ボクたちは、車・電車・徒歩で10回も大井川を渡りました!
昔だったら183、600円もかかります。



大善寺前交差点から少し行くと左手に、特種東海製紙島田工場の門が現れました。
これはパパがよく言う東海パルプなのだ。パパは昔山屋で、南アルプスを良く歩いたんだって
そのとき大井川上流の山は、すべて東海パルプの森で、民間が所有する森では日本一の
広さなんだよ。山手線内の4~5倍の広さがあるんだって。中でも赤石岳に登るときには
東海フォレストのバスじゃないと椹島へ行けないんだ。だから東海パルプには懐かしさを
覚え、この島田の工場を見ても感慨深いものがあるんだって。この工場は主にダンボールの
表面の紙、Kライナーを1日で1350tも生産しているんだよ。工場も広くディズニーランド
と同じ位の広さがあるんだ。ボクたちはその長い塀に沿って大井川へと進みます。
13時44分


塀に沿って旧道を500mほど進むと、いよいよ川越集落だよ。最初に現れたのが
上段の間が現存する
塚本家です。そこは九州肥前の大名、大村藩によって
建てられた家で、大村藩の参勤交代の際、特別の便宜をはかり川越し手続きの
代行をしていました。またその間、大名は上段の間で休息したんだ。
次に現れたのが、この写真の
島田宿博物館分館の建物だよ。この家は明治時代の
もので、中では海野光弘の収蔵展をやってたよ。東海道とあまり縁がなかったので
ボクたちは先を急ぐことにしました。
13時52分


この家は十番宿、パパのiPhoneには20年前に来たときの写真全てが入っていて、
同じ場所を探しては、同じアングルで写真を撮ります。このときも、iPhone見ながら
撮ってました。建物は20年前とまったく変わりませんでした。中には川越人足の人形が
リアルに座っていました。ボクたちにはちょっと不気味な感じで、あまり見たく無かったよ。

13時54分


この家は仲間の宿です。人足の代表が集まって会合を開いた家なんだ。
中には端午の節句が近いのか、五月人形がたくさん飾ってありました。
他にも、縄を売り、荷崩れした荷物を直す
荷縄屋、人足が川札をお金に買えた札場
旅人を案内する立合人が休憩や会合をした
立合宿、案内所の口取宿蕎麦屋
などたくさんの家があるんだよ。どれも古くてその当時の建物みたいだよ。
13時58分


ここのメインは、この川会所だね。元禄九年(1696)に川越制度が改定されてから
川役人が川越業務を行っていた場所だよ。この建物は安政三年(1856)に建て
られたもので、明治以降何回も移転して、昭和45年この場に復元したんだ。
じゃあ中へ入ってみましょう。
14時03分


庭には芭蕉の句碑がありました。

馬方は しらじ時雨の 大井川

元禄五年十月、川庄屋を勤めた塚本如舟邸を、初めての東下りのとき訪れた芭蕉が残した
句だよ。そして、元禄七年五月、最後の旅となった芭蕉が、西へ向かい際再び如舟邸を訪れ、
4日間の川止めに遭ったときに詠んだ句が、次の句で、大井川緑地公園内に句碑があるよ。

さみたれの 空吹おとせ 大井川

川会所の中に入ると、左側に年行事(左)と川庄屋(右)の2人のおじさんが怖い顔をして
座っています。ってことは、右のおじさんが芭蕉と仲良しの如舟こと、塚本孫兵衛かも知れない
ね。年行事は、川越人足を勤めた者の中から高齢となった長老があてられ、川越賃銭の取立て、
帳簿の記載、人足の区分をしてたんだ。川庄屋は伝馬人の中から選ばれ島田宿の組頭を務め
る者が兼務したんだ。その仕事は、川越賃銭の統制、日々変化する水深を勘定して賃銭を決定
するのが主な仕事なんだ。とても忙しかったんだって。

13時54分


ここからは、一気に川越の説明をするから、よく聞いていてね。

 「雲助」ではなかった川越人足
川越人足は、外見上の粗野な風貌と、仕事内容により、ややもすると街道に出没する、
いわゆる「雲助」と同一視されることもありましたが、事実は、長年にわたる厳しい修行を
経て、高度な渡渉技術を身につけた熟練者の集団でした。大井川は現在と違い、当時は
水量が豊富なこともあって、とても素人に勤まる仕事ではありませんでした。川越人足に
なるには、十二、三歳の頃から見習いとして、雑用を行い、十五歳頃から「水入」となって
さらに訓練をつみ、毎年末に川会所に申して出て、適当と認められると、正月になって川
庄屋が本人を川会所に呼び出して川越人足になることを認められました。


