綺麗になった川廓通りにはビックリ、でも足痛いよう~!

本当に足が痛くて、やっと歩いている平次。特にどこが痛いというわけではなく筋肉痛らしいので
日ごろの運動不足が気になります。体重もやや太めになって足の負担が増えているのでは。
運動会に向けても、もう少し体重落として鍛えないとこの先が続きません。



 傍示石(傍示杭)
 大久保忠佐の死後、1614年に三枚橋城は廃城になった。
 その後沼津は天領となり、韮山の代官江川太郎左衛門の支配下
 にあった。
 初代沼津藩主 水野出羽守忠友は1777年に将軍家治の御側用人
 になり、加増されて2万石の大名となった。この時、忠友は沼津の地
 に所領(1万4千石)を与えられ将軍から築城を命じられている。
 翌1778年2月8日に「従是西 沼津領」の杭が韮山代官所から
 運ばれ、東海道沿いの黄瀬川村と下石田村の境界に建てられて
 沼津藩領域が確定した。
 水野家はその後5万石になり明治維新まで8代続き、忠友以下
 8名の老中や若年寄を輩出した名家である。
 傍示杭はその後石製の物に作り替えられ何度か小移転されたが
 元々は当駐車場右側に建てられていたものである。
                             沼津市史より


潮音禅寺と東下石田合流交差点の間、右側の道ばたにあるのがこの傍示石だよ。
今は何の変哲も無い場所に建っているけど、昔は国境と同じ感じだったのかなぁ。
この周りには黄瀬川自動車学校、黄瀬川病院と黄瀬川の地名が広がっているけど
信号名は下石田、川も無いのに村境をどうやって決めたんだろう。
でも、ここからが沼津藩の領地なんだね。ボクたちも沼津に入りました。
11時49分


ジーンズショップのOSADAとBMW販売店と黄瀬川病院に囲まれた交差点が
東下石田の交差点だよ。昔はボクたちが来た東海道が国道1号線で、その後ここで
合流する県道380が国道1号線になり、今国道は、沼津市街を北に大きく迂回して
富士市へ向かっているんだよ。道の歴史を感じるポイントさ。すぐ左を見ると
大きくそびえるビルが現れるよ。これが
黄瀬川病院だよ。
11時51分


足が痛いボクは、1km進むごとに休んで、パパに足をもんでもらいます。さっきの
潮音禅寺が120kmポイントで、121kmポイントは何処と聞くと、
西友の外れ旧道の
入口だよとパパ。元気な時は、気がついたら1km進んでいたボクですが、今日は、
まだかまだかと歩いてます。やっと目標の西友が見えました。大きなショッピングセンターで、
専用の入場路が立体交差で駐車場につながっていました。その下にあったのが、
江戸時代の
下石田村要図だよ。傍示石からここまでの周辺に昔何があったか詳しく
書いてあるよ。
12時00分


立体交差のしたから150m進むと、旧道は左へと入ってゆきます。
たった730mほどの旧道だけど、見どころがたくさんあるから是非入ってね。
12時03分


旧道のすぐ左は
狩野川の土手になっているよ。階段があるから土手の上を歩いてみよう。
空が急に広くなり風が吹いて気持ちの良い道でした。200m土手を進むと正面に黒瀬橋が
見えてくるよ。この橋へ登る道と、下へ降りる道に分かれるからボクたちは下へ降ります。
12時08分


土手の上からは、香貫山の慰霊平和塔が見えたよ。また白鷺も飛んでいました。
川の反対側には太いパイプが2本突き出た建物があったよ。パパに聞いたら、
この向こうから浪人川という川が流れてきてここで狩野川と合流するんだけど狩野川が
台風で増水した時逆流して町が水没するのを防ぐために、そんなときは水門を閉めて
ポンプで浪人川の水を狩野川に排水する
排水機場なんだって。なんでも沼津や中伊豆の
人たちは昭和33年の狩野川台風で凄い被害を受けたんだって、それで災害に対して
準備を怠らない町になったんだよ。
12時13分


