かなり暑くなったけど、次のために頑張って国府津まで進みました。

第9日目 2009年5月2日

平均気温19.5℃ 最高気温25.0℃ 最低気温15.0℃ 平均湿度53% 風速4.1m/s 降水量0.0mm 日照時間12.2時間
気象庁電子閲覧室より引用


2月も3月も4月もチャンスが無くって、やっと街道に帰ってきました。
東海道は冬のほうが歩きやすいけど、インフルエンザに罹ったりで
みんなの都合がなかなかつかなかったんだ。今日はものすごく良い
天気だけど、ちょっと暑くて参ったよ。それでは
平塚駅から出発です。
10時20分


いきなり美味しそうな匂いがしてきたよ。ここは川万という鰻屋さんだよ。
いきなり入ろうかってパパが言ったので喜んだら、まだ準備中でした。
川万は平塚駅前交差点のすぐそばだから時間の合った人は匂いに誘われて!
次の交差点まで行くと、正面に山が見えてきました。東海道はず~っと平らな
道を歩いて来たので、近くに山が見えるのは初めてだよ。
10時24分


市民プラザ交差点手前で行列を発見。その店は白いタイヤキという看板が出てたよ。
さめても美味しいもちもちたいやきの店なんだって。13人も人が並んでいたから
諦めて先に進むことにしました。チェーン店みたいなのでまた発見できるかなぁ

10時26分


ライオンズマンションの先、市民センターの手前にあるのが平塚宿の江戸見附跡だよ。
ここからは江戸時代の平塚宿になるんだよ。案内板に書いてあるから読んでね。
10時35分


 平塚宿の江戸見附

  平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿
 江戸見附がありました。
  本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見
 張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、
 宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境
 (宿境は傍示杭で示す)を意味するものでなく、見附から正式に宿内であることを示す
 施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
  平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にある
 ものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に
 十四町六間(約1.5km)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で
 構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、
 江戸時代を通して二百軒を超える街並みが続きました。
  一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で
 固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
  平塚宿江戸見附は、長さ約三.六メートル、幅約一.五メートル、高さ約一.六メートル
 の石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は
 東西に少しずれた形で設置されていました。

          平成十三年(二〇〇一年)十月             平塚市




見附の隣には平塚宿(旧東海道)史跡絵地図があって、おばあちゃんが見ていたよ。
ボクたちが歩いてきたと言ったら驚いていました。絵地図を大きくして観たい人は、
マウスをクリックしてね。市民センターの真ん前には
平塚の里歌碑の道標があったけど
矢印の方向は市民センターの中で見当たりません。センターの中庭にでもあるのかな。
10時36分


市民センターの先には小さな森があって、そこには平塚小学校蹟の樟樹が有ったよ。
とても大きな木だけど樹齢は80年なんだって。裏には昔の学校のような市立崇善公民館もあります。
10時38分


 平塚小学校蹟の樟樹

 平塚小学校では明治二十八年三月、校庭の一隅へ樟の種子を蒔いたところ、
 六月十五日大地をわって双葉が萌えいでいた。種子は明治二十七・八年戦没
 講和記念として神奈川県知事中野健明が県下各学校へ配布したもののひとつ
 である。この地は明治十三年十一月崇善館を移築して平塚小学校と稱してから
 昭和二十年七月の戦争罹災まで日本一を誇った平塚小学校(現在崇善小学校)
 の旧地でここに学んだ児童たちはひとしくこの樟樹の傍らで遊びたわむれた記
 憶をもっている。樹令八十余年記念すべき名木と言うべきだろう。
   
  平塚市観光協会




幅の広い歩き易い歩道をどんどん進むと、高いビルが少なくなって空が広がるよ。
バス停でもないところに木のベンチを発見。お年寄りが駅まで歩く途中休むのかな
交差点を渡って茅沼酒店の前にあったのは
脇本陣跡の碑でした。ここの脇本陣は
享和年間にはもっと西にあったんだけど、天保年間に二十四軒町の北側のこの地に
山本安兵衛が営んでいたんだよ。酒屋さんはその子孫なのかなぁ。
10時43分


いよいよ直近に迫ってきた山は、高麗山168mだよ。ここは平塚本宿郵便局前だから
直線距離で1780m有ります。あの山の麓まで行けばもう大磯町に入るんだよ。
10時44分


平塚本宿郵便局の隣には、平塚最中で有名な安栄堂の真新しい店舗があります。
ボクたちやパパとママも甘いものがちょっと苦手なので寄りませんでした、ごめんなさい。
その隣
山口屋茶舗の前には高札場跡の碑がありました。
10時46分


この高札場は、二十四軒町にあり、幅5m高さ3mもある大きなものだったんだよ。
その先で弟の佐武が大騒ぎ、なんと
さぶちゃんというお店がありました。パパやママは
いつもさぶちゃんと呼んでいるので、この看板はとっても愉快でした。
10時47分


さぶちゃんと同じブロックにある神奈川銀行の前には本陣跡の碑がありました。
この本陣は、この銀行とほぼ同じ場所に在って、加藤七郎兵衛が代々営んで
きました。第14代将軍家茂は文久三年と元治二年の2回休憩し、明治天皇も
明治元年と二年の2回休憩したんだって。そばには洒落た白い椅子があったので
ボクたちも休憩しました。
10時48分


道はY字路となって、そこに消防団の分署があるよ。この場所は西組問屋場跡なんだ。
平塚には他にも東組問屋場があるけど、そっちは加宿を願い出て許された新宿にあるんだ。
だからこの西組問屋場のほうが古いんだよ。東海道はここで右の旧道へと入ってゆくけど、
ボクたちはちょっと寄り道して直角に右へ入ってみます。
10時51分


右に入ってゆくと正面に要法寺というお寺があるよ。中に入ってびっくり、
大きな鉢が並んでいるよ。中を見ると
が植えてあるのだけど、
どの鉢にも蓮の名前が書いてあって、みんな違うんだ。
今日5月2日の時点ではまだほとんど花は咲いていなかったけど、咲いたら凄そうだね。
10時54分


寄り道の目的は、要法寺の西隣にある平塚の塚です。平塚ってなんで平塚って言うか
ここへ来ると分かるんだよ。江戸時代に書かれた新編相模国風土記稿に次のように有ります。

昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安
元年(857)二月この地で逝去した。柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた、
その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。

なるほど、それで「ひらつか」が、ここの地名になったんだね。それにしても西暦857年というば
平安時代の前期、都ではなく東国のこの土地にも人々は暮らしていたんだね。
11時00分


再び街道へ戻って西へ進むと、高麗山がますますちが近づいて、やがて国道へ合流します。
この先でバイパスと国道が合流するので、この交差点で国道を北へ渡って、今度も国道の
北側を行くといいよ。
11時11分


合流から300m、花水川にかかる花水橋に着きました。もうここは大磯町だよ。
橋の東詰には現代の一里塚と称した
にせものの一里塚が有ったよ。ボクは
やっぱり一里塚は本物が好きです。だって一里歩いたら休憩してたのに狂っちゃうよ~。
11時20分


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