 川札
川札は一般的には「油札」ともいい、人足仲間でも「油札」で通していたといいます。公文書
にも「油札」と記したものが多くあります。川札一枚が、川越人足一人の賃金で、川越人足
はこの川札を受け取ると、頭の髪の毛または鉢巻きに結びつけました。この川札は、美濃
紙を十二行に裁ってつくられています。その上方に、川会所または年行事の黒印が押され、
端には「川札」と墨書されていました。全体に油(柿渋)を塗り、その三分の二ほどはこより
状に撚ってありました。柿渋を塗るのは、水に濡れても差支えないためであり、こより状にし
てあるのは、鉢巻きや髪の毛んい結ぶのに都合がよかったからでしょう。このような「川札」
がいつごろから使われ始めたか不明ですが、元禄四(1691)年、ドイツ人で長崎オランダ商
館付き医師ケンペルが江戸参府のため東海道を旅行した旅日記『江戸参府旅行日記』の中
に、すでに「油紙」によって川越賃を扱っていることが記されていますので、「川越制度」が確
立される元禄九年以前から利用されていたと思われます。

 台札
「台札」は、連台の損料であって、連台に乗って越すには必ず買わなければなりませんでした。
価格は、川札の二倍に相当した。これは、中頭紙を横にして、幅七分ほどに裁ち、川札同様に、
川会所または年行事の黒印を押し、その端に「台札」と墨書したものです。その起源は、川札
同様に、元禄九(1696)年、川庄屋が任命されて「連台」が考案、設置されてから、その使用
料、損料として「台札」が利用されるようになったものと思われます。

 川越しの時刻
明け六ッ(午前六時頃)から暮六ッ(午後六時頃)までで、季節により多少のずれがありま
した。しかし公務急務用者に限り、特に川会所の許可を得て、時間外の越立が許されまし
たが、よほどのことでない限り、暮六ッ以後の川越しは許されませんでした。開始の時刻は、
川会所の定めにより、時刻がくれば一斉に開始されました。旅人や川越人足たちは、向島
の大善寺の「時の鐘」によって時刻を知りました。鐘撞料は、川会所から、川越賃銭の加刎
の内より支払われていました。

 川留めと川明け
大井川を川越しする料金は、その日の水深と川幅の広さによって決定されるので、当然毎日、
変化しますが、ひとたび大雨にあって水深四尺五寸(約1.4メートル)以上に増水すれば大井
川の川越しは禁止されます。これが「川留め」です。川留めは四~六月頃に集中し、二、三日
から一週間程ですが、慶応四(1866)年に連続して二十八日間にも及んだことがあり、これが
最長記録となっています。そして、「川明け」になると、旅人たちは大井川の河原に殺到し、
またこの四~六月という時期は、参勤交代とも重なり、混乱に拍車をかけました。このような
日を「大通行」といい、この時期には、川越賃銭は、川会所で川札を求めない(取勝)で、川越
人足と旅人との一対一のやりとりで(相対越し)越立てをしました。これは、大通行の時期だけ
認めていました。

 越立の方法
普通大井川を渡渉するには、川越人足の肩車で越す場合と、連台で渡渉する場合とが
ありました。このほかに特別な「棒渡し」や「馬越し」があり、また荷物越しにも規定があり
ました。肩車越し:人足仲間では「カタクマ」といい、川越人足の肩に跨いで乗る方法で、
越し賃がもっとも安く、大衆的な越し方であったため、多くはこの方法で越しました。棒渡し
:無賃者を越させる方法。大井川は原則として一般人の無賃越しおよび自由越しは禁止さ
れていました。しかし特に例外として、無賃自由越しを許す場合もありました。それは「報謝
越し」ともいい、その対象となった人達は、相撲取り、巡礼、非人、無賃者や猿回し・越後
獅子などの下級芸人などでした。この棒渡しというのは、細長い杉丸太へ四、五人くらいを
すがりつかせ、その両端を二人の待川越が持って渡すもので、ときには連台の横側にとり
ついて越させてもらう場合もありました。このすがりついた手が離れ、水の勢いに押されて
溺れてしまうケースが多くありました。このようなことから、川会所では、河流の両側に待川
越数人を配置し、見張りをさせて人命救助に当たらせていました。無賃者といっても、このよ
うな越立の手当ては、川会所より支給されました。

