姫街道歴史民俗資料館で姫街道の秘密が!

 
 
ちょうどお昼時間に現れたのはこくりこ大山店だよ。立看板にメニューがあって
トロカツオの土佐つくり定食に引かれたママは、早速店の中へ。上の写真は
パパが注文した、和風にんにく醤油カツ丼。もちろんボクはカレーに、佐武は
盛りうどんです。ほとんど食事のできる店が無い街道でオアシスのようです。
11時59分~12時56分


レストランを出ると道は
和地大谷川に、向かって下ります。右には大きな
老人ホーム浜松ゆうゆうの里、しかし左側には遺品整理屋さんの看板が。
ちょっと複雑な気持ちになりました。大谷橋を渡ると再び登り坂です。
途中には細江町の
姫街道カーブミラーがありました。ジュビロミラーと似てる。
13時03分

 

大谷橋から6分掛かって坂を登ると、再び平らな道になるよ。200mほど進んだ
その先の交差点の道路標識下左側に
曲がり松と松島十湖の句碑
が有ったよ。説明板があったので書き写してみました。

 
    曲がり松と松島十湖の句碑

  ここには樹齢五百年を経て、あたかも地中から這い出て体が
 よじれた竜のような松があり、曲がり松と呼ばれていました。
 ここは姫街道と庄内二俣線(旧道)の交差点で、江戸時代には、
 気賀の領主や街道を通る行列を送迎した場所であったと言われて
 います。
  「松奏離歌」と題する俳人松島十湖の句碑は、明治十六年から
 引佐麁玉郡長を務めた十湖が、明治十九年二月郡長を辞した日、
 曲がり松まで見送りに来た郡民との別れの感懐を詠んだ句を刻んだ
 ものです。『別るるは また逢うはしよ 月の友』「月の友」とは
 月見の仲間、つまり友人です。友とは別れはまためぐり会う
 きっかけだよ、という意味です。
  「御巡幸記念」の石碑は、昭和五年六月一日、即位して間もない
 昭和天皇が巡幸の際この松をご覧になったことを記念し、旧中川村
 第十区が建立したものです。
  昭和四十八年、曲がり松は枯れてしまいましたが、名勝、史跡を
 後世に伝えようとする有志の努力により新たな松が植えられ、
 破損していた句碑も修覆されました
                          平成十六年三月
                         細江町教育委員会


13時14分


9kmも続いた長い県道もここで終わるよ。ここからは左の旧道に入って
静かな街道歩きが出来ま~す。あの右へ曲がれ~と言いたそうな道路
標識の付いたガードレールの隙間を進むと、確かに姫街道という道標も
あります。内山木工所も目印だよ。間違って県道進まないでね。
13時31分

 
次の信号のある交差点までは、左側に長いマキの生垣が続きます。
交差点の角には
六地蔵がありました。この後ろは竹やぶで、昔
刑場があったんだ。その霊を慰めるために六地蔵を建てたんだよ。
ボクが立っている後ろが刑場跡だけど、覗くと今でも昔のままで不気味。
13時35分


相変わらず、左側には長いマキの生垣が続き、高い鉄塔の下を
通って15分程行った左カーブの頂点に
老ヶ谷秋葉燈籠があって、
そこから右の小径に入ってゆくのが姫街道だよ。この秋葉燈籠には
秋葉講の説明板があり、秋葉信仰が良く分かったので写します。
13時50分

 
 老ヶ谷の秋葉山常夜灯(秋葉燈籠)

