快晴なれど風強しの袋井は、連休中日で静かな街歩きができました!


原野谷川を同心橋で渡れば、掛川市から袋井市に入るよ。
橋の上から下流を見たら、護岸のコンクリートがなく昔の川が
流れていたよ。パパは首都圏にもあったこんな川で遊んだって。
四手網持って川の中で遊びたくなっちゃった。
10時15分

     
 
橋を渡りきったら、左の道へ降りてください。右側にはトイレのある公園もあるよ。
そこから旧道はS字を描くように曲がるから案内板見ながら進みましょう。
10時18分


街道は、松並木の中をくねくね曲がりながら3km程進みます。
途中こんな
駕籠のような案内板がたくさん有るけど、なんだか分かるかな。
パパは、ただの観光用モニュメントだと思っていたんだ。ボクがその正体を
発見したんだよ。実はこれ、ごみ収集のコンテナなんだ。とっても洒落ているね。
10時22分


右側に大和ハウス中部工場のフェンスが500mも続きました。ボクたちは喜びました。
何でかと言うと、テレビでやってるあの「
ベトナムにも大和ハウス」のCMが大好きなんだ。
二人で、CMでやってるダンスをしながら進みます。動画を観たい人はこちらで観てね。
と言っても、このときは2013年の2月だから、何年も経ったらきっと違うCMやってるね。
10時25分

 
 
この辺りで目立つのが、この富士浅間宮の赤鳥居だよ。鳥居に向かって
右が大和ハウス中部工場、左がダイオ化成袋井工場だよ。その真ん中の道が
浅間宮への参道で鳥居縄手って言うんだよ。本殿までは800mあるので
今日は寄り道しなかったけど、大和ハウス工場の手前の松並木からその
大きな瓦屋根が見えていました。浅間神社と言ったら、富士宮市の
富士山本宮浅間大社が総本宮とされていて、富士山をご神体にした神社
なんだ。大昔、富士山の神様は
福慈神だったけど、奈良時代から噴火する
ようになって
浅間神とも呼ばれるようになったんだよ。浅間(アサマ)は火山
という意味で、中山道の軽井沢にあった浅間山も同じだよ。だから両方の
神様を祀った富士浅間宮なんだね。この辺からも富士山見えるのかなぁ?
10時31分


赤鳥居の下には本殿への道標があるよ。時間のある人は、寄ってみたいね。
ボクたちの今日の行程は、最長不倒の19kmなんだ。ちょっと行けないね。
上を見上げると、この辺りの松並木も大きくなりました。
10時33分


工場のフェンスは、結局1kmも続きました。この間は街道も松並木が
続き、こんな感じの歩きやすい歩道が延びています。この辺りで、後ろから
追いついた同行の士がボクたちを抜いて行きました。普通の街道ウォーカー
は、一日20~30km歩くので、忙しいんだってパパが教えてくれました。
ボクたちは中山道を45日かけて歩いたけど、みんなは22日前後なんだ。
ゆっくり歩いたほうが、思いがけないものを発見できるのに・・・。
10時36分


工場が終わった信号機の有る交差点の角に、面白い看板を佐武が発見。
痛みのクリニックって凄いネーミングだね。これはどういう意味なんだろうと
みんなで話しました。パパ「伊丹クリニックを洒落たんじゃないの」。
ボク「行くと注射されて痛くなるクリニック」じゃない。佐武「痛みのとれる
クリニック」に決まってるじゃん。さてみんなはどう思う。と言うようにボクたち
は、ゆっくり歩いているから、こんな看板で盛り上がちゃうよ。
交差点の先、袋井東小学校にあるのが
久津部一里塚跡だよ。江戸から
60番目の一里塚だよ。ボクたちの行程でここは、239.78kmだから
ピッタリだってパパは驚いていました。
10時45分


中山道の蕨市立西小学校から始まって、街道沿いに小学校があると
毎回、記念写真を撮ってきました。ここは
袋井東小学校で、校門には
東海道五十三次どなん中東小学校って表札が出ていました。かっこいい!
学校の紹介は、そのページで詳しくしちゃうよ。向かいにあったのは
油山寺道標油山寺はここから3.3km北へ行ったところにある
お寺で、1300年前に建てられた古刹だよ。昔、天皇が眼の病気になり
ここの霊水で洗ったら治ったというので、それから眼の霊山になったんだ。
みんなも眼で困ったら、お参りに行くといいかもしれないね。
10時49分