 連台越しの手順   明六ッ(午前六時頃)~暮六ッ(午後六時頃)
旅人は、前夜島田宿の旅籠に泊まり、早起きして早朝出立する。すでに川方では、川庄屋
によって「何十何文川」であるか定められ、宿中に触れ歩いてあるので、旅人は出立前に、
当日の「何文川」であるかを知ることができました。街道を西に向かい大井川に面した河原町
に着くと、そこの川会所前には高札場があり、ここに当時の「何文川」であるということが掲げ
てありました。旅人は川会所に出向いて、自分の住所・名前・旅の目的などを告げ、川越しを
依頼しました。そして「肩車越し」または「連台(平台)」で越したい旨を申しでました。
つぎに「川札」、「台札」を求めます。「川札」(油札)は一人乗りの場合は四枚(川越人足
四人担ぎ)、二人で乗る場合は六枚(川越人足六人担ぎ)が必要でした。他に連台の使用
賃として「台札」一枚も必要でした。「台札」は川札の二枚分だったので、一人乗りの場合、
川札六枚の川越賃を支払うことになりました。「川札」一枚の値段は、その日の川の深浅に
よって異なりました。このような手順も、初めて旅するものにはわかりにくかったので、「立会
人」(案内人)と呼ばれる者たちがいて、毎日川会所に詰めていて、旅人たちに川越しの
手引きをしました。川札を求めた旅人は、この立会人の案内で、当日出番の川越人足が
詰めている「番宿」に案内しました。


ということで、今日のボクたちの渡し賃を立会人に尋ねてみました。今日の大井川の
水深は帯上通とすると、川札は一枚六十八文で、今のレートで2040円ということになるよ。
パパは一人で肩車越しなので2040円。ボクたちとママは連台越しの二人乗りとすると、
六人担ぎで六枚と損料の台札一枚は川札二枚なので、川札八枚ということになり、
16320円。合計
18360円だって。今は、自分の足で鉄橋を渡ってゆけるので、お金は
かからないけど、昔の旅人は大変だったね。
14時13分

 
川会所の隣は、島田大堤。天正年間に築かれた川除堤が慶長の大洪水で決壊し、島田宿の
全てが押流されたんだ。それでこの大堤を造ったんだよ。今は切れ切れになっているけど
当時の規模は、高さ3.6m、長さ5733mもあったんだよ。その先には石造りの
せぎ跡
があり二重で大井川の氾濫を食い止めていたんだね。そこで右へ入ると、島田市博物館
があるよ。博物館好きなボクたちは、早速入ってみることにしました。
14時19分


博物館の中は、写真が撮れないので、見たい人は公式HPで見てね。2階からは大井川や対岸の
牧之原台地がよく見えるよ。外には当時大井川で使われていた舟が展示してありました。
14時35分


昔なら博物館の前から、盛んに川越が行われていたんだけど、今は川越人足がいないので、
560m上流へ向かって昔の国道1号、今の県道381号に架かっている大井川橋へ歩きます。
実は元気なボクたちは、土手にあった縁石を飛び越えながら進みました。ここには国道
ポストみたいに川ポストがあって、海から15.6kmと書いてありました。
14時44分


土手を歩いていると右側に住宅街があります。右の写真は1987年9月30日のもので、
発売中でした。価格は確か1500万円程と記憶してます。当時住んでいた横浜の我が
家がバブルによる値上がりで1億円を越えた頃で、同じ大きさなのに何という値段だと
驚いた記憶がありました。庭には販売員のおねえさんがいて、そんな話をしたのが良い
思い出です。現在は防音壁で囲まれすっかり様子が変わってしまいましたが、25年経っ
たいまも同じ家並みが健在なことに安心しました。

 

それでは、川越人足に頼らず、じゅぶんの足で大井川橋を渡るぞ~。橋のたもとに橋の紹介
があったので読んでみましょう。まず長さは
1026.4m。出来たのは昭和3年だって。
うちのおじいちゃん・おばあちゃんと同じ年なので、今年84歳になります。鉄製のトラス橋
で、土木学会推奨土木遺産なんだよ。
14時48分


橋から左側を見ると、遠くに(1120m)JR東海道線の鉄橋が見えます。ちょうど電車が
渡っています。さっきボクたちが渡った蓬莱橋は、この橋から4400mほど下流なんだけど、
川が途中で曲がっているから見えませんでした。奥の丘が牧之原台地です。

 
右側を見ると、1100m上流に現在の国道1号線が走る新大井川橋、その先2700m
上流に
新東名の大井川橋が見えるよ。今朝はこの両方の橋を車で渡って、島田の宿に
車を置きました。明日も、この二つの橋を渡って帰るよ。


左側を振り返ると、島田市博物館の後ろに特種東海製紙島田工場が大きく見えたよ。


ボクたちが、気になるのは橋の。水の中に魚いないかな~。とか何か変なもの流れて
いないかな~なんて、見ていたら川の中の島に子供が三人遊んでいました。この子達
どうやってこの島へ渡れたのか気になりました。パパは反対に
の方を見ています。
おお~!このリベットどうやってとめたんだろう?なんて感心しているけど、何のこと?
そんな話をパパに聞きながら、とても長い橋を渡ります。