  笠柱部に「秋葉山 文化八辛未六月吉日 当所若者」と
 刻まれています 文化八(1811)年、この地域の人たちに
 よって建てられました。
  秋葉山は、かつて戦国武将や大名から武運長久の信仰
 を集め、第二次世界大戦の頃まで出征兵士と家族の信仰
 を集めました。今のように火防の信仰として広く普及したの
 は、貞享二(1685)年の秋葉祭以後といわれています。
 秋葉山の御幣や神輿を鉦や太鼓で村送りしたこの祭は、
 あまりの熱狂ぶりに幕府によって中止されました。しかし
 これをきっかけとして、庶民の秋葉山参詣が盛んに行われ
 るようになりました。
  秋葉山参詣の道を秋葉道と呼びます。この付近では、落
 合~川久保~船頭~祝田~デコロボウ坂~三方原~宮
 口に至る道筋と、清水~五日市~金指~都田~宮口に
 至る道筋が秋葉道といわれています。
  秋葉講は、講中でお日待ちをしたり費用を出し合って秋
 葉山の代参をしました。また常夜灯を秋葉道や村々の辻に
 建て、講中の家々が毎晩交代でお灯明を上げたりしました。
 今も続けられている地域もあります。
                      細江町教育委員会




秋葉燈籠から5分ほど歩くと、左側に千日堂があります。寛文十一年(1671)
呉石の近藤家下屋敷にあった観音石像を移して祀られたんだよ。宝永年間
には、千日講本尊として阿弥陀如来を祀り千日念仏を行ったので、千日堂と
呼ばれるようになったんだ。堂の前には南無阿弥陀仏の石碑もあるよ。
今でも毎月九日の夜、老ヶ谷の西平、中平、東平の人たちが集まって念仏
講が続いているんだって。ボクたちはお堂の縁に座らせてもらって休むよ。
13時53分~14時04分

 
 
 
千日堂から5分、行く手に突然大きなタンクが出てきたよ。ここで来た道を
離れ、左の小径へ入って行きましょう。すると左側に68番目の一里塚、
老ヶ谷一里塚跡があるよ。それではタンクに近づいてみましょう。
中央配水池って表札が出ています。パパに聞いたら中は水道水が
入っていて、高い地域に水を届けるためのタンクなんだって。
タンクの表面には姫様道中って書いてあってお姫様の絵が描いて
あるよ。他からは見えないと思うから、姫街道を歩く旅人のために
描かれたんだね。さて絵を鑑賞したら右の山道を下ります。
14時11分


この下りの山道は長坂といって、江戸時代の街道の雰囲気を感じます。
途中右側には服部小平太最期の地碑があります。これから行く
桶狭間の戦いに関係ありそうなので、パパが読んでくれました。

 
 服部小平太最期の地

  服部小平太(中保次)は、永禄三年(1560)五月十九日の桶狭間の
 戦いで、織田信長の家臣として、毛利新助らと共に、今川義元を討ち
 取った功労者であった。
  この地方が徳川の勢力下に入ると、小平太は信長亡き後、家康の
 家臣として、勲功によりこの地を治めた。もともと今川領だったこの地
 方には、桶狭間に出陣して戦死した者もあり、小平太に恨みを持つ者
 もあった。天正十五年(1587)六月十八日、小平太は単身このあたり
 を巡視の折、ここで何物かに討たれた。
  なお小平太の墓はこの下数十メートルにあり、祥栄院殿湖雲浄鑑
 大居士と刻まれている。
  またここより二百メートルほど北に、小平太を祀ったといわれる宗安
 寺の跡がある。
                     平成二年三月二十日
                     細江町教育委員会


途中で車道に出るけど、そのまま真っ直ぐ山道へ入ってね。
14時14分


元気よく山道を下ってゆくと、小さなお堂があり姫街道の標識がある場所で
車道に合流します。小さな集落の中を進んでゆくと、左に
新谷の宗安寺跡
あったよ。明治時代の廃仏毀釈でお寺は無くなっちゃったけど、石段と
石仏、庭などが残っているよ。集落を抜けると県道に出ます。そこで県道を
横断し、少し右にある小径に入ってください。右に田圃、左に小山が出てきたら
正解です。そのまま進むと、水路を渡る橋が現れます。
14時18分


この橋はとても小さい橋だけど、名前は大橋だって。下を覗いたら
小さな魚が気持ち良さそうにたくさん泳いでいました。橋を渡ったら
すぐ川に沿って左の道を行きましょう。
14時23分

 
 