旧道歩きで困るのがトイレ、またしたくなっちゃたところに出てきたのが、このお店
TSUTAYAさんありがとう、トイレと自販機、お世話になりました。その先に
あったのは
七ッ森神社。ちょっと面白い案内があったので、紹介しましょう。

   
        
史跡  七ッ森神社

  七ッ森は田圃の真ん中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩士高力
 猿猴庵が天明六年(1786)に、東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」
 に描かれています。
  その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ッ森神社です。
  この七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇
 の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七
 人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしまいました。哀れ
 んだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。
  神社には古墳時代にこの地方を治めていたと考えられる久努国造が祭神
 として祀られ、周辺に久努、久野、久能そして国本などの扁額が納められて
 いたり、七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努
 国造にゆかりの深い場所であったと考えられます。
      平成10年3月25日
                                袋井市教育委員会


 

こうして読んでみると、古墳時代の遠江の国には久努国造(くにのみやつこ)が
居て、この辺りを納めていたということが分かります。8世紀の話が、この
小さな神社に生きているということが凄いことだと、ボクたちに話しました。
11時22分


七ッ森神社前の街道は、右に左に曲がりながら続いているよ。
新しい道には無い曲線だね。パパはこんな道が大好きなんだって。
今の道は、なるべく真っ直ぐになるように、邪魔者があっても壊して
作られるけど、昔の道はきっと、田圃やお地蔵様なんかを避けながら
作られたんだろうね。
11時23分


ボクが撮っているのは、大谷石の塀にあった松竹梅だよ。なんで松竹梅の写真
撮ってるか分かる。それはボクたちが好きなゲーム「太鼓の達人」の難易度なんだ。
この上に「オニ」があってそれが最高難易度なんだよ。だから目に付いたんだけど
パパたちには、何のことだか分からないんだ。みんなは知っていましたか。
まだまだ続く松並木でパパ
得意のポーズで記念写真です。
11時25分

 
長かった旧道も終わり、県道と合流すると「新屋」の交差点です。この交差点を
左折して再び旧道を袋井宿に向かって進みます。写真左(新屋手前で、信号
渡って左折)、写真中(左折するとすぐに有る西新屋の標柱)、写真右(新屋から
25mのところに有る右折する場所)。この
白畑ふとん店の手前を右の小径へ
入って行くのが旧東海道だよ。しっかり案内板があるから迷わないよ。
11時35分


この旧道は350m続くけど、ちょうど真ん中にあるのが新屋の秋葉山常夜灯だよ。
秋葉山は、ここから北へ直線で26kmいった山にある秋葉山三尺坊大権現の
ことで、火伏の神様として江戸時代に庶民が信仰した神様です。関西や関東、
東海では秋葉講ができて参拝する人が多かったんだ。また各地に常夜灯が建て
られて、行かれない人も拝むことが出来たんだよ。常夜灯というと石灯籠形が
多いけど、この辺りには
木造屋形の常夜灯も多くあるんだよ。そのひとつが
この常夜灯で、見事な彫り物が施されている立派な常夜灯です。
11時38分

 
昔の街道はそのまま真っ直ぐ進んでいたんだけど、袋井市総合センターが
出来てぶつかっちゃうので街道はクランクになりました。この市役所前の
大通りを左折して、「袋井市役所南」交差点を渡り、更に右へ渡りましょう。
11時41分


袋井市役所南交差点手前左にあるのが、喫茶店のAnneです。
1999年3月6日にパパがお昼ご飯を食べたお店です。今日も
ちょうどお昼なので、入ろうと思ったら連休で役所が休みのためか
お休みでした。とっても残念とパパはガッカリしてました。
13年前にまた来てねと言われ、折角来たのみ休みとは・・・。
でも、お店の構えが昔と同じで、しっかり営業しているんだなと
パパは喜んでいたよ。また10年経ったらボクたちが来るかも。
交差点を右折すると、広岡排水に架かる
天橋を渡って、袋井宿に
入るのだけど、そこに弥次さん喜多さんの書割があったので
思わずパチリ。ここ天橋は江戸時代からあって当時は宿場の
入口の土橋だったんだ。
11時43分

 
 
 
袋井宿の東の入口、高札場跡の向かいにどまん中茶屋はありました。
ここで道はY字路になっているけど、東海道は左です。それでは
寄って休んで行きたいと思います。
11時46分