 
 

1026.4m渡るのに29分掛かったよ。東海道で一番長い橋とパパが教えてくれたけど
本当に長い橋でした。パパは作った人も凄いけど、この橋のペンキを塗った人も凄いと
感心していたよ。よく見ると、所々にペンキ塗りの日にちと塗った会社、ペンキの種類なんか
書かれていたよ。確かに柱の中のほうまでしっかり塗れていたのでボクも感心したよ。
いったい何人で何日かかったのかなぁ。橋を渡りきったら、そのまま真っ直ぐ進まないで
左へ土手の上の道を行ってください。すぐに大井川橋の
石碑があります。
15時17分


橋から200m土手を行くと、右へ降りる道があります。入り口に旧東海道の看板があるから大丈夫だよ。
15時20分

 
 
150m行くと小さな新堀川を八軒屋橋で渡るよ。そこには金谷宿の案内板がありました。
島田と同じで、こっちにも川会所があって同じことをしていたんだね。


小さな公園には連台越しの絵がありました。町並みには昔の面影はほとんどなく、家々には
大きな木の看板で、
九番宿跡と書かれているだけです。町の人は島田みたいに復元したい
のかな。
15時24分

 
地図をみると、一級河川新堀川は、この先で大井川に合流するから長さは1kmほどしか
ないよ。この辺のバス停には昔話の絵が描かれていたので興味を持ったよ。「狐の仕返し」っ
てどんな話なの。
日本各地にこのお話はあるけど、金谷の話はよく分からないよ。でも一般的な話を聞かせて
あげよう。昔々、狐が川のそばで昼寝をしていたところに、山伏が来て寝ている狐の悪戯した
んだ。それは、持っていたほら貝を狐の耳のところで吹いたんだよ。大きな音に驚いた狐は、
川の中に転げ落ちました。それを見た山伏は笑ったんだ。そしたら今度は、祈祷を頼まれた
家に行くと、死んだ人がいて、気味悪いと思っていたら、その死体が起き上がって山伏を脅か
したんだ。びっくりした山伏は家から転げ落ち川の中へ落ちたんだよ。そのとたん家も死体も
消えちゃたんだ。すべて狐がだましたんだよ。人が嫌がる悪戯をすれば、結局自分も同じこと
をされるって昔の人が子供たちに教えた話さ。

 
踏切が出てきたから、左を見ると大勢の人が電車から降りてくるところでした。この駅は
大井川鉄道の
新金谷駅で、蒸気機関車が千頭まで走っているんだって、パパは乗ったこと
あるって。ずるいボクたちも乗りたいなぁ。どんなSLかパパの写真で見てね。パパは
学生の頃、この電車に乗って千頭からさらに井川線で井川まで行って、今度はバスで
畑薙ダムまで行って、そこからは歩いて上河内岳から聖岳、百間洞から赤石岳まで
行ったんだって。つまり、ここは南アルプスの南側の玄関口なんだ。
15時31分

 
 
往還橋を渡って、その先の清水橋へ着たらびっくり。川面に鯉幟がたくさん泳いでいたよ。
パパは、恵那の大井橋以来だねぇと言って、平次憶えてないのかって言うけど、それは
2004年4月の中山道だから、もう8年も前の話じゃん。ボクは今6年生だけど、当時は年少
さんなんだから、憶えていないよ~。でもここの鯉幟もたくさんあって素敵だね。
15時37分

 
金谷の町に入ったけど、やっぱり古い民家はほとんど無かったよ。写真左の左塚書店は、
左塚屋本陣跡、真ん中のお菓子やさんの河崎屋は、お七里役所跡、右の
民家は、
定飛脚宿(三度屋)の跡だよ。定飛脚とは、三都定飛脚とも言い、
江戸と上方の京都を定期的に往復した民間の飛脚なんだ。月に三度、二の着く日に出たから
三度飛脚っていうんだよ。その取扱所のことを三度屋っていってんだ。そしてこの飛脚が
かぶった笠を三度笠って呼んでいました。並便は昼間のみだったけど、昼夜兼行の特急便
は早便と呼ばれ、江戸・大阪間の到着期限を六日としたことから定六って呼ばれていたよ。
一日100kmくらい走っていたんだね。
15時45分


今日のゴールは、JR金谷駅下のガード。東海道は駅手前のこのガードをくぐって
牧之原台地へと登るんだよ。この先、駅は掛川まで無いから、ボクたちはここでおしまい。
元気なおばちゃんやおじちゃんは、掛川まで行けるよ。パパたちも25年前は島田から
袋井までの31km、13年前は六合から掛川23.4kmを歩いていったんだ。
今日は12km歩いたけど、足が痛くならなくてご機嫌のボクでした。
15時52分


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