坐漁荘に住みたいから買って~。なに家だけで2億円もするの!!

第18日目 2011年4月30日

平均気温16.7℃ 最高気温23.7℃ 最低気温10.1℃ 平均湿度56 % 風速2.1m/s 降水量0.0mm 日照時間7.7時間
気象庁電子閲覧室より引用


清水のしのぶ旅館で1泊したボクたちは電車に乗って興津へ戻ってきたよ。
駅から歩き始めたのは8時56分。早いでしょ~。駅から5分歩くとここ、
興津宿公園だよ。公園といっても遊具は無いからつまんないよ。
でもボクはスィングするベンチを見つけたんだ。こんなベンチ初めてみました。
9時02分


東海道の17番目の宿場興津は、宗像神社の興津宮をこの地に持ってきたから
なんだ。宗像神社は福岡県の宗像市にあって、興津宮というのは九州の沖55km
にある沖ノ島に祀られている宗像大社沖津宮のことで、大陸との貿易で重要な
場所なんだって。沖ノ島は神の島で、今でも女人禁制の島なんだよ。
宗像大社は道の神様だったので、東海道の重要なこの地に持ってきたんだね。
そんな公園の片隅に例の
宿場スタンプが置いてあったんだけど、ここのスタンプ台も
乾燥しきって使い物になりません。スタンプ自体はまだまだ使えるのに押せないじゃない
ママは怒っています。今から10年前に興った東海道400年記念ルネッサンスで
設置したスタンプだけど、今でも街道歩きの旅人はたくさんいます。
特にボクたちはスタンプラリーを楽しみにしているので、町の人は気を遣って下さい。


公園の並びには市川東本陣跡手塚西本陣跡が並んでいます。
今は普通の民家と山梨自動車商会になってるよ。西本陣の右隣が脇本陣で
道の反対側にも水口屋と身延屋という二軒の脇本陣があったんだよ。
9時07分


清見寺の駐車場のところに立派な案内板がありました。そこには
興津の歴史・東海道五十三次について・興津宿の規模・清見寺・坐漁荘
興津の海と明治元勲達の別荘地・日本三大並木・宗像神社について
解説が書かれていたよ。宗像神社もプラタナス並木も見なかったね残念。
9時14分


清見寺は、今から1300年前にここにあった清見関という関所の傍らにあった仏堂が
その起源なんだ。平安時代は天台宗のお寺だったんだけど、鎌倉時代に禅宗になり
戦国時代には武将達の争奪戦となり、大変だったんだ。徳川家康は子供の頃、
今川の人質だったんだけど、この寺の和尚さんに教育を受けたんだって。
東海道線が開通すると、その参道を線路に分断され、
山下清画伯は、こんな
言葉を残しました。その碑が10年前にはあったのに、今はどうしたんだろう。

 
   
山下清
 「清見寺スケッチの思い出」より

  清見寺という名だな このお寺は 古っぽしいけど上等にみえるな 
 お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわ
 けかなあ お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな
 お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな
 お寺の人はよその人に 自分のお寺がきれいと思われるのがいいか
 自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな




この景色が清の見た埋立地だよ。昔は汽車もなく、東海道の向こうには
青くて綺麗な海が光っていたんだろうね。ボクたちも清の気持ちに賛成です。


ツツジが満開の階段を登って境内へ入ってゆきましょう。


この鐘楼にある鐘は、正和三年(1314)の鋳造で、天正一八年(1590)豊臣秀吉の
伊豆韮山城攻略の時に陣中において鳴らしたんだよ。音聞いてみたかったね。


お庭には、高山樗牛の清見寺鐘声の碑文があります。ちょっと長いけど読みます。


 
鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ。うるわしきかな、山や水や、偽りなく、
 そねみなく、憎みなく、争ひなし。人は生死のちまたに迷ひ、世は興亡のわだちを廻る
 山や、水やかはるところなきなり、おもへば恥かしきわが身かな。ここに恨みある身の
 病を養へばとて、千年の齢、もとより保つべくもあらず。やがて哀れは夢のただちに
 消えて知る人もなき枯骨となりはてなむず。われは薄幸児、数ならぬ身の世にながら
 へてまた何の為すところぞ。さるに、をしむまじき命のなほ捨てがてに、ここに漂泊の 
 日暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。鐘の音はまたいくたびかひびき
 わたりぬ、わがおもひいよいよ深うなりつ。


仏殿を覗いて見たら、怖い顔のお坊さんが座っていたのでビックリ。


手前が仏殿でさっきのお坊さんが座っています。奥の建物は大方丈
家康が勉強した部屋が残されているんだって。


仏殿の裏に廻ると不気味なくらいお地蔵さんがいっぱいいました.。これは
五百羅漢石像で、江戸時代中期の作品だよ。島崎藤村の小説
「桜の実の熟する時」のラストシーンは、ここです。

