商店街には、藤枝太鼓の音が響き渡りボクたちを歓迎してくれたよ!

 
大手木戸跡や問屋場跡がある、本町交番を過ぎると、旧市街地の
アーケード街に入ってゆきます。そこでボクたちをお出迎えして
くれたのは、綺麗なおねえさんが叩く太鼓の音でした。大きな音で
交番辺りからも聞こえたけど、そばまで行ってその迫力にびっくり!
この太鼓は
藤枝太鼓といって、志太ふるさとネットのサークルの一つで
地域の人との潤いのあるコミュニケーション作りと地域に根ざした
太鼓文化の創造を目的に活動しているチームだよ。


その手前にあったのがせとやコロッケだよ。今回はグルメの旅、東海道だから
早速いただきます。安くて旨くて最高のコロッケでした。
11時26分


藤枝の商店街はこんな感じだよ。このくらいのアーケード街を何度も
通ってきたけど、ここはシャッター商店街じゃなくて
活気のある商店街でした。
特に周りに大きな駐車場があるわけでもないのに、なんでこんなに人が
一杯集まっているんだろう。何か秘策があるのかも知れないね。
シャッター商店街で困っている町は、見学に来ると良いかもしれないね。
この右側にあるのが
藤枝東高校です。ここは長谷部選手や中山ゴン選手の
母校だよ。他にも元日本代表の選手を一杯輩出している学校なんだって。

 
商店街を抜けると歩道に長楽寺はこっちというタイルが張ってあったよ。
長楽寺までは左へ200mほど行かないと着けないよ。ボクたちはお腹が減って
蓮生寺前のベンチで休憩です。この先食べる処が有るか心配になってきました。
蓮生寺の裏を150m行くと蓮華寺池があります。もちろんボクたちには行く元気が
残っていません。そこには日本料理店や公園、郷土博物館があるんだよ。
11時40分


右側の凹んだ場所にあったのは、藤枝だるまというだるま専門店だよ。
創業は天保元年(1830年)というから凄いね。今は5代目の長橋秀明さんという
職人さんが作っているんだって、小泉八雲の小説「乙吉のだるま」のモデルだよ。
鬢のところが8の字になっているのが大きな特徴です。
秋葉神社への古い常夜灯を右に見て、千歳の交差点を過ぎると道は左へと
カーブしてゆくよ。その先の上伝馬交番の手前にあった食堂が
はしもとだよ。
オープンしていたので、この先には食べられるところが無いと踏んで入ります。
11時55分


ママとパパはカツ煮定食800円、ボクはオムライス650円、佐武は焼きそば500円が
今日のお昼ご飯です。パパはボリュームも有ってなかなか旨いと喜んでいたよ。
ボクのオムレツも大きいでしょう。食事になると元気が出てくるよ。
12時37分

 
食堂はしもとから400mほどで、瀬戸川を渡る勝草橋だよ。この橋は面白い
名前だけど、面白いのはそれだけじゃなくて、橋の東西に説明板が付いているんだ。
まずは東の説明板だよ。

 
 瀬戸川の徒渡り
  
江戸時代に勝草橋周辺は東海道の渡河地点だったが、瀬戸川には橋が架けら
 れず川越しが行われた。瀬戸川の川越し制度が創始されたのは江戸時代貞享二
 年(一六八五)に川原町に初めて川庄屋が任命されたときといわれる。瀬戸川の
 川越しは瀬戸川の徒渡りといわれ知られていた。越すに越されぬ大井川に比べて、
 瀬戸川は川幅も狭く水深も浅いので、徒歩で渡河することが多かったためである。
  瀬戸川に面した両岸の河原町、志太村、稲川村には川越し人足十五人が常置さ
 れていた。参勤交代などの大通行の時には川越し人足のほか、付近の村々から助  
 郷人足を動員して川越しに当たった。川越しにかかる料金は川越し賃銭と呼ばれ、
 川の水深によって膝水・股水・乳通水・脇水・首通水に分けられ賃銭が決められて
 いた。膝水八文、股水十六文、乳通水三二文というように水位の高さに比例して
 川越し賃銭は高くなっていた。


続いて西の説明板です。

 
 勝草橋の名前の由来
  明治八年(一八七五)十一月に初代勝草橋が瀬戸川に架けられ開橋となった。
 勝草橋という名前は急幕臣の伊佐新次郎岑満が付けたものといわれる。伊佐は
 江戸幕府の時代に下田奉行所支配組頭として外国との交渉に当たるなど活躍し
 唐人お吉の物語にも登場している。彼は明治維新によって徳川家に従って駿府入
 りし、廃藩後には牧ノ原の茶園開墾に尽くすとともに、書道・漢籍に深く通じて
 いたため旧幕臣の子弟らの教育にも当たった。前島の博習舎、志太の為善館でも 
 教鞭をとり志太地域の近代教育の振興に努力した。
  勝草橋の名前の由来は二つの説が伝えられている。一つはむかし田中城の兵が
 付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍橋といっていたのが縮まって、
 勝草橋になったという説である。もう一つは志太という地名が植物のシダ(羊歯)
 の読みと同じで、シダの異名を勝草と称することから志太橋という意味で勝草
 橋になったという説である。


