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大正のトンネルに、向かう静かな旧道を行くと、150mで国道下り線からの道と
合流し、350m行くと江戸の道との分岐点(写真右)だよ。下の大きな案内板があるよ。
14時25分
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これが江戸・大正の分岐点にある案内板だよ。江戸時代の東海道は丸子川を渡り
宇津ノ谷の集落の中を進むんだ。最後階段で明治の道へ出たら、右に曲がって
馬頭観音の先の登山道へ入ってこの地図では出世街道と書かれている道を進み
坂下バス停に下ってゆくんだよ。坂下バス停まではボクたちの足で40分位かな。
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ここが江戸時代の宇津ノ谷峠越えの入り口だよ。ここには下のような
案内板がありました。この江戸の道は明治天皇も馬で越えたんだって。
さぁ頑張ってボクたちも自分の足で越えてみましょう。
14時27分
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丸子川を渡って集落の中へ入ったよ。誰もいない静かな集落でした。
道路はきれいなタイル張りになっていて、とてもおしゃれです。
ちょうど峠の方向に日が沈むところで、逆光でまぶしかったよ。
後ろを振り返ると、山の裾野に茶畑が見えました。足の痛いボクは
一番遅れて進みます。でも斜面になったら地面に当たる場所が
変わったのか少し楽になりました。ボクは舗装道路が苦手なんだ。
14時29分
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右側には出てきたのは明治天皇御小休所跡だよ。ここでも天皇さんは
休んでいったんだね。その先にあるのが御羽織屋だよ。前回来た時パパたちは
裏からこのおうちに入って、おばちゃんに説明を聞いたんだって、今日は
そのおばちゃんが、近所の人と話をしていて忙しそうだったので写真だけ
撮りました。換わりに前回聞いたときのお話を紹介します。
天正18年3月,小田原の北条氏征伐のため,東海道を下った豊臣秀吉は,
この地に差し掛かり,石川家の軒下につるしてあった馬の沓に目をとめて
使い古した自分の沓と取り替えようとしました。ところが,主人は三脚分
しか差し出さなかったので,「馬の脚は4本なのにどう言う訳か」と尋ね
ました。「申し上げます,差し上げた三脚分の馬の沓は,道中安全を
お祈り申し上げたものです。残る一脚分でお戦のご勝利祈るつもりでござい
ます。」「さようか,お前の名はなんと申す」「忠左ヱ門と申します」
「ホホウ,忠義の忠左ヱ門か,シテあれなる山は」「あれは勝山,その大木は,
勝の木と申します」「ナニ,勝山に勝の木か,めでたい,めでたい。戦には
必ず勝って帰るぞ」と,機嫌良く出発しました。 その年の夏,小田原征伐が
終わって帰途,再び石川家に少憩しましたが,あれから半年間忠左ヱ門は,
地蔵菩薩に,毎日一つづつ馬の沓を捧げて,秀吉公の戦の勝利を祈りました。
その話を聞いた秀吉は,忠左ヱ門を見て,「そちの祈願の甲斐あって戦に勝っ
たぞ,約束の馬の沓は持ち帰るぞ,褒美の品を何なりと申してみよ」光栄に感激
した忠左ヱ門は,言葉も無く頭を下げていると,秀吉はつかつかと縁先に来て,
着用の陣羽織を脱いで忠左ヱ門に与え,茶湯に喉を潤して出発しました。のちに,
徳川家康が,この陣羽織を見て記念に茶碗を贈った他,諸大名やその家来達も
拝観に訪れるものが多く,当家にその芳名録が残されています。
今でもこの家の表札は石川さんになっていたので、忠左ヱ門の子孫なんだろうね。
秀吉さんも、ここのおじさんに頑張ってと応援されて気分が良かったんだろうね。
14時30分
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集落の一番奥は階段になっていました。これは大変だと思っていたけど
登ってみると意外と足が楽になりました。きっと平らな舗装道路を長く
歩くと同じところが当たって足が痛くなるみたいだね。ママは体重のせいさ
って言うんだ。ママにお尻を押してもらってやっと登ることができました。
14時29分
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階段を上りきると平らな舗装路に出るよ。そこには道標があって
左:明治のトンネル、右:旧東海道って書いてあるので右へ進みます。
今度は、左側に東海道宇津ノ谷峠越えの大きな看板があるから
その前の木の階段でできた山道へと登ってゆきましょう。
ちょっと時間にゆとりのある人は、明治のトンネルを観に行きましょう。
14時35分
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竹が美しく伸びた坂道を進むと、眼下に明治のトンネルへの車道が
見えてきたよ。よく観ると宇津ノ谷峠の立体模型みたいなものが
見えます。パパは目一杯望遠にして撮ってみました。ちっと面白
そうだけど、今からあそこまで往復する元気はありません。
分かっていればさっきの道標の場所から往復して観てきたのになぁ。
14時42分
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ここは宇津ノ谷集落が見下ろせる展望台だよ。間宿だった宇津ノ谷集落は
昔も今もほとんど変わらないんだって、なんか江戸時代に来たようです。
当時は十団子が名物だったと、ここの案内板に書いてあるけど、今は
