とセブンイレブンが並んでいたよ。
また休めると思い期待したけど、定休日の大きな看板が手前から
よく見えてガッカリしました。コンビニにも椅子に座って食べられる
コーナーが無かったので先へ進むことにしたよ。この幟は、ボクたち
が大好きなスマホゲーム「
パズドラ」だったので少し元気が出ました。
その先は田圃の中を延々と伸びた道で、疲れが倍増してしまいました。
14時13分


写真にカーソルを合わせると分かるんだけど、右のトラックの前から右へ入るのが
姫街道なんだけど、遠くに喫茶店らしき店が見えました。どうやら駐車場に車が
あるので、もしかしたら開店しているかも知れません。いったらここまで戻らなくては
ならないけど、暖かい部屋での休憩に誘われて行ってみることにしました。
14時36分


やった~。喫茶店は営業していたよ。名前は珈琲茶の木。おしぼりをもらったら
暖かくて思わずほっぺたを暖めてしまいました。お約束のドリンクやケーキで
ボクたちは大満足でした。こんな日に開店してくれてありがとうございました。
14時40分~15時05分

 
すっかり元気が出たので、国道を120m戻って脇に入る姫街道を進みます。
突き当たると豊川の土手で、昔はここに橋があったのか渡しがありました。
今は無いので、土手を300m歩いて
当古橋を渡ります。右は渡っている
ところだけど、よく見るとボクたちは
宙に浮いてるよ。なんででしょう。答えは
前から来る車の影をジャンプしているんだ。休んだおかげで元気になったよ。
15時17分


豊川を当古橋で渡ったら、土手を右に80m進んでね。遠くに越えてきた
本坂峠もよく見えるよ。青サギがいたので、佐武は捕まえようとしてます。
15時27分


土手の途中にある小さな階段を下りると、旧市街が真っ直ぐ伸びてます。
この旧道は580mで国道に戻ります。
15時28分


旧道の最初の十字路に小さな社がありました。その前面には
時ハ吾人ノ生命ナリと書かれた石柱がありました。その上の部分が
四角くくり貫かれた状態だったので、パパは時計が有ったのじゃない
と言いました。やがて国道と合流して左にカーブしながら540m
進むと歩道を塞ぐように喫茶店
osteriaマイスがあったけど休み。
15時37分


三谷原神社の前を通って進むと左に寿命院があって、その付近に一里塚跡が
あるはずなんだけど見つかりませんでした。直ぐに国道362号と151号の
交差点で、ここでは横断歩道橋ではなく、トンネルをくぐって
国道151号
越えるよ。渡り終えた角には
熊野神社がありました。
15時57分


国道151号線の馬場町交差点から800m行くとJR飯田線と名鉄豊川線の
踏切があるよ。もうここからはボクたちの宿ホテルクラウンヒルズ豊川が
見えたので安心しました。踏切を渡ったところが今日の
ゴールなんだ。
17kmと山道ですっかり疲れたけど、何とか目標時間までに来れたね。
16時10分

 
おまけ
ボクたちがお世話になったのはホテルクラウンヒルズ豊川というホテルだよ。
11階建ての10階がボクたちの部屋なんだ。夕食は宿の人に勧められた、
地元の居酒屋
玉響に行きました。個室でゆっくりと美味しい料理をいただいたよ。


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