水路に沿って進むよ。右のこんもりした山には金山神社があるよ、
14時26分

 
 
次に城下橋が現れたら左折して渡りましょう。真っ直ぐ行って都田川を渡る
落合橋をくぐって階段を登ってもいいけど、ここで左折すると、
金襴の池
案内板を見れます。その先の交差点には
刑部城址の案内板もあるよ。
県道に出たら右折して
落合橋を渡ります。江戸時代は江戸を守る要害の
川だったので、橋は架けられず、渡船でした。右手を見ると、都田川が右から
井伊谷川が左から流れてきて、ここで合流します。
14時30分

 
  金襴の池

  昔、この辺りには美しい金襴の蛇が住む大きな池がありました。
  今から四百余年の昔、この近くに刑部城という小城があり、城主
 が数十の城兵を擁して守っていました。
  その頃、浜松城に移って来た徳川家康は、その勢力を伸ばそうと
 戦いを繰り広げ、ついに家康の配下が多くの兵を率いてこの城に
 攻め込んできました。その勢いはものすごく、ひとたまりもなく敗れ
 てしまいました。
  その時、刑部城主には一人の美しい姫がおりましたが、姫は敵
 兵にかかって恥をさらすのを嫌いこの池に入って金襴の蛇に姿を
 かえ、池に住んでいると言うお話です。
  また、この池には一つ目小僧がいて時々日向ぼっこをしに姿を
 現したとか。これが世に言う河童だったのでしょうか。あるいは、姫
 の家来が姿を変え、姫に仕えていたのでしょうか。
  しかし、今はこの金襴の池も埋め立てられ現在は残っていません。



 
 
落合橋を渡ると、天竜浜名湖鉄道をくぐって、気賀四ツ角交差点です。
ここには江戸時代気賀の関所があったんだけど、今は復元したのが他の場所に
建っています。小さな広場の花壇の中に気賀宿の標柱がありますが、
ボクはその後ろにあった海抜1.9mの標識が気になりました。三方原台地を越えて
海から遠くへ来たのになんでこんなに低いんだろう。10mの津波がきたら大丈夫なのかなぁ。
14時42分

 
 
四ツ角から少し行くと右に細江神社があったよ。そこには面白いお話が
あったので紹介します。一つ目は大蛇と大蝙蝠の戦い。
14時45分

 
 大蛇と大蝙蝠の戦い

 むかしむかしの話ですがこのクスノキの大穴の中で大蛇と大蝙蝠が
 「このクスノキの主はおれだ・・・」とたがいに言いはりました。そのた
 めに大蛇と大蝙蝠はしだいになかがわるくなりついにおおげんかと
 なってしまいました。
 大蛇は長い体で大蝙蝠をぐるぐると強く巻きつけ大蝙蝠も負けていま
 せん、するどいキバで大蛇のからだに食いつきこの戦いは三日三晩
 もつづいたと言はれています。
 大蛇も大蝙蝠も血だらけになり、ついに力がつきはててしまいました。
 クスノキの空洞の中には、そのときに流したと思われる血のあとが
 あります。
                            細江神社々務所


もう一つは境内にある
藺草神社のお話だよ。

 
 藺草神社

  宝永四年(1707年)の十月、遠州地方で大地震があり、押し寄せた
 高潮のため、浜名湖沿岸の田に塩が入り、稲は全滅の状態でした。
  困り果てた村の庄屋達は、当時の気賀の領主近藤縫殿助用随公
 に、その苦境を訴えました。
  領民のためを思う名君であった用随公は、今後の稲作の事を、領民
 と共に思い悩みました。
  それからしばらくして、用随公は、大阪での会議で隣り合わせた豊
 後の国(現在の大分県)の領主松平市正に、領内の窮状を相談した
 ところ、市正は、「ほう、それはお困りじゃな。では、余の領内の豊後
 の藺草を植えたらどうじゃ。これは、塩に強いということでな」と言い、
 国元から琉球藺の苗を取り寄せてくれました。大いに喜んだ用随公
 はこれを持ち帰り、領内の田に植えさせました。
  これが、浜名湖岸一帯の名産物、琉球藺の始まりです。その後、
 琉球藺は周辺の各村に広まり藺草を使った畳表の製織は、冬の農
 家の副業として、この地方を潤いました。
  この藺草神社は、藺草をこの地方に始めて広めてくれた用随公の
 徳をたたえて造られたものです。