大井川と比べて小さな川って言うけど、川を覗いたら水が一滴流れていないよ。
川幅は100mほどある、そこそこの川だけど、水の無い川は初めてだね。
12時47分


橋を渡るとすぐ右手に志太一里塚跡があるよ。この一里塚は日本橋から200km
江戸から50里目の一里塚で、今は塚はなく常夜灯が寂しそうに立っていました。
そのすぐ先にあるのが、勝草橋の話にも出てきた伊佐新次郎岑満が教鞭をとった
為善館跡だよ。為善館は明治六年に作られたけど、明治四十三年の瀬戸川の
大水害のとき流されてしまって、何処にあったかが分からなくなったけど、
この碑が立っている辺りに建てられていたらしいです。為善館というのは寺子屋
を学校にしたようなもので、学区や校則も決められていたんだ。明治十九年に
統合で前島学校志太分教室となり、明治二十三年にできた青島尋常小学校に
その役目を引き継いで閉館されたんだ。
12時55分


しばらく行くと左側に立派な蔵がありました。何か歴史的な建物かと思ったら
元町珈琲藤枝の離れでした。広い駐車場が満車になるほど人気の店なんだね。
小さな稲川橋を渡った所に
岡野繁蔵出生地の碑があったよ。そこには、

希望に起き、感謝に眠れ

って刻まれていました。彼は裸一貫から南洋のデパート王になった人で、あの
青島小学校を卒業後、育英学校に学び21歳でスマトラ島に渡り、大信洋行という
会社を作って貿易商として成功するんだ。さらにスラバヤに千代田百貨店を
作って大成功したんだよ。でも太平洋戦争でみんな失って帰国し、戦後は
衆議院議員に当選して国や郷土の為に頑張ったんだって。
13時04分


朝は、絶好調だったボクの脚も、青木橋を渡る頃になってくると、だいぶくたびれて
きました。先に歩くママに付いて行くのがやっとです。佐武は相変わらず行ったり来たり
カメラ片手に飛び回って進みます。国道を渡ったらあと5kmだよってパパが
教えてくれましたが、また
心が折れそうです。
13時05分


青木の交差点で国道1号線を横切るよ。前方の道は3つに分かれていて、
右から国道・旧東海道・
藤枝駅への道です。旧東海道へ進むには横断歩道橋で
国道を渡るのが良いよ。旧道への入り口へ降りてきたら、正面にこころって
看板のお店の跡らしき建物がありました。残念、休憩できない。
ちなみにここから藤枝駅へ行くと、
850mあります。やっぱり六合へ行こうっと。
13時10分


青木交差点から旧道を410m、SEIYUの裏口にやってきたよ。ここでまた休憩です。
大きなスーパーマーケットで、トイレも借りられます。ママにチョコレートを
買ってもらい、エネルギーの補給をしました。座ったベンチの前はゲームコーナー
いつもだったら、真っ先に遊んじゃうけど、今日はそんな元気もありません。
小さな子たちが遊んでいるのを見ていたら、この春6年生になるボクが遊んでいた
ことが少し恥ずかしくなったよ。もう卒業しよっと。
13時20分~40分


西友を後にして進んでゆくと、大きな道路を渡ります。この道路は、藤枝バイパスと
駅の南側を結ぶ県道で、国道と同じくらい大きな道路です。渡った左側には
さわやか住宅という会社があって、その前にこんなベンチがあったよ。
東海道を旅する人の為に、こんなベンチを設けてくれたんだよ。そこには
簡単な説明と、トイレを使ってください、飲み物も用意して有りますって書いて
ありました。こんな素敵な会社、ここまで200km歩いてきたけど無かったなぁ。
13時46分


「従東田中領」の田中藩領牓示石蹟を発見。この辺りは田中藩と掛川藩が入り乱れていた
地域で、しっかり田中藩の領地を示すために建てられた牓示石(ほうじせき)だよ。
オリジナルの書を書いたのは藪崎彦八郎という家臣の書家で、その書の見事さに
旅の文人も驚いたほどだったんだ。しかし、このレプリカや案内板は、市の教育委員会が
建てたのではなく、
青島史蹟保存会という人たちが建てたものなんだ。
同じようなものがいくつもあったから、全部で大変な数になると思います。
お金もかかるし、歴史もしらべなくちゃいけないし、どんな人たちなんだろう。偉いね。
ボクは、宇津ノ谷のときのようになってしまい、刑事に捕まった犯人だと佐武に笑われました。
13時52分


