恐怖の天竜川橋は、新新天竜川橋になり、安全に渡ることが出来ました!

第24日目 2013年2月11日

平均気温4.8℃ 最高気温9.3℃ 最低気温2.8℃ 平均湿度% 最大瞬間風速14.7m/s 降水量0.0mm 日照時間9.0時間
気象庁電子閲覧室より引用


東海道沿いにある、磐田パークホテルに泊まったボクたちは、
ホテルの最上階で、ゆっくり朝食を採ってから出発です。
佐武だけ洋定食で、3人はこの和定食をいただきました。


ホテル前で記念撮影して、いざ出発。ここから県道合流までは、
何となく
登り坂になっているよ。朝早いので影も長くなってるよ。
8時23分

 

この辺りを中泉と呼ぶらしく、公民館の前に江戸時代と大正時代の中泉を
描いた絵図があったよ。江戸時代には白山神社を挟んで、
東ドンドン、
西ドンドン
という川があったと、描いてありますが面白い名前だね。一方、
大正時代の絵図には
中泉軌道という線路が描かれているよ。これは大正時代
にあった人車といって人が押すトロッコみたいなもので、磐田駅から
ほぼ旧東海道に沿って、天竜川渡し場のある池田まで伸びていたんだ。
昔、佐久間の方から銅や材木を天竜川で運び、このトロッコで磐田駅まで
運んだんだよ。古い絵図っていろんなことが分かって面白いね。
8時30分


磐田パークホテルから1kmほど進むと、旧国道に合流するよ。左側は
磐田化学工業の工場で、正面にはそば処まつだや、国道の右手には
千寿酒造がありました。朝でよかった、夕方だったら間違いなくパパは、
工場見学なんて言って試飲・試飲と喜んでいました。200m行くと建物の
上から
恐竜が首を出していたのでビックリ。表に回って何だか分かったよ。
見たい人は、写真にカーソルを重ねてください。
8時40分


旧国道を進んでゆくと、左側に宮之一色秋葉山常夜燈があったよ。
この常夜燈は文政十一年(1828)に建てられたとっても古い常夜燈だよ。
竜の彫り物があるので、「竜燈」と呼ばれ、数ある灯籠の中でも大変貴重
な灯籠なんだよ。毎年、附近の代表が可睡斎にお参りして秋葉山総本殿
のお札をこの灯籠に奉納してるんだって。地域の人に愛された灯籠だね。
8時55分


豊田南小学校の手前に、新築の住宅を売り出していたよ。サーラガーデン宮之一色
という4LDKの建売なんだけど、ママが驚いたのは
駐車場が4台分あることだよ。
最近、ボクたちの家のそばの建売も2台分あるのが多くなってきたけど、4台は凄い、
この辺じゃ一人1台車を持った家族が多いってことだね。それともお客さんが車で
よく来る土地柄なのかなぁってママは悩んでいました。そんな家を見ていたので
宮之一色一里塚跡を見過ごしてしまいました。
9時01分


豊田南小学校の先で、道はY字路になって分かれます。ボクたちは旧東海道の
左側の道へと進んでゆくよ。先の交差点が森下南だから間違わないでね。
9時16分

 

この旧東海道は、880mで信号機のある交差点で突き当たり、右折します。
途中にあったのが
若宮八幡宮で、その先に長森立場跡がありました。
立場は宿場と宿場の間にあった休憩所だよ。茶屋もあって旅人はお茶を飲んで
休憩したんだ。宿場がサービスエリアなら、立場はパーキングエリアってとこ
かなってパパが説明してくれました。またここには
長森かうやくの説明があります。

 
 長森かうやく

 「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、
 山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」
 や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤
 交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として
 大変な人気を博しました。
  山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板が
 あります。この看板は、高さ1.4メートル、幅73センチメートル、厚さ
 3.5センチメートルという立派なもので、これには「御免 御むそう 
 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と刻まれており、中央の上には
 十六弁の菊の紋章も刻まれています。
  こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様の
 お告げによって始めたと伝えられ、当主が代々受け継いできましたが、
 現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻で
 あっても明らかにされることは許されませんでした。
  昔の歌に
 「諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく」と詠まれています。
                    平成十八年三月
                           
磐田市教育委員会 

9時31分


右折して440mで長森交差点だよ。ここで左折すると天竜川橋で、パパは過去
2回とも、この交差点を左折して京都に向かいました。でも今回は池田の渡し
まで行ってから戻って来ることにしたから、60m直進し国道1号線の
池田入口交差点を横断歩道橋で越えます。
9時37分

 
ここが国道1号線の池田入口交差点だよ。カーソルを重ねると分かるように、
ボクたちは、左から右へ進みます。池田の渡し場を見ない人は、この交差点を
左折して黄色の矢印のように新天竜川橋へ直接向かうと良いでしょう。
池田へ回ると約2kmの遠回りになるよ。

池田に向かったボクたちは、バイパスの下をくぐって、更にY字路を左に進みます。
やっぱり街道らしい建物が残っていました。古民家を利用したステージ97という
演劇事務所も有ったよ。
9時50分