茶屋は小さいけど、暖房が効いてとっても暖かいよ。おじちゃんがお茶を入れて
くれたので、お話しながら休んだよ。パパが1999年に来たときは無かったじゃないって
聞いたら、次の年に出来たんだって。茶屋の中は昔の写真や、ここを訪れた人の
記念写真でいっぱいだよ。ボクたちが日本橋から歩いて来たって行ったら驚いて
いました。そしてお土産に巻物になった宿場の地図をいただきました。
パパは芳名帳に記帳したんだけど、名前の下に「風の吹くまま」って書いたんだ。
そしたら、次の日ボクたちのファンの大久保さんYumiさん夫婦が、それを見つけて
メールをくれました。大久保さんたちも街道ウォーカーで、1日違いの行程にびっくり。
12時06分

 
 
茶屋から200m進むと左側に青島クリーニング店があります。ここは1999年に
パパが来たとき、東海道袋井宿通過証明書を発行してくれたおじちゃんがいる店だよ。
右の写真がそのときのお店です。しかし今はすっかり立派なお店になっていてパパは
びっくりしていました。早速おじちゃんに会いたいと思ったのですが、あいにく
連休の為かお休みでした。さっきのAnneといい、ここといい残念とパパはガッカリ。
12時10分

 
その先、右に入る小径に面白い案内があったよ。そこには秋葉線軌道跡って
書いてあります。昔、ここには線路があったってことなんだね。調べたら
それは静岡鉄道の路面電車なんだ。袋井駅から北上して遠州森駅まで
通っていたんだ。開業は明治35年で、当時はお茶や野菜を袋井まで運ぶ
馬車鉄道だったんだ。その後景気が良くなり電車になり、太平洋戦争の頃は
町の人が農家へ買出しに行く電車になって、お客が屋根の上にも乗るほど
賑わったんだよ。しかし車社会になって昭和37年に廃止になってバス路線
に代わったんだ。バスも良いけどボクはやっぱり電車が好きです。

そのお隣には、東本陣跡がありました。袋井宿には3つの本陣があって
それぞれ、東本陣・中本陣・西本陣と呼ばれていたよ。東本陣は
壱番御本陣
とも呼ばれ、代々田代さんが営んでいたんだ。建坪は288坪もあったけど
その後、郵便局となり、それも無くなり今は門しかありません。
12時12分

 
 

静橋北交差点は、左折すると690mで袋井駅へ行けるよ。その角にあるのが
袋井宿場公園です。とても広くてトイレや風の避けられるベンチがあって休憩
には持って来いです。ここに袋井宿の説明があったのでパパに読んでもらいます。

 
      -歴史の道 東海道ー
   袋井宿

  袋井の宿が初めて歴史史料にあらわれるのは、約七〇〇年前につくられた
 「遺塵和歌集」の次の一節です。
   「・・・なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の・・・」
  これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい
 」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と懸川宿の間に記さ
 れていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を
 整えていたものと思われます。
  鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。特に
 戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備はもっとも重要な課題の一つでした。
  徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六(1601)年に、いわゆる「東
 海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。袋井宿は比較的距離の
 ある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二(1616)年に開かれました。
 「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど東海道の
 真ん中に位置しています。


というわけで、この街ではどこへいっても「どまん中」って書いてあるんだね。
12時15分

 
 
   すっかり休んだので出発すると、右側の魚屋さんの店先に、
 
中本陣跡の碑を発見。その先右の公園が西本陣だよ。

 その先には
どまん中丸凧ギャラリーがありました。
 袋井の名物なんだって。広重の諸国名所百景にある
 遠州秋葉遠景袋井凧にも出てくるよ。デザインが広重と
 同じだね。唐獅子牡丹といえば健さんじゃんってパパが、
 何のことだかボクたちには分かりませんでした。
 12時20分

 

左に本町宿場公園を見て、宇刈川を御幸橋で渡ると袋井宿も終わりです。
しかし、酒屋さんのシャッターはまだどまん中をアピールしてくれました。
12時26分

 

袋井中学校北交差点を渡ると、東海道どまん中西小学校だよ。本当は袋井西小学校
なかなか洒落ていて良いね。ちなみに北小と南小もあるんだ。中に池があったので
ちょっとお邪魔してみたら、佐武が池の中にイモリを発見して大騒ぎ、パパも駆けつけて
カメラを構えたけど、撮れませんでした。代わりに
二宮金次郎の写真を撮ったよ。
その脇に小学生に向けたいい話が書いてあったので紹介しちゃうよ。