突然、静かな街道に爆音が響いたのでみると、凄いクラッシックカーが、エンジンを
かけたところでした。エンジンむき出しで、バギーのようなかっこいい車だよ。
これから、出かけるみたいで、お兄さんがしきりに車の調子を見ていたよ。
次に現れたのは、
東海道追分の碑だよ。追分といっても別の街道がここから
伸びていた訳ではなく、中世の古東海道と、江戸時代の旧東海道が分岐していた
場所なんだ。青木の交差点から今ボクたちが歩いて来た旧東海道は、昔池や湿地が
多く道を造れなかったんだけど、開拓が進んでから通れるようになったんだよ。
それまでは、ここから藤枝駅の方へ向かってから青木の交差点に出たんだって。
中山道もそうだったけど、街道というのはその時代によってどんどん変わっていったんだね。
13時59分


藤枝市指定文化財瀬戸の染飯版木と書かれた標柱がありました。平次がなかなか
来ないので、ボクはパパと一緒に左の伝承館まで行ってみる事にしました。
入り口にあったのは、
千貫堤の案内板です。ちょっと読んでみましょう。

 

南の方に大井川があって、洪水が起こると水がこの北まで来て、
田んぼがだめになっちゃうから、ここに大きな堤防を造って防いでいたんだ。
14時08分

 
これは旧東海道から左へ入った小径の写真だけど、この道沿いの土手みたいなのが
唯一当時の千貫堤が
40m残っている場所なんだ。右の家が建っている場所より
植え込みがある場所のほうが高くて、何となく堤だったことが分かるよ。この小径を奥まで
行くと、伝承館があるので、早速行ってみましょう。
14時08分


この建物が、千貫堤・瀬戸染飯伝承館だよ。戦国時代から、この辺りには茶店があって、
そこで売られていた名物が染飯なんだ、染飯の説明をするには、まず大蛇の伝説から
始めないと話が分からないので、説明しましょう。昔々この辺りには大きな池があって
そこには人の言葉が分かる神通力を持った大蛇が住んでいました。その大蛇は畑を
荒らしたり、人や家畜に危害を加えていたため、村人は困っていました。そんなところに
旅をしてきた密教の偉いお坊さんが通りがかったので、村人は大蛇退治を頼んだのです。
お坊さんは、引き受け大きな護摩壇を作り、7日間御神火を焚き続け祈りました。火の
嫌いな蛇は、池に潜ったけど苦しくなって北の山へ逃げていってしまいました。
しかし、蛇が退治される前、池の近くでこの大蛇を弁財天として祀っていた夫婦が
いたのです。夫婦は池のほとりで採れるくちなしの実で染めた強飯をお供えすると
幸運に恵まれていました。ある晩その弁財天が夢の中に現れ、先祖代々蛇を祀って
くれてありがとう、くちなしの実で染めた三角おにぎりを旅人にあげると、幸運に
なるよって教えてくれたのです。早速、夫婦はお告げの通りおにぎりを旅人に売ったところ
大繁盛して藤枝の名物となり、その後お金持ちになって幸せに暮らしたとさ、めでたし
めでたし。ということで、その名物が瀬戸の染飯なんだ、みんなも食べてみたかったら
藤枝駅前の喜久屋(電話054-641-0668)に行ってごらん。今でも売っているよ。

話が長くなったけど、平次もやっと追いついたので先に進みます。次にあったのは
育生舎跡だよ。これは明治7年にできた公立の学校なんだ。このページの最初に
出てきた為善館と合併して青島尋常小学校になったんだよ。
14時14分

 
もう1つの田中藩領牓示石を過ぎると、旧道沿いなのに大きなドラッグストアがありました。
杏林堂藤枝青島店だよ。足がオーバーヒートしたボクは、ここで靴を脱いで冷却しました。
あと、2.5kmもう少しじゃないかってパパは言うけど、ボクには辛い距離なんだ。
青島酒造の前を通って東光寺谷川を瀬戸橋で渡るよ。
14時47分

 
 
右に
静岡金型がある場所は、左が開けて少しだけど松並木になっています。
傾く太陽で、ボクたちの影も長く伸びるようになりました。まだ午後3時なのに
何となく、夕方っぽくて足取りも急ぎ足になってゆくママと佐武。頼むから
ボクを置いて行かないで~~~。
14時55分

 
静岡金型の前には上青島一里塚跡があったよ。ここから400m進むと国道1号線に
合流します。交差点の名前は
一里山、目の前には良い匂いのする丸七製茶の工場。
その看板の下で、最後の休憩、ゴールまで1123m。立ち上がれ平次!
15時04分

 
国道は一直線でず~っと向こうまで見えます。パパが2つ目の信号機がゴールだよって
教えてくれました。気の遠くなるような距離に感じました。途中で上を見上げたら
島田市
標識、パパが藤枝ともお別れだねと言っていました。
道悦島東の信号を通過して、
やっと今日のゴール、
六合駅入り口にたどり着きました。ここは改札口まで150m、
電車に乗るには便利な駅です。本当に苦しかったけど、毎日歩いて登校して鍛えるよ。
今日は、ここから東海道線で静岡駅まで戻って、置いてある自家用車に乗り換え
東名高速で帰宅するよ。次回は金谷に泊まって掛川を目指します。
15時24分


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