続いて石灯籠タイプの常夜燈、そして漆喰の蔵などが現れます。
突き当たりを左折すると、すぐ天竜川の土手に出るよ。
9時54分


土手で見つけたのが、天龍川渡船場跡碑だよ。地図にも描いたけど
天竜川には渡船場がいくつかあったんだ。真ん中に大きな洲があって
一回その洲の上を歩いて進み、再び渡船に乗るという不便な川だったんだ。
渡船は、戦国時代からあったけど、徳川と武田の合戦のとき、池田の村人が
舟を出して徳川軍を助けたんだよ。それから池田に渡船の独占権が貰え
明治時代まで続いたんだって。対岸は中野町だけど当時は
船越一色村があって、そこにも与えられたんだ。今、天竜川橋が渡って
居る辺りの川は、1本だけど、この池田の前の天竜川は、今でも洲があって
2本だよ、大きい方池田側が大天竜川、一色川が小天竜川と呼ばれて
いたんだけど、今は一色側が大天竜川だね。
10時05分


今日はとっても風が強くて、気温4.8度瞬間最大風速14.7m/sだから
体感温度は-10度だよ。とても土手の上を歩ける状況じゃないので、ず~っと
一段下を歩いて来たよ。ちょうど風の当たらないスポットを見つけたので
休憩することにしました。パパとママは、ボクが寒くて怒った中山道の荒川土手
を思い出したって懐かしがっていました。そこはもっと寒くて、風を避けるには
寝転ばないとだめな場所だったんだって。ここはまだ快適だよって。
そのまま、土手下を進むと、土手から磐田市内へ行く道路と、新天竜川橋に
阻まれて進めません。橋の下をくぐるトンネルも見えたのですが、明かりも
歩道もなさそうだったので、天竜川の方へ土手を降りて、河川敷を歩いて
新天竜川橋と天竜川橋をくぐって、天竜川橋の東詰に上って行きました。
10時16分


 
 
河川敷から土手を登ってガードレールを跨ぐと、天竜川橋の東詰です。
パパは、過去2回ともここを渡ったけど、橋を見ると昔のままで歩道はありません。
新天竜川橋には立派な歩道があるのが見えたので、今回はボクたちも
いるし、車の人に迷惑だから新新天竜川橋を渡ることにしたよ。
10時20分


これが、新新天竜川橋の広大な歩道だよ。これなら安全に天竜川を渡れるね。
左の14連トラス橋が天竜川橋で1933年に完成し、パパが2回渡った橋だよ。
ボクたちが渡っているのは、2006年に開通した新新天竜川橋で、その右隣に
1965年開通の新天竜川橋があるんだ。でも歩道があるのは、この橋だけだよ。
さっきの池田入口交差点を左折すれば自動的にこの歩道へ来れるよ。
10時22分

 

新新天竜川橋は長さ912mで、ボクたちの足で18分かかったよ。途中で佐武は
川の中に魚を見つけて大騒ぎ、欄干に足をかけて下を覗くもんだから、
ママに怒られてばかりいました。遠くにノッポのビルが見えたよ。パパに聞いたら
あのビルは、浜松駅前にある
アクトタワーで高さは、212.77mで静岡県で一番
高いビルなんだって。1994年8月に出来たので、2000年にパパが来た時も
有ったんだね。川を渡ってから東海道はあのタワーを目指して歩くけど、
ボクたちは姫街道に入るから、横目に見て通過しちゃうんだって残念。
10時32分


この一枚は、佐武が撮った傑作です。これもきっとカメラを地面に置いて
撮ったのでしょうが、中々大人に出来る技ではありません。つい先を急ぎ
いい加減にシャッターを切ってしまう場合が多いのですが、歩きながら
このアングルで瞬間に撮るというのは、今回彼が会得した手法なんでしょう。
大河の時の様に、道のある風景写真コンクールに応募させましょう。

 
 
橋の終点に国道Kmポストの250を発見。ボクたちは258.5km歩いて
ここへ来ました。橋を渡りきったら、そのまま右の写真の
小さな公園
休憩しましょう。これから進む中野町の案内板があり、今東海道は
どうやって進むのかがよく分かるよ。
10時40分

 
 
公園にあった案内板がこれだよ。左の現在地って書いてある場所が
この公園です。パパはここから茶色の実線のように土手の道を進んで
六所神社のところでUターンして中野の町へ入ったんだけど、土手には
歩道が無くて危ないんだよ。でも今回は、案内板にあるように破線のように
土手じゃなくて一本裏道を進んでみます。この街にも軽便鉄道が
有ったみたいで、その終点跡が裏通りにあるみたいだよ。
公園には自転車の父子がいて、東海道を走っているみたいでした。
ボクたちは自転車苦手なので、危なくて国道なんか走れません。
10時41分


