小夜の中山は、最初と最後がとっても急坂だよ!



菊川の里からいよいよ登るのが、小夜の中山の道、両側に茶畑が広がる
素晴らしい道だけど、とっても急な坂なので頑張って上ってください。
ボクが気になったのは、茶畑の真ん中に立っていた
柿の木です。
9時55分


どんなに急な坂か、ママがマジックを見せてくれたよ。マイケルジャクソンみたいに、
傾いているママだけど、カーソルを写真に合わせて種明かし、この坂道の勾配は
16度なんだ。中山道中津川の与坂が17.19度だったからちょっと負けました。
たった8分急坂を登っただけで、くたびれちゃったので休憩。佐武も写真を撮ります。
10時05分


だんだん登ってゆくと後ろに諏訪原城があった台地が良く見えるようになるよ。
あの山から下りてきて、あの時見えたアンテナの山に登っているって良く分かります。
坂も少し緩やかになってきた場所に、島田市と掛川市の
市界があります。
小夜の中山の中山は、もともと交通上の境界を指す言葉だから、ここが昔、
徳川領と武田領の国境の山だったのかもしれないね。小夜はサヨと読むけど
昔はサヤで、その語源は塞の神(セエノカミ)で村の境を守り、外部からの悪霊を
入れさせない神だったんだ。つまり、古い国境があってそれを守る神様を
祀った山だから、小夜の中山と呼ばれたんじゃないかな。
10時18分


頂上付近の茶畑では、おばちゃんたちが一生懸命新茶の芽を摘んでいたよ。
手前の畝はもう摘んだあとで、二列目の畝のおばちゃんの右に新芽が見えるでしょう。
10時24分


やっと、頂上にある
久延寺に到着、登るのに30分もかかったよ。久延寺は真言宗の寺で、
山号を佐夜中山というんだ。本尊は聖観音で、昔住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、
子は成長して親の敵を討つことができた。これは本尊のご加護によるものという、夜泣石の
伝説に因み、子育て観音と呼ばれているんだよ。また、慶長五年(1600)掛川城主だった
山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝を打ちに向かう徳川家康を
もてなしたんだって。右の写真は
夜泣石のレプリカで、本物は国道1号線にあるんだよ。
10時28分



   伝説 小夜の中山 夜泣石

  その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の
 丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかか
 り介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
  その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった
 丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」
 と言った。
  傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な
 若者となり大和の国の刀研師の弟子となった。
  そこへ轟業右衛門が刀研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年
 前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、
 母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
  その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。

                   文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より
 

 
 
パパは、この店に来たのは3回目だけど、開いていたのは初めてだと、大喜びです。
ボクたちもなんだかうれしくなりました。この
扇屋の主人は、あとで茶畑で会うことになる
おじちゃんで、その妹のおばちゃんが店を預かっているんだって。開いているのは土日
だけだから、パパは遭遇しなかったんだね。中は東海道の手拭や取れたての竹の子
なんか売ってるよ。パパは、やっぱり名物の子育飴がなめたいと4本注文したよ。
10時36分


すると、おばちゃんは店先に有ったカメの中に割り箸を突っ込んで飴を作ってくれました。
絶対に噛んじゃ駄目だよ、歯にくっ付いて取れにくくなるからって言われ、椅子に腰掛け
舐め始めました。それがとっても美味しい飴で、ボクたちが今までに食べたことの無い
味だったよ。昔から変わらない味だよっておばちゃんは言ってたけど、江戸時代の人の
方が美味しいものを食べていたんだね。町で売ってる飴は、刺激が強かったり、やたら
甘かったり、変に果実の味がしたりで美味しくないけど、この飴は自然の甘さで最高です。
あまり美味しかったのでパパにねだって、1パックお土産に買いました。割り箸のは100円
で、パックは500円だよ。家に帰ってからも楽しめる良いお土産になりました。


扇屋の看板を見たパパは、「あっ、東海道関宿の深川屋の銘菓関の戸の看板と同じだ」と
喜びました。関の戸は、上方から来る人には
関能戸と見え、坂東から来る人にはせきの戸
見えるんだって、ここも上方から来る人は
扇屋、坂東から来る人にはあふきやになってるよ。
これは、上方の人々は漢字が読めるけど、坂東の人は読めないというサービスなんだ。
扇屋の向かいには西行の大きな句碑が立っているので、おばちゃんに解説してもらったよ。

 
    西行歌碑
   -
生涯二度目の難所越えに詠む-
  西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、
 その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。

   年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山

  
二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で
 人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年六十九歳の作である。
 この歌は、文治三年(1186)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進の
 ため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみ
 と歌ったものである。
  小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕と
 しての小夜の中山の名を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。
  当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)を越えることすら相当の旅行であった
 という。奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格
 的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから六年後の鎌倉幕府の開設以降である。

 

西行さんってボク知ってる。中山道でも十三峠や醒ヶ井に出てきた人だからだよ。
奥州へ行くとき、行きは東海道、帰りは中山道を歩いたんだよ。
11時03分


ず~っと気になっていたのが、この粟ヶ岳だよ。何でかって言うと、山に茶という字が
書いてあるんだよ。頂上直下まで車で行けて売店や神社もある山なんだ。ここからは
直線で4km程だけど、茶の字がよく見えるでしょう。あの字お茶の木でできていると思っ
たけど、よく見るとかなり大きな木だね。
11時05分