ボクたちなんか、裏から入っちゃったみたいで、出口と思ったのが山門でした。
山門の階段を下りると、レンガ塀で行き止まり。昔は総門まで階段が続いていたんだね。
佐武がついて来ないと思ったら、そのレンガ塀の上に片足で立っているじゃん。
下を電車が走っているから危ないよ。早く降りなさい。ってこれは佐武が考えた
トリックなんだ。安心してね。


総門を出て西に向かうと、さっきの高山さんが住んでいたが高山樗牛假寓之處がありました。
9時29分


清見寺から3分進んだ海側にあるのは坐漁荘跡です。跡と言っても当時の
建物を再現した建物が建っていて中を見学することができます。
本物の建物は昭和46年に愛知県の犬山明治村に移築したんだって。
建物がなくなって寂しくなった地元の人たちは2億円かけて平成16年に
復元したんだ。お金持ちの人が多いんだねといったら当時の清水市が
払ったんだって。坐漁荘は、明治大正昭和の政治家だった西園寺公望の
老後の静養の家として、大正9年に建てられた家で、当時は目の前が風光明媚な
清見潟だったんだ、今ではグランドになって海は遥か遠くへ行ってしまいました。
目の前が海だったらボク絶対住みたいと思いました。
9時32分~45分


左が坐漁荘の入口だよ。無料だからみんなも絶対に入ってみるといいよ。
みんな畳の部屋だけど、1階の端に洒落た洋間もあるよ。


1階の広間は海が良く見えるように全面ガラス戸なんだ、しかも戸袋を付けると
景色が見えなくなっちゃうので、コーナーを回転させる雨戸が付いていておばちゃんが
実際に回転させて見せてくれました。右の部屋は茶室で、敵に襲われたとき
どこへでも逃げられるようにいろいろな部屋とつながっているんだよ。
2階の廊下は鴬張りといって歩くとキュッキュュと大きな音がしました。これも
敵の侵入を想定しての造りなんだって、政治家ってそんな敵が多かったのかなぁ。
実は有名な
二・二六事件のとき決起した将校に狙われたんだけど、この坐漁荘にいて
難を免れたんだ。西園寺公は、神田の駿河台に本宅があったほか御殿場や京都にも
別荘があり、晩年は夏は御殿場、冬はここで過ごしたんだって。


台所やお風呂場も質素だけど立派な造りだと思いました。佐武は黒電話が気になっています。


二階の広縁に座って海を見た気持ちになっているボクです。とても気持ちの良い
空間で、パパに2億円で買ってとおねだりしました。良し宝くじ買いに行こうって。
ここのガラスは歪んでいるのをパパは発見。工場で作った板ガラスではなく、
手作りのガラス板なんだって。そういえば景色も歪んで見えます。


坐漁荘を後に国道を少し進むと波多打川が近づいてきました。この先に上を通っている
道は
静清バイパスで、ここへ来るとき車で走った道です。ここからの旧道は複雑なので
地図を見ながら迷わず進んでね。そのまま国道を進んでもあまり変わりないけど、
この先に400m旧道があるんだ。入り方はバイパスの下を抜けたら、川を渡りきったら
すぐ
左の小径に入ること。その先突き当りになったら右折すると、この横砂踏切に出るよ。
9時58分


横砂踏切を渡ると右側に不思議な家があったよ。鳥かごが7つも軒下に下がって
いて、いろいろな鳥がいます。中にはしゃべりそうな鳥がいたので、こんにちわって
話しかけてみたけど、反応はなかったよ。パパは何度もインコを飼って失敗して
いるので、こんなにいっぱいいると旅行へも行けないなぁと心配していました。
9時59分


400m歩いて国道と合流するところに信号機はありません。角の延命地蔵尊が目印。
山の上を見るとお城の屋根のようなものが見えました。この山に城址はないし?
地図で見ると池が描かれています。ネットで調べてみたら。静岡市上下水道局の
太平山配水池であることが分かったよ。眺めの良い場所なので市民開放しているのかな。
10時02分


横砂の交差点を過ぎ、横砂西町に入るところに庵原川があります。
海まで500mほどの小さな川を渡れば江尻はもうすぐです。
10時13分


真っ直ぐ伸びた街道に一本だけの松の木、近寄ってみると
袖師ふるさとの路12旧東海道松並木の松と書いてあったよ。
でも松並木無いじゃん。12って12本目の松ってこと、おかしいなあとの11本はどこ?
そんなこと考えながら進むと久々の国道道標があったよ。
日本橋から169kmびっくりしたことにパパが計ったボクたちの歩いた169km地点
と16mしか離れていません。国道1号線と旧東海道はずいぶん違うルートなのに
ここへ来てドンピシャリとなったことにパパは感激していました。

10時37分


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