ここは、狩野川沿いの黒瀬橋下にある、平作地蔵尊だよ。江戸時代に平作爺さんが
茶店を開いていた場所なんだ。しかしそれがどうして地蔵尊になったかは、ここに
ある説明板を読んでもよく分からないよ。後でパパが調べてくれたんだけど、話は
とてもややこしくて、ボクの頭じゃなんのことかぜんぜん分かりません。じゃぁパパの話。

話の発端は、池田さんが岡山藩主だった寛永7年(1630年)にさかのぼるんだ。
藩主には、小姓の渡辺源太夫という刀持ちがいたんだけど、この小姓が好きになった
河合さんは、ふられて逆上して源太夫を殺してしまうんだよ。そして河合さんは
江戸に逃げて旗本の安藤さんに助けを求めた。池田さんは安藤さんに河合さんを
引き渡せと迫るけど、池田さんは外様、安藤さんは旗本、安藤さんは旗本の
面子にかけて河合さんをかくまうんだ。しかし幕府は喧嘩両成敗で、河合さんを江戸から
追放するんだよ。日本中を逃げた河合さん。そこで登場するのがこの説明板にある
渡辺数馬さんだよ。数馬さんは小姓の源太夫さんのお兄さんで、源太夫さんの
仇を討つため、2年間河合さんを探すんだ。平作さんは、旅人に河合さんの
行方を聞き出すために自殺するんだけど、その時、聞き出した河合さんの居場所は
九州相良吉田と言うことになっているけど、実際は奈良の郡山だったんだよ。
郡山の河合さんに迫った数馬さんに気がつき、河合さんは再び江戸に逃げようと
伊賀路を通った時、鍵屋の辻で数馬さんに討たれるんだ。この話は話題になり、
最近では黒沢明監督の映画「荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻」になったよ。
荒木又右衛門は、数馬の姉さんの旦那さんで、剣の達人なんだ。
数馬さんは、剣道が苦手だったので、荒木さんに助っ人を頼んだんだよ。
結局、平作爺さんとは何の関係があるかと言うと、爺さんの娘お米が数馬の
奥さんだったんだ。つまり、娘婿のために爺さんは命を投げ出したのさ。
そんな爺さんの義侠心にほれて、村のみんなが、この地蔵尊を作ったというわけ。

なんだか分かったのか分からないのか、よく分からない???
12時14分


平作地蔵の向かい側には沼津一里塚が公園になってあるよ。さっきの伏見一里塚
からは距離が足りないけど、宿場内に作れなかったので手前のここに作られたんだ。
江戸からは30番目の一里塚だよ。昔は狩野川の土手側にもあったけど、今は1つだけ。
この先の31番目と32番目の塚はもうないんだって。この公園には
玉砥石もありました。
12時19分


玉砥石は今から1200~1300年前に作られた玉を磨くための石で、
この縦の溝が玉を丸くするために磨いた跡です。大昔の本「和名類聚抄」
には、この辺が玉造郷と書かれていることや、周辺から玉が出土すること
などから、玉造りが盛んな村だったのでしょう。この砥石は静岡県では
ほかに無いのでとても貴重な石なんだよ。


旧道を出て、旧国一通りを三園橋交差点だよ。ここは横断歩道が無く、歩道橋を
渡らなければならないよ。パパはボクたちが自分で歩いて渡ってくれるから
助かると喜んでいました。中山道の時はバギーを抱えて上り下りしたんだって。
12時31分


歩道橋を降りて真っ直ぐ140m進むと左に入る道があって、それが旧東海道の
川廓通り
だよ。城壁やお堀で仕切った区画のことをくるわ(曲輪・廓・郭)と呼ぶのだけど、
ここの右側が江戸時代の沼津城外廓で、左が狩野川だったので、その地形から川廓通りに
なったんだ。当時は船着場もあって、沼津の中心地だったんだよ。
昭和30年代まであった
石畳を再現したんだよ。街灯も変わったデザインで
電球が見えません。きっと柱の中から上を照らして、上の笠のような
板に反射させるんだと思うよ。夜きたら間接照明の街灯で素敵な風景になるんだろうね。
12時38分