お茶の工場を過ぎてちょっと行くと左側に佐夜鹿一里塚跡がありました。この一里塚の
面白いところは、江戸から何里目の塚だか分からないところです。周囲から推測すると
五十六里という説があったり、元禄三年(1690)の東海道分間絵図では五十二里だったり、
天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳では五十四里なのです。ボクたちの歩いた距離
からすると、日本橋から222kmなので五十六里ということになります。東海道も時代で
ルートが変わっているから、どれが正しいか分からないね。
その先には
鎧塚があるよ。これは、建武二年(1335)北条時行の一族名越太郎邦時が、
中先代の乱のとき京へ上ろうとして、この場所で足利一族の今川頼国と戦い、敗れました。
頼国が邦時の武勇をたたえてここに埋葬したんだよ。

11時17分

 

またまた、おじちゃんとおばちゃんたちが、新茶摘みをしていたので、佐武が挨拶したら、
おじちゃんが「ボク、お茶の摘み方教えてあげる」と言って、ボクたちを茶畑の中へ案内
してくれたんだ。パパが、この広大な茶畑を全て手摘みするのって聞いたら、高級なもの
だけで、あとはバリカンみたいな機械で摘むんだって。ここでは10畝を10人で朝から
摘んでいるんだって。早速おじちゃんに教わってボクたちもチャレンジしてみたよ。
おじちゃんは、ポキッポキッってリズミカルに摘んでゆくけど、ボクはおっかなびっくり
中々上手に摘めませんでした。でもお茶摘みが出来て良かったよ。ちなみにこの
おじちゃんが
、扇屋の主人であの子育飴を作っている人なんだ。楽しい体験でした。
11時23分


白山神社へ来ました。地図にも載っていたので境内もある立派な神社かと思ったら、
こんなかわいい神社でした。その先で国道1号線へ降りる道(右)と旧東海道(左)の
分岐があり、更に行くと右側の茶畑の中に
妊婦の墓があったよ。説明板には、
松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫との間に生まれた子)を
葬った所で、墓碑に「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」と刻してありますって
さっきの夜泣石伝説のお石は山賊に殺されたって書いてあったのに、ここでは自害?
それともお石と小石の二人の妊婦がいたのかなぁ。
11時45分

 
 
佐武の大好きな両側茶畑風景だよ。なかなか上手に撮るね。ボクの頭の上の
木が茂っているところが、
涼み松広場だよ。


左の写真が涼み松広場だよ。ここにあった松の下で芭蕉が休んで句を詠んだんだ。

命なり わずかの笠の 下涼み

それでこの松を涼み松と呼び、この辺の地名も涼み松になったんだ。
この句は、延宝四年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記されて
帰京の途中の作として記されているそうです。
次に現れたのが
夜泣石跡だよ。夜泣石は明治元年まで、ここの道の真ん中に
あったけど、明治天皇が通ると言うので、この道路わきへ寄せられたんだ。
そして明治元年東京で博覧会があって、それに出品され、帰ってきたときは
現在の国道1号線脇に移されたんだって。
11時52分

 
新茶の畑の中に、わらを敷き詰めた茶色い畑があったので、見てみたら、その中にかわいい
お茶の木の赤ちゃんがいました。古いお茶の木は切って、新しい芽から新しい茶畑を作る
んだと知って驚きました。こんな赤ちゃんがずら~っと並んで、十数年後には立派な茶畑になる
んだね。ちょっと行くと今度は右側に
安藤広重の保永堂版東海道五十三次日坂の絵が石に
刻まれていたよ。確かにこの絵では、夜泣石が道路の真ん中に転がっています。
11時54分

 
茶畑が終わると、集落があり綺麗な八重桜が咲いていたよ。カメラ好きな佐武が
一生懸命撮ったのがこの一枚です。上手に撮れました。撮っているところを
パパが撮ったので、カーソル合わせて観てね。
12時00分


さぁ、いよいよ最後の急な下り坂です。昔東海道を歩いたパパは、車で帰るとき、もう一度
小夜の中山へ来たくて、この坂をワンボックスで登ろうとしたんだけど、後輪がスリップして
登れなかった坂なんだって。サブもママのまねをしてマイケルジャクソンやってます。
12時01分

 
 
急な坂だらけの中、ここが一番急だったよ。これじゃあ四駆じゃなきゃ登れないね。
急なだけじゃなくて、S字のカーブもきついから、転んだら転げ落ちそうで危ないよ。
28.5度は、中山道も含めて一番の傾斜だね。和田峠の下りにはもっと急な坂も
あったけど、車が通る舗装路では、街道一の急坂といって良いでしょうとパパ。
12時09分


S字の急坂が続くこの道は、二の曲りと言います。そしてこの辺の地名は沓掛って言うん
だよ。沓掛というのは峠などの急坂に差し掛かる場所で、草鞋や馬の沓を山の神に手向け、
旅の安全を祈願したという古い慣習からきているんだ。山ノ神って言うのは、その辺にあった
大きな木で、旅人はここで沓や草鞋を新しいものに取り替えて、古いものを木の枝に掛けたん
だ。その時、なるべく高い枝に掛けたほうが良いとされていたので、みんな競って投げ飛ばし
ていたんだよ。沓掛集落が終わると、国道1号線の
日坂バイパスが見えて来たよ。
12時11分


バイパスの下をくぐり、旧国道の県道415を渡れば、もうそこは日坂の宿です。
長い急坂お疲れ様でした。ここで扇屋のおばちゃんに聞いた話を。
おばちゃんは生まれたときから扇屋のそばに住んでいて、小学校はこの日坂まで
通ったんだって。日坂の旧小学校から扇屋まで2750m、ボクたちも小学校まで
片道3kmを歩いて通っているけど、こんな凄い坂道は無いよ。しかも朝は、
下り坂だけど、疲れた帰りにこの急坂を毎日登るとなると、凄い根性が必要だね。
それを雨の日も風の日も、時には暗くなる時もあっただろうに、おばちゃんは偉い!
12時15分


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