 二宮金次郎のこと
   (1787~1856)
 二宮金次郎はこどものころあたたかい家庭で育ちましたが、大水で家や田畑を流され、
 両親もなくなってしまいました。
 そのような中で苦労して働きながら勉強しました。
 この銅像はその時のものです。
 やがて家をたてたり、田畑をかってふやしたりしました。
 大人になって名前を尊徳(そんとく)と変えて、生活にくるしむ人や村をたすけました。
 二宮尊徳の教え(報徳ほうとく)は
 一、まごころをもって人に接すること   (至誠 しせい)
 二、よく働くこと                (勤労 きんろう)
 三、自分の収入にあった生活をすること (分度 ぶんど)
 四、おもいやりの心をもつこと       (推譲 すいじょう)
 です。
 今でもこの教えを守っている人が全国にも、袋井にもたくさんおります。

 

パパは、子どもの頃お父さんが早く亡くなって、隣の小学校長先生に色々な
ことを学んだんだって、その中に「まごころ」という本があって、小学1年生から
六年生までの6巻を今でも大切に持っています。もちろん廃刊になっていて
言葉遣いも背景も、現代の子どもには通じないので、内容をそのままに
現代の物語に書き直して出版したいなぁって言っています。その本の中にも
この尊徳の教えがちりばめられているんだって。早く作ってよ。
12時30分

 
 
 

小学校の隣は、旧澤野医院だよ。澤野先生は、享保12年からここでお医者さんを
やっていて、昭和の初めまで頑張っていたんだ。街道沿いにある医療建築は珍しいそうです。
12時40分

 
 
お腹空いたけど、旧道にはまったく食べる処が無くていやになっちゃうよ。
川井交差点で県道と合流し、その角にガストと
吉野家がありました。
パパがガスト行こうと言ったけど、ボクたちは吉野家がいいということで
入りました。ボクは牛チーズカレーの大盛、ママと佐武は牛丼、パパは
大山街道青山の吉野家と一緒で焼味豚丼十勝仕立てを食べました。
中々土地の名物料理が食べられんとパパは怒っていました。
12時50分~13時20分

 

TSUTAYAの前で見つけた大きな鶏に大興奮のボクたちだよ。
13時21分

 

ここには、ボクたちの好きなBOOK-OFFもあって、早速買い物に行きました。
ボクたちの家のそばにもあって、時々買いに行くんだ。さてお小遣いでボクたちが
買った物は何でしょうか。答えはマウスを写真に合わせると見えます。
松橋川を渡ったら右の小径へ入るのが旧東海道です。ここの旧道は500mと
短いけど、見所が二つあるので、省略しないで寄って行ってね。
13時23分~58分

 
 

まずは、日本橋から六十一番目の木原一里塚だよ。南側の塚がしっかり残っています。
ボクたちは、中山道の頃から一里塚を見つけると駆け登るのが習慣でしたが、お腹の
牛チーズカレー大盛が邪魔して、駆け登ったのは佐武だけでした。佐武は上からたくさん
写真を撮っていました。ボクは下にあったベンチで休憩です。
14時02分

 
 
その先の右側には許禰(こね)神社があるよ。この神社は古くは木原権現社と呼ばれ、
ある日、木原の子どもに熊野の神が乗り移り、ここに熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ
穀物の実りを豊かにするとお告げがあって、天災に苦しんでいた村人は早速、熊野の
神様を祭ったんだ。これがこの神社の由来だよ。また、神社附近はは
木原畷といって
元亀三年(1572)に武田信玄が徳川家康を破った三方原の戦いの前哨戦が行われた
ところなんだ。
14時05分


他にもこの神社の境内には徳川家康腰掛石というのがあって、ボクも座ってみたよ。
普通は碑が良く見えるように前から撮るんだけど、パパはこのアングルが気に入ったらしい。
目の前は新しい住宅が並んでいるけど、パパの目には合戦場が見えるのかもしれないね。
14時13分

 

県道に戻って150m、この小さな川、蟹田川が袋井市と磐田市の境です。
この川を西木橋で渡ると集落を抜け、展望の良い田園風景が広がってきます。
14時29分

 
 
太田川を三ヶ野橋で渡ると、右側から国道1号線の袋井バイパスが近づいて来たよ。
今日最後の難所は、この先の登り坂なんだ。ちょっと疲れちゃったボクに登れるか不安です。
14時32分


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