売っているところが見つかりませんでした。ちょっと食べてみたかったです。
14時42分
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パパとママが景色に気を取られている間に、ボクたちは座ってしっかり休んだよ。
さあ元気が出たので出発だ。登山道みたいな道は足が痛くならないから好きなんだ。
写真を撮っているパパを置いてどんどん登ってゆきます。
14時48分
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前回来たときに気がつかなかったなぁとパパが言うのがこの史跡だよ。
昔ここに地蔵堂を建てるために、この石垣を作ったんだって。峠の地蔵堂は
東海道を往来する人々が道中の安全を祈ったところだよ。また村にとっては
悪いものが村に入らないように村はずれに地蔵が祀られたんだ。ここは
宇津ノ谷の地蔵堂で、峠を越すと岡部側にも坂下地蔵があるんだよ。
この地蔵堂跡は平成12年に発掘されたので、平成10年に来たパパは
知らないわけです。最初は2m四方の地蔵堂が山側にあって、その後
石垣を組んで敷地を広くしたところに5m四方の地蔵堂が建てられた
ことが発掘調査で分かったんだって。写真左は下から見上げたところ
右は、その上には地蔵堂があった場所だよ。
14時50分
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やっと宇津ノ谷峠に着きました。何度来てもこの風景だけは変わらないって
パパは感激しています。土の道で本当に江戸時代に来たような感じがするよ。
パパが最初に来た1987年は9月だったせいか、草が生い茂っていて
掻き分けながらここまで登って来たんだって。今は整備されて歩きやすいよ。
14時53分
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下りは絶好調と思っていたら、また足が痛くなってきました。
明治のトンネルからの道と合流したら、その先のUターンするように
右へ曲がる場所で、左の小径を下ってゆきましょう。これが東海道だよ。
15時00分
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左の石碑は髭題目碑だよ。これが現れたら道は間違っていません。
この碑の正面には「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて
書く書体で刻まれているよ。横には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」
と刻まれているから旅人の安全と、世界の平和を祈って建てられたことが
分かります。裏には「天保六年霜月再興」「備前国木綿屋門平」とこの石碑を
建てた人たちの名前が刻んであるよ。次に現れたのは「蘿経記碑跡」だよ。
蘿経とは「蘿」が蔦で、「径」が小径、つまり「つたの細道」のことなんだ。
文政十三年儒学者で駿府の代官だった羽倉外記がつたの細道が消滅
することを恐れて末永く残すために建立した石碑なんだ。今は坂下地蔵堂
の裏にあるんだって。興味のある人はぜひ見に行ってください。
15時04分
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道は広くなってもうすぐ峠道も終わりです。やっぱり下りは足への負担が大きくて
痛くなってしまいました。ママに支えられながら一生懸命降りました。後ろから見ると
ママより太めな感じがします。佐武は絶好調で軽快に下ってゆけるのが羨ましい。
次は体重を落して足が痛くならないようにしたいと思いました。パパも太っているのに
なんで足が痛くならないんだろうと聞いてみたら、牛のような足だからさって。
15時05分
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やっと着いたのが坂下地蔵堂です。いつからあるのかは不明だけど今の地蔵堂は
元禄十三年、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野右衛門の3人が建てたんだ。
ここには鼻取地蔵と稲刈地蔵の伝説が残されているんだよ。詳しくは分からないけど
どうやらお地蔵様が牛か馬の鼻を引っ張って農作業の手伝いをしたらしいです。
同じ伝説が長野の更埴市にも残されていたから、似たような事件があったんだね。
ボクはすっかり疲れ果てて石の台座に腰掛けたまま動く元気がありません。
15時12分
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日が沈んだら寒くなるから、急いで行こうというママの気合で仕方なく
腰を上げて出発です。国道が現れたら真っ直ぐ行かず静岡方面の
標識に従って国道の下をくぐり右側を進みます。やがて道の駅宇津ノ谷峠の
藤枝市側上りに着きます。ここにあったのが、足が疲れた人用の踏み石。
ママは気持ちが良いって言っていたけど、ボクにはもう手遅れって感じ。
15時17分
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道の駅にはお土産屋や暖かい休憩所があったので、休むことにしました。
おやつを買ってもらい食べたら少し元気が出ました。パパがあと3kmだから
頑張ろうと言ったとき、ボクの心は折れてしまいました。あと1kmくらいかと
思っていたからです。3kmも歩けないよと泣きそうになってしまいました。
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道の駅を後にすぐ先の廻沢口という交差点で右への旧道へ入ってゆきます。