まずは、天竜川橋を渡ってきた道を横断して、歩道をすこし進み
黄色の矢印のところから下の道へ階段で降りましょう。そのまま
170m進むと六所神社のところに出るよ。裏通りで車もいないので
安心して通れる道だよ。途中左に、この道は
横町通りと言って
昔は賑わったって書いてあるよ。江戸時代は一色の渡船場へ
向かう旅人で賑わい、大正から昭和の始めは、天竜川を利用した
流通が盛んになって、木材を筏に組んで川を下る人や、上流の
久根銅山・峰の沢銅山から鉱石を運ぶ帆掛け舟の船頭たちで
賑わったんだよ。この通りには船屋・小料理屋・銭湯・床屋・
魚屋なんかが軒を連ねていたんだって。でも今は、お店も無くて
静かな通りだよ。またこの裏には明治天皇の碑もあるんだって。
10時53分


ここが、中野町の道路元標があるT字路で、京方面から振り返ったところだよ。
後ろの社が六所神社、左が横町通り、右が旧東海道だよ。パパは、右から来て
後ろへ進んだけど、ボクたちは左から来て後ろに進みます。
10時54分

左が、中ノ町道路元標だよ。道路元標というのは、市町村の道路の起点・終点を
示したもので、大正九年の旧道路法によって日本中の市町村に1箇所つづ
付けなければいけなかったんだ。だから当時の市町村の数12244基あったん
だけど、今残っているのは1600基ほどなんだって、静岡県内で現存しているのは
ここだけのとっても貴重な道路元標なんだ。パパは塩の道でも糸魚川町道路
元標を見てきたんだって。あとの1598基はどこにあるんだろうね。

右は
六所神社だよ。みんなはここ中野町(中ノ町)は何で中野町っていうか
知ってる。この町の案内板には書いてあるんだ。それは、十返舎一九の弥次さん
喜多さんにも出てくるよ。
「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも
六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」

つまり、東海道ど真ん中というわけみたい。でも掛川の仲道寺や、どまん中茶屋
のあった袋井宿もど真ん中、いったいどれが本当のど真ん中なの?
パパが歩いた東海道は1回目が名古屋市内を国道で通過したので、
514.7kmでど真ん中は、天竜川東詰。2回目は宮の渡しから舟で桑名まで
行ったので、歩いたのは491.1kmでど真ん中は、木原畷古戦場辺り、
宮の渡しは海上八里というので、それで計算すると、523.1kmで真ん中は
この中ノ町ということになるよ。


町の中心に向かって進むと、右に中野町銀行跡があったよ。昔賑わったこの町に
明治十五年左の写真の場所に竜西社が結成され2年後に中野町銀行になったんだ。
その後西遠銀行と合併し、遠州銀行となり、今の静岡銀行に吸収されたんだ。
昭和49年まで建物がありました。右の写真は新しいけど、昔風に建てられた
素敵な町屋だよ。通り過ぎて気が付いたのは
昔風のゴミ箱、パパも子ども時代は
このゴミ箱を使っていたんだと懐かしくて写真撮っていました。
10時56分

 

次々に案内板が現れます。左の写真は、
天竜川橋紀功碑だよ。天竜川橋を
架けるのに功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑だよ。天竜川橋といっても
明治の話で、明治天皇が東行するとき、安全に川を渡れるように船橋を架けたんだ。
その後も架け直したりして明治二十七年に功績をたたえこの石碑が出来たよ。

写真中は、古い立派な石の蔵で、前は向かいにある
うなぎ中川屋の駐車場に
なっています。大勢団体客が外で待っていたので、パパは諦めて進みます。

写真右は、
東橋跡でここには小川が流れていて土橋が掛かっていました。
この辺りには、明治後期に製材所で賑わったため、旅館・芸者置屋・小料理屋
洋食屋・玉突き・カフェなどの店が軒を連ねてうたんだよ。
10時59分


更に進むと、軽便鉄道軌道跡があります。軽便鉄道は、明治四十二年から、
浜松~中野町間を走っていたんだよ。けいべんと呼ばれたこの列車は、
ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで客車1両を引いて軒先すれすれを
走っていたんだ。昭和三年以降は、軌道自動車に変わり、昭和十二年廃線に
なったんだよ。すこし進むと奥山大権現があって、その灯籠の前にベンチが
あるよ。このベンチは
東海道お休み処協力隊のベンチだよ。ボクたちも
ありがたくベンチで休憩させてもらいました。ありがとう。
11時06分


左の写真は、かやんば高札場跡だよ。かやんばって何だろうって思ったけど
説明は有りませんでした。右は
松林寺です。そろそろ中野町も終わりだよ。
11時07分

 
 
中野町の外れには、明善記念館と明善生家が街道を挟んで向き合っているよ。
この写真は金原明善翁生家だよ。明善は明治時代の実業家で、天竜川の治水に
尽力した人だよ。江戸時代からこの辺りの天竜川はよく氾濫して両岸の農民を
苦しめてきたんだ、それを明善が治水事業を起こし、村人たちを助ける仕事をしたんだ。
11時09分


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