川廓通りは270mで
さんさん通りに出ます。そこで左折してください。
ついでに横断歩道を渡って、さんさん通りの右側アーケードを進みます。
100m進むと、左側に大きなビル、
沼津東急ホテルが現れたら正解です。
12時42分


東急ホテルの前には
洒落たベンチがあったよ。ボクはもう足が痛くて
お姉さんと一緒に休憩しました。みんなもここに座って写真とってね。
12時43分


さんさん通りを250m進むと通横町交差点だよ。ここで東海道は右折し、
御成橋通りに入るよ。100mで次の信号があるから今度は左折して上本通り
進んでね。曲がるとすぐに
高田本陣跡の石碑があります。今は駐車場に
なっちゃた。佐武は本陣より目の前のお蕎麦屋さんに向かって一目散です。


今日の昼食は高田本陣の隣にある安田屋さんです。佐武のお昼は必ずお蕎麦なので
ラッキーでした。この先お蕎麦屋さんはなかなか出てこなくなります。ボクはカレーライス
パパとママはカツ丼を食べました。とっても美味しくて元気百倍です。でも足痛い。
12時47分~13時19分


上本通りを南に進むと、右側にベルタクシーの営業所があって、そこが間宮本陣跡だよ。
この上本通りが沼津宿の中心地だったんだね。本陣前が日本橋から123kmポイントです。
下本町バス停の先の交差点、左に橋が見えたら右折し、今度は
永代橋通りを進みます。
ここを曲がったら吉原の檜交差点まで13kmの直線道路になるよ。パパも東海道で
一番こたえる道路だって言っていました。とにかく一直線で変化が無いんだって。やだな~
13時26分


永代橋通りに入って浅間町交差点を過ぎると右側に永明保育園があって、
お庭にゴジラのすべり台がありました。なんだか楽しそうな保育園だよ。
保育園の通用門には石に文字が刻まれています。保育園は永明寺という
お寺がやっているので関係あるのかなぁ。ボクには母と言う字だけ分かった。
その先は子持川を越える
幸橋です。なぜか灰皿が置いてありました。
13時33分


子持川はとても浅くて、中には小さな魚がたくさん泳いでいるのがよく見えます。
こんなに浅くては鷺や鵜が飛んできたらみんな食べられちゃうと心配です。
13時35分


川を渡って60m、左側に美味しそうなソフトクリームを売っているお店があったので
食後のデザートに買ってもらいました。朝霧高原の牛乳で作ったソフトクリームは
味が濃厚でとても美味しかったよ。これで又元気が出たから前に進めるね。
13時37分


信号「西高入口」でさっきの御成橋通りが、永代橋通りに合流してきます。更に
進むと妙伝寺手前に
六代松の碑がありました。碑には是より南一町半とあります。
一町は109mだから一町半は159m、千本松原までは300m近くあるので
その途中の住宅地にその松はありそうです。残念ながら足の痛いボクは先へ進むよ。


 六代松

 東間門に近い千本松原の中に六代松の碑がある。19世紀初めまでは一株の大きな松が
 あったと言い伝えられてきたが、現在はその痕跡は全く見られない。 六代は小松の三位
 中将平維盛の息子であり、祖父は重盛、曾祖父は清盛である。平家物語によると、六代は
 平家一門の滅亡に伴い、源頼朝の家来北条時政によって捕らえられ、鎌倉ヘ護送の途中、
 千本松原において処刑されようとした。その際、文覚(もんがく)上人の命乞いによって
 赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり、処刑されたと伝えられている。 従者
 斉藤六範房は、六代の首を携え、ゆかりの深い千本松原にやって来て、その首を松の根
 元に埋め弔ったと伝えられている。この松を土地の人は「六代松」と称し、六代御前に関わり
 を持つ松として親しまれてきたが、松が枯死したので、天保12年(1841)に沼津藩の典医で
 あった駒留正隆の撰文により、枯れた松の傍らに記念碑が建てられた。