旧国道と合流し道が一直線になったところに十石坂観音堂があります。石段が
歪んでいて面白いと佐武は上のお堂まで行ってしまいました。ボクには
そんな元気は残されていません。パパは昔もこのアングルで写真を撮ったと
喜んでいます。ママだけがボクを慰めてくれました。
16時03分
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十石坂観音堂は入母屋造りの瓦葺の観音堂で内陣、外陣の境の格子がとても
細かい技巧が施されています。江戸時代末期の作で中には2基の厨子が安置
されているんだよ。1の厨子は中央にあって宮殿造り。屋根は入母屋造りで二重垂木
妻入りで彩色が施されています。2の厨子は向かって右手にあり宝形、板葺き屋根
黒漆塗りで簡素だけど品格の高いものなんだ。少し行くと岡部宿の枡形跡が
あります。佐武が説明板を読んでいるよ。なんて書いてあるの?「曲尺手とも言って
本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入り口に設けたものだよ。
道が直角に曲がっていたんだって。また、ここのは木戸と番小屋があって木戸番が
毎日木戸を明六ツに開き、暮六ツに閉めていたんだよ。」だって。
16時05分
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枡形の先にあるのが金子酒店だよ。実は1987年パパはお腹がすいてパンを買って
食べたところなんだって。その時と同じ縁石に座って写真を撮ってみました。
25年前と全然変わっていないじゃん。とうとう山の向こうに日が沈んで寒くなってきたよ。
ママが言うとおり急がないと大変なことになるかもしれないね。頑張るしかないね。
16時06分
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一直線の道が終わる頃、旧国道は左へとカーブしてゆくけど旧東海道はこの道を
真っ直ぐ進んで岡部橋を渡ります。45mほど遠回りなんだけど、ボクには厳しい。
この先には中山道でお世話になった西行さんの笠懸松伝説がありました。ここにあった
お堂で西行さんが休んでいると、戸に古い檜笠が懸かっていました。胸騒ぎがして
よく見るとその笠は、都で共に修行をしたお坊さんの笠でした。そして西行は一句詠んだのです。
笠はあり その身はいかになりぬらむ あはれはかなき天の下かな
16時10分
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今日、最後の見学はゴールまで1kmの場所にある大旅籠柏屋だよ。
もうすぐ営業時間が終わっちゃうときだけど、係りのおばちゃんが入っていいよって
言ってくれたので見学することになりました。中は江戸時代の旅籠を再現した
お人形が本物のように座っていて少し不気味です。土間を抜けると裏庭に出るよ。
16時14分
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裏庭には水琴窟という、とてもきれいな水の音が聞こえる井戸みたいなものがあって
佐武とママは聞かせてもらいました。その向こうには立派な蔵が並んでいたけど
あの蔵は江戸時代のものではなく、明治になって財を成した家主が建てたんだって。
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ボクは心が折れてしまったので入り口のベンチから動きませんでした。でも元気な
ママと佐武はこんなことをして遊んでいたのです。早く宿に行きたいのに。
16時23分
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ここが岡部宿の本陣跡だよ。今はこんな小さな石碑が1本あるだけです。
問屋場跡を過ぎると、消防団の車庫前を左に進むのが東海道だよ。
ここからもきれいに舗装された道が続きます。
16時26分
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旧道に現れた立派な小さな橋?これでも橋かなぁ。脇に案内板があったので
読んでみました。これは由緒ある橋で、小野小町の姿見の橋というのだそうです。
絶世の美女だった小野小町が晩年に東国へ下るときに、この岡部宿に泊まったんだ。
小町はこの橋の上に立ち止まって夕日に映える西山の景色の美しさに見とれて
いたけど、ふと目を橋の下の水面に落すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の
姿が映っていたんだって。そして過ぎし日の面影を失った老いの身を嘆き悲しんだ
んだよ。そんなことがあって村人はこの橋を小野小町の姿見の橋と呼んだんだ。
平次も水面に自分の顔を映して観て見るといいかもしれないね。
16時27分
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もうゴールはすぐそこだよ。頑張れ平次。左が岡部宿の高札場跡、右は問屋場跡だよ。
16時30分
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やった~。ここが今日のゴールの岡部支所前交差点に出たところだよ。
ここからバスで藤枝にも静岡へも行けるけど。ボクたちが選んだのは
そのまま、すぐそばにある旅館きくやに泊まることなんだ。宿はここから東へ
150m。早く行ってお風呂入ってご飯食べたいな。
16時40分
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