ボクたちの住む街川崎の空は、何処までも青く透き通っていました。

第4日目 2007年12月16日

平均気温6.9℃ 最高気温10.6℃ 最低気温3.6℃ 平均湿度45% 風速3.7m/s 降水量0.0mm 日照時間9.0時間
気象庁電子閲覧室より引用


4日目は、ボクたちの住む街川崎からスタートです。東海道はJR川崎駅近くを通って
いますがボクたちの街は麻生区といって川崎でも一番北の外れ、ここまで車で1時間ほど
かけて来ました。パパはこの東海道周辺で生まれ、佐武の年まで暮らしましたが、
その頃の川崎の空は鉛色。洗濯物もすぐ真っ黒になってしまうと母が嘆いていたことを
憶えております。夜になると日本鋼管の転炉からの光が上空の雲を染め上げ、
オレンジ色に染まり、とても綺麗だと思っていました。京浜急行が地上を走り、トロリーバスの
架線が蜘蛛の巣のように上空を覆った当時の川崎駅前。いまでは電車は高架、
人はアゼリアという地下街を利用し、とても綺麗な町へと変わったのです。


車をいつものヨドバシアウトレット裏の駐車場に入れて、今日も元気に出発だよ。
まずは朝食。お腹が空くと歩けなくなってしまうので、アゼリアのマックへ行きました。
パパは昔、通勤でこの地下街を通っていたのでとても懐かしがっていたよ。


アゼリアの真ん中でシンデレラの靴(写真左)を発見。ここでお買い物して応募すると
このガラスの靴と10万円が当たるんだって、ママにプレゼントしたくなっちゃった。
マックで朝食の後は、
中の本陣跡(写真右)から出発します。
9時43分


旧東海道はこの辺りでは砂子通りと呼ばれています。市役所通りとの交差点が
砂子で、ここから左右をよ~く見ると、この旧東海道が高く、左右へ行くほど道が
低くなっていることがわかるよ。昔、街道沿いの旅籠や民家の裏はすぐ畑や田圃で、
街道がその中を少し高い位置で通っていたんだ。田圃の畦道より二段高いって感じかな。
だから今でもその名残で両側が低くなっているんだと、砂子の里資料館のおばちゃん
が教えてくれました。砂子の交差点を渡ると左側に

佐藤惣之助生誕の地碑
があるよ。ここの北隣が
佐藤本陣跡で惣之助はこの本陣で明治23年12月3日に生まれた詩人だよ。
有名な歌をいっぱい書いた人というけど、ボクたちには分からない歌ばかりです。
その代表作は、「赤城の子守唄」「人生劇場」「新妻鏡」「男の純情」「青い背広で」
「湖畔の宿」「人生の並木道」「すみだ川」そして阪神タイガースの歌「六甲おろし」
なんかがあるんだって。
9時48分


消防団の建物の前にあったのは、
旧橘樹郡役所跡記念碑だよ。何て書いてあるかは
難しくて分からないから、そのまま下に書いてみました。その交差点は砂子二丁目(写真右)。
9時50分


 「旧橘樹郡役所跡記念碑」設立の記

  明治十一年(1878)の郡区町村編制法により、神奈川町成仏寺に橘樹郡役所が設置され、
 橘樹郡内十町百十一村の行政を司った。明治二十一年(1888)同町内に郡役所が新設され
 その後郡制が施行されると、郡長のもと各地代表の郡会議員により、道路・治水・教育。産業
 などが議せられた。
  明治三十四年(1901)神奈川町の横浜市編入により、橘樹郡の中心は、産業開発著しい
 川崎町に移り、大正二年(1913)現在地の川崎町砂子に威風堂々とした郡役所が建てられ
 川崎・保土ヶ谷二町と十七村の行政に当った。郡南部の臨海埋立地には京浜工業地帯が
 形成され、人口増加による都市化が進む一方、北部農村地帯も私鉄の沿線開発や近郊農業
 の発達などにより大きく変貌した。
  大正十三年(1924)七月川崎に市制が施行され、大正十五年(1926)郡役所は廃止された。
 その後川崎・横浜の市域拡張により、昭和十三年(1938)には半世紀にわたり親しまれた
 「橘樹郡」の名も消えることに成った。
  郡役所の川崎移転から九十年。ここに有志相集い、川崎市制八十周年を記念して、往年の
 地に「旧橘樹郡役所跡記念碑」を建立し、万葉集にも歌われた橘樹の名を永久に留めること
 にした。

 
平成十六年三月三十日
                        
旧橘樹郡役所跡記念碑設立委員会



旧東海道を歩いていると脇道が面白いんだけど、ここでも面白い道を見つけたよ。
東海道と直角に交わる、
仲見世通り商店街は、石畳の道なんだけど道がクネクネと
カーブしているんだ。車も走れるんだけど、スピードが出せないようにしているのかなぁ。
9時53分


