梅屋敷の弓道場には静かな時間が流れていました。


鈴が森を過ぎると街道はほとんど国道歩きとなり、見所が減ります。過去に二度通った時も
六郷の橋を目指してもくもくと進んだ記憶しかありませんでした。東海道を歩く多くの人たちの
サイトを見ても、この間になんら、もの珍しい物もなく、同じ気持ちだったと感じます。
しかし超スローペースなボクたちの目には、いろいろなものが捉えられ新たな発見が
有りました。そんな子供たちの目で街道を歩くことも、完歩だけを目的にする大人たちの
歩きと違い、街道の楽しみ方のひとつでしょう。さてこのページでは何が現れるかな。


大田区体育館の向かい側にはちょっと古風な建物があったよ。小さな建物なんだけど
気になって覗いてみることにしました。入口は開いていて左側にちょっと怖そうな
おじいちゃんがいました。ここは何ですかって聞いたら、
弓道場だよって言いました。
弓道場って何って聞いたら、弓で矢を放って的に当てるんだと、中を説明してくれたよ。

パパの目は、1983年に戻って、ここに芳山和子(原田知世)がいるような錯覚に
陥ってしまいました。みなさんには紺野真琴が「時をかける少女」でしょうが
パパの世代にはやはり原田知世なんです。額に汗して弓を引き絞る和子が
この場所に立つと見えてくるのは私だけではないでしょう。
12時09分


左の写真が、その弓道場の入り口だよ。弓道場と同じ敷地にあるのが聖蹟蒲田梅屋敷公園
この辺には珍しく緑いっぱいの公園なので、しばらく遊んでゆくことにしました。
12時10分


園内には、いろいろな歌人の歌碑がたくさんあります。右の歌碑は
狂歌堂真顔の歌碑で

旅人の 神に手向けの幣代や 白絹咲きし庭中の梅

って彫ってありました。でもこれはレプリカで、本物は戦後の混乱期に無くなったんだよ。
左の碑には、日本橋から
三里十八丁蒲田村山本屋って書いてありました。

明治天皇もこの梅屋敷の梅が大変気に入って、明治六年には小梅を1本植えたんだって。
その梅は
仙粧梅と呼ばれ人々に愛されたそうです。当時は今より広くたくさんの梅が
季節になると花開いていたんだね。今はどれが梅の木なのか良く分からないよ。


梅の木より、ボクたちは池が好きです。何故なら池にはたくさんの生物がいるからだよ。
ボクたちは小さいときからパパと一緒にいろいろな虫を採っているから虫が大好きなんだ。
実は、ボクたちの一番上に、大佑くんというお兄ちゃんがいるんだけど、そのおにいちゃんも
幼稚園の頃から、虫博士ってあだ名が付けられていたんだって。パパは小さいとき
隣に住んでいた小学校の校長先生に休みになると昆虫採集へ連れて行ってもらい
いろいろ虫の事を教わったので虫が好きになったんだよ。でもママは虫が苦手なんだ。



 
大田区文化財
 
梅屋敷と和中散売薬所跡

 「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬として
つくられ、 旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(1688~1716)
大森村中原、谷 戸、南原に三店が開業した。
 このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、
この地に移転したという。
 文政年間(1818~1830)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、
庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
 亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、
広重の浮世絵 にも書かれた。
   
    昭和五十年三月十九日指定
                    大田区教育委員会


 和中散と言えば、東海道石部宿と草津宿の間の宿としての 
 和中散本舗があります。ここが製造元で、徳川家康が腹痛
 を起こしたとき、この薬を飲んだらたちまち治り、感心した家
 康直々のこの名前をいただいたと言う話が残っています。
 東海道各地で本家を争っていましたが、写真のせさい(是斎)
 がPR上手でぬきんでたようです。大阪の天下茶屋店舗では
 シーボルトもこの薬の記録を持ち帰ったと伝えられるほど有
 名な薬で、江戸ではここ梅屋敷の売薬所が人気店でした。


急いでいる人は梅屋敷も通過してしまうと思うけど、クスノキの並木(写真左)があるところが
梅屋敷だよ。六郷側にトイレもあるので、是非休憩して行ってね。梅屋敷を過ぎると15kmの
距離ポストがあって、その先の自転車屋さん(サイクルハウスコミヤマ)の屋根の上に
自転車を発見したよ。甲州道中を歩いてきたパパは、「コミヤマって名前、竜王に多かったなぁ。
12時25分


京急蒲田駅の手前で
呑川(のみかわ)をわたります。国道の右端を歩いていると、この川が
見えないので、左側に渡って見ました。この川に架かる橋は
夫婦橋と言うんだよ。何で
夫婦橋って言うか知ってる。昔、この橋の少し上流には堰があって、川の水は堰き止められて
いたんだ。その堰の両側から水は流れていたので、堰の下流は小さな川が二本あったんだよ。
その二本の川には、それぞれ小さな橋が架けられていたから、夫婦橋って呼ばれるように
なったんだって。橋を渡って川沿いに下流へ進むと夫婦橋親水公園があって、昔の親柱もあるよ。
12時29分


自転車に乗ったおばちゃんたちが急いで走ってゆくと思ったら、踏切がありました。
この踏切は
京浜急行空港線の踏切で、京急蒲田駅と羽田空港を結ぶ電車が通るよ。
この電車は12時34分蒲田発の印西牧の原行きの電車で、北総鉄道が乗り入れて
いるんだよ。何故、空港線にこの電車がいるんだろう。
実は、印西牧の原の先には
成田空港があるんだよ。まだ完成していないけど、そこが開通すると羽田空港と
成田空港を直結する鉄道になるんだ。成田へは京成が強いけど、京急も北総と
組んで、形勢(京成)の逆点を狙っているんじゃないのかな。はっはっは((((´=д=`)))))