 
   

細江神社を参拝したら、そのまま西へ向かうと姫街道歴史民俗資料館
あります。次の電車は1時間後なので、ゆっくり見学しました。入口脇にある
茅葺の家は、
旧山瀬家のコヤ(産屋)だよ。昔はお産中の女の人は
血でけがれていると考え家族と離れこの家で暮らしたんだって。でも
本当は神様から授かる神聖な出来事なので大切にしたんだって。
この辺りでは明治の初め頃までこんな風習が行われていたんだ。
右の船は囲目網漁船と呼ばれる浜名湖で漁をする船だよ。この辺りの
民俗についての展示物もたくさんありました。
14時50分~15時15分

 
 
この部屋が、姫街道の史料を並べた部屋だよ。姫街道の歴史がよく分かるよ。
ボクが特に面白かったのは
犬くぐり」だよ。姫街道にもこの気賀に関所があって
入鉄砲と出女には厳しかったんだ。しかし街道沿いの正明寺という小さなお寺の
境内にむしろのかかった抜け道があったんだ、これが犬くぐりで、人間がこんな
ところをくぐって行く筈は無いと法律運用の妙があったんだって。土地の人が
毎日通行するのに大目に見てもらえる程度の抜け道と思いきや、旅なれた者
にはかなり広く知れ渡った抜け道なんだ。

 
 
もう一つ、面白い話は、姫街道の名前の由来。みんなは何で姫街道というか
知ってる?ここに書いてあったその説を紹介しちゃいます。

女性通行説1 東海道には入り鉄砲出女を取り締まる新居関所があり、
特に厳しい女改めを避けた女性が本坂通を通行したためとする説。
しかし、気賀関所でも女性に対する厳しい取調べが行われたことが
明らかにされています。

女性通行説2 東海道の新居宿と舞阪宿の間は今切れの渡しがあり、
航海の危険を恐れた女性が本坂通を通行したためとする説。
しかし、本坂通の本坂峠や引佐峠は険しい峠越えの山道で、
女性には厳しい道程でした。

女性通行説3 今切れという名前を不吉とした女性が本坂通を通行したと
する説。これも2と同様に、不吉というだけで厳しい道程を選ぶでしょうか。
しかも浜松宿から御油宿までの距離は、東海道よりも本坂通のほうが
2里以上遠回りとなるのです。そこでこれら以外にもいつくかの説が発表
されています。

ひね街道説 古代、中世から江戸時代初めまで、政治、経済、文化、軍事
など様々な要路として交通量も多く栄えた本坂通でしたが、五街道が制定
され17世紀には衰退する一方でした。さびれた本坂通りは「ひなびた=
ひねた」街道となってしまいました。そして「ひね」街道が「ひめ」街道に
読み替えられたとする説です。

脇街道=姫街道説 姫街道と呼ばれる街道は、この本坂通だけではあり
ません。中山道の脇街道で上野国本庄宿から信濃国岩村田宿に至る
下仁田街道も、「女街道」とか「信州姫街道」と呼ばれています。
そこで本街道に対する脇街道という意味で、小さな街道、姫街道という
名称が生まれたとする説です。

みんなは、どの説が本当か分かるかな。
ボクたちはママが通る街道だから姫街道だと思いました。

 
 
今日のゴール気賀駅に到着。ここの駅舎とプラットホームは昭和十三年に
できた、とても古いものなんだ。文化庁の有形文化財にも指定されています。
ここから天竜浜名湖鉄道で天竜二俣駅まで戻って、ホテルに泊まります。
15時25分


表紙のページへ 前のページへ 次のページへ このページの地図へ