交差点「砂子」を過ぎると、歩道と車道の間に
竹の顔がありました。
これは面白いので、佐武と二人で写真を撮りまくったよ。中に懐中電灯が
入っているのもあったから、きっと夜になると明かりが灯り顔が浮かび上がる
仕組みなんだねとパパが説明してくれました。このイベントいったい何のイベントか
知っている人がいたら教えてください。


砂子から300m小土呂橋交差点にきました。ここには昔橋が架かっていたと
言うけど今は何もありません。橋脚が交差点の隅にあるって案内板にあったけど
見つかりません。交差点正面のビルのガラスにクレーンが写っているでしょ。
これが気に入って写真に撮ったので、いろいろなメニューの写真で見てね。
交差点を渡って少し進むと左に大きなかにが動く看板が会ったよ。
どこかで見たことのある看板なんだ。それは今年の春休みに入った
大阪道頓堀にあった看板と同じなんだよ。
かに道楽って
お店の看板で、こんなところにもあったのでビックリしました。
9時57分


この辺は、前回遊びに行ったラ チッタデッラの裏側、ちょっとお店も少なくなった
辺りに
川崎宿京入口の案内板があったよ。昔ここが川崎宿の京都側の入口で
土を盛った壁があって、この先は田圃の中の1本道で鶴見へ向かったんだよ。
ここから渡しまでは八百三十二間で小土呂、砂子、新宿、久根崎の四町が
あって770軒の家に3100人ほどが暮らしていたんだって。また、文久二年(1862)
外国人遊歩区域となった川崎宿には外国人警護のための
第1関門がここに
作られ、この先保土ヶ谷まで19箇所作られたんだよ。
右の写真は
日進町交番前の歩道にあった市電のプレート、昔この道には
市電が走っていたんだって、パパが教えてくれました。この交差点を
右に進むと尻手黒川線と言う道路で、東名川崎インターの前を通って
ボクたちが住んでいる家のすぐ下まで行けるんだって。
10時05分


左に現れた大きな建物は川崎警察署です。その向かいの駐車場に小さな看板があったよ。
この看板は芭蕉の句にちなんで、この日進町町内会館をを麦の郷と呼ぶって書いてありました。
10時14分

 麦の別れ
 元禄七年1694年五月十一日(現在の6月下旬)に俳人芭蕉
 が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国柘植庄へ帰る時、江戸
 から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷
 の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休憩しました。そして最後の
 別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読
 みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は
 
 麦の穂を たよりにつかむ 別れかな
 と返歌し弟子達の親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の
 中を出立しました。川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなく
 なり街道の両側は一面の田畑でした。このあたりによしず張り
 の掛茶屋ができ酒や一膳飯を売っていました。芭蕉はこの年
 の10月大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとな
 りました。        
  
           芭蕉碑保存会
    川崎史話小塚光治著より抜粋

ここが八丁畷にある
芭蕉の句碑です。中山道のとき大津の義仲寺にお墓があったね。
あの芭蕉は、最後の旅に、ここを通って大阪に向かったんだね。ボクたちも西へ向かう
けど、この先芭蕉はどんな句を詠みながら旅をしたんだろう。ちょっと気になりました。
10時16分


真っ直ぐ進んできた街道は、ここで八丁畷の駅にぶつかってしまったよ。昔はこの先まで
ず~っと真っ直ぐな街道だったんだけど、京浜急行が街道を分断しちゃったので、
現在の旅人は踏切を渡って左へ進んでね。その後はまた真っ直ぐの道になるよ。
10時18分


踏切を渡ったすぐ駅の裏には
人骨供養塔がひっそりと立っていました。昔からこの辺りを
掘ると多くの人骨が出土し、東京大学の先生が鑑定したところ江戸時代の人々の骨と
分かったんだよ。何でここにたくさんの骨が埋まっているかと言うと、地震や大火、洪水や
疫病などで亡くなった身元不明の人たちを、宿場外れのこの場所に葬ったらしいよ。
今では地元の人がその人たちの霊を慰めるために供養塔を建ててお参りしているよ。
ボクたちは、そんな供養塔の向かいの石のボールに乗ってご機嫌に遊びました。
10時21分


今日はとっても寒いけど、ボクたちは元気いっぱい。走ると銀杏の落ち葉が舞うのが
面白くて佐武と競争しながら街道を進みます。まだ先は長いのにってパパは心配して
いたけど大丈夫だよ。右の交差点は
市場上町
ここで川崎市が終わり
横浜市に入るよ。
10時28分

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