                         沼津市文化振興課文化財センター


妙伝寺の先には新中川があって間門橋で渡ります。間門(まかど)って面白い地名でしょ。
昔、この南の浜に閻魔大王の首の像が網にかかって取り上げて見たところ、首の後ろに
天竺摩伽陀国と彫られていたんだ。村人は胴や手足を作ってお堂に祀ったんだよ。
その摩伽陀(まかだ)が間門(まかど)になった説と、アイヌ語のマカ(開く)、ト(湖水)で
マカトになったという説があるんだって。

13時54分


間門橋を渡ると西間門交差点、ここでは右後ろから来た旧国一通りが千本街道と名前を
変えて左前へと交差します。ボクたちが歩いてきた永代橋通りもこの先は旧東海道と
名前を変えました。本当の退屈な一直線道路はここから始まります。みんなも覚悟してね。
13時58分


ボクの足の痛みはオーバーヒートみたいだ、靴を脱いで裸足になって冷やしたら
少し楽になったよ。これからは1km毎に冷やすことにしました。あまりに長い直線で
あきてきたら
片浜小学校がありました。小学校コーナーのために記念撮影。
14時44分


痛い足を引きずりながら1700m進むと片浜小学校の先に食べ物屋さんがありました。
左はコーヒー食事の
山河、真ん中はレストランハミングバード
右は
ログハウスの店ですが、何食べられるか分かりません。
いずれにしてもコンビにも無い旧東海道で、この3軒はオアシスかも知れないね。
みんな片浜小学校と片浜駅の間にあるから憶えておいてください。
15時00分


やっと片浜駅に着きました。ここでゴールかと思ったらパパは2.5km先の原駅まで
行くって、ここじゃぁまだ10kmしか歩いてないんだって、ボクはとてもがっかりしたよ。
でも、次の次の行程を考えると、今日はどうしても原まで行かないとダメだって無茶
言うんだ。なんでも由比の倉沢屋の開店時間が11時だからなんだって、何だそれ!
15時16分


この旧道の唯一の目印の東海道線踏切にやっと到着、電車は楽でいいなと
思いました。普段は車でお出かけしてるけど、乗り物が本当に便利だと
足が痛くて歩いているボクは思いました。踏切を越えれば1.5kmで原駅だ~。
15時35分


踏切から1kmのところにあるのが
松蔭寺だよ。ここは700年前の古寺だけど、
白隠禅師が住職になってから有名になったんだ。白隠は、1685年この地に生まれ
15歳の時この寺で出家したんだ。それから清水の禅叢寺、美濃の瑞雲寺、越後の英巌寺
で学び、信州の道鏡慧端のもとで悟りを開き、33歳の時この寺に帰ってきたんだ。
以後、地元で布教し衰退していた臨済宗を復興させたんだよ。今でも臨済宗十四派は
全て白隠を中興の祖としているんだって。白隠を表す有名な言葉が、

駿河には 過ぎたるものが二つあり 富士のお山に 原の白隠

16時01分


原駅手前400mの原交番向かいにあるのが白隠の生家跡(写真左)。ここは白隠の母
妙遵の実家で屋号を味噌屋と言ったんだよ。後にお父さんが分家して、ここに沢潟屋を
作った跡地でもあるんだ。今でも白隠が産湯を浸かった井戸が屋敷の奥にあるらしいよ。

右の写真は、交番から少し進んだところにあった
渡邉本陣跡だよ。渡邉家は源頼朝の弟
義経の兄である阿野全成の子孫で、ここに6600坪という広大な敷地を持っていたんだ。
屋敷も235坪もあったので、自然と大名が泊まるようになり本陣になったんだよなったんだよ。
明治の頃は天皇の行在所として活躍したんだ。
16時06分


辛かった今日の旅も、ここ原駅でやっとゴールインです。パパは駅前の常盤旅館に
泊まりたかったんだけど、ゴールデンウィークで出かけちゃったのか全然電話が
通じなくて、仕方なく沼津に宿を取ったんだ。だからこれから沼津へ戻って1泊するよ。
16時10分


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