2008年1月3日、この踏切で悲劇が発生しました。それは箱根駅伝復路のこと
東海大学アンカーの荒川丈弘選手が、この踏切でレールの溝に右足を取られひねった。
その痛みをこらえながらゴールまで2.2kmの地点まで頑張ったが力尽き、7位で繋いだ
東海大の襷は、ついにゴールする事はできなかった。線路は高架工事を進めており
完成すればそんな事故は起こらなかったはず。とても残念な出来事でした。

12時33分


南蒲田の交差点で環八を渡ると、左側にスリーエフがあって、その上に和み亭がありました。
もうお腹がすいて歩けないので、ここでお昼ごはんを食べることにしたよ。sabuは入口の
メニューを見て大興奮、ボクはこれこれと秋の特選料理をペットボトルで指します。
12時40分~13時13分


16kmポストの前にはカッコイイ
蒲田消防署がありました。その先、東六郷1の交差点角には
うなぎ割烹のすゞきがあって、パパとママはリサーチ不足だったと嘆いていました。
ボクたちが立ち止まったのは、この
頭の大きな自動販売機。ボクたちには剣玉に見えました。
13時26分


右側にOKって描いてある大きな看板が見えました。すかさずパパの解説が入ります。
OKストアは、東京・神奈川に展開する激安スーパーで、飯田五兄弟の三男が経営し、
世界最大の小売企業ウォルマートを見習って作られたスーパーなんだ。他店の安いものが
あると、それ以下まで値段を下げる徹底振りに主婦には人気があるんだよ。
パパの知っているのは小田急生田の明治大学そばにあるOKで、品数を押さえ低価格に
徹した品揃えは学生にも人気だったね。その本店がこのジャンボサガン店とは!
感心しながら進んでゆくと、今度は京浜急行雑色駅(写真中)に来ました。
ZOSHIKI ARCADEと書かれた下には、ケーキ屋さん、お寿司屋さん、焼き鳥屋さんが
並んでいます。その後ろには赤い車両の京浜急行が走ってきました。
駅前を過ぎると、
東京都立六郷工科高等学校のビルが目立ちます。
この高校はsabuより若く平成16年に出来た新しい学校だよ。お目当ての小学校が
なかなか現れないので、この学校の校門の前で記念撮影。
13時33分


この辺りも感じのよい路地がたくさんありました。買い物帰りのご婦人が仲良く自転車を
並べる風景。恋人たちが寄り添う風景。生活感の溢れた活きた道を見ると心和みます。
ボクたちは、路傍で発見したボールひとつひとつに乗ってバランスを取る練習。
普通の街道ウォーカーには考えられない時が流れているのが、ボクたちの旅でしょう。
13時44分


東六郷交番の前に、怖い顔をしたおじさん・おばさんが並んだ写真がありました。
漢字がよく分からないボクにも「おい小池!」とか「よく見て!!」とか
「この人をさがして下さい」とか「あっ!!この顔は!?」は分かりました。
これはいったい何の看板なんだろう?パパは昨日の交通事故(管内)死亡5に
驚いていました。うちのそばの交番は毎日毎日ゼロなのにと嘆いていたよ。
大きな鳥居は、
六郷神社の鳥居です。反対側だったので寄らずに行きました。
13時47分


パパが道路に止まっている車を見て歓声を上げました。この黄色い小さな車は
初代スズキセルボで、水冷2ストローク三気筒539ccのエンジンを後ろに積んだ車で、
ジウジアーロがデザインを手がけたといわれているんだって。今から25年前に
生産が終わっているので、こうして街中を走っているのは何台もないだろうと
感心していました。古い男は古い車が大好きなのさとパパは上機嫌になりました。
その古い車が止まっていたのは、この
寶珠院の前です。もう多摩川はすぐそこだよ。
13時52分


ここが六郷橋の北詰です。車道は4車線で川崎へ向かいますが、ボクたち
街道ウォーカーは右の側道を行って橋の両側に設けられた歩道を行きます。
13時54分


右側の側道を行くと、高速道路のインターのように丸い道路に突き当たるよ。
ここで丸い道路と橋の間の狭い道を進むと丸い道路の
真ん中が公園になっている
ことが分かります。早速ボクたちは木の馬を見つけて遊びました。
13時58分


公園の多摩川よりには大きなゲートがありました。これは
旧六郷橋の親柱を残した
モニュメントです。昔はこの幅の中を車が行き来していたんだね。パパは丸い道路を
渡ってその先にある渡し場跡を観に行ってしまったので、ボクたちはまた公園に
戻っていろいろな遊具で遊んだよ。
14時00分



 大田区文化財
   六郷の渡し跡

  「六郷の渡し」は、旧東海道における八幡塚村と川崎宿間の渡しで、
 江戸の玄関口の渡し場として、交通上極めて重要であった。架橋の
 記録は永禄年間(1558~69)慶長年間(1596~1614)がある。
 その後貞享五年(1688)洪水により流出してからは、橋をかけず渡船
  によって交通が行 われた。
  渡しのようすは広重の錦絵や地誌叢書類によって知ることができる。
  明治七年(1874)以降、地元八幡塚村篤志家鈴木佐内によって、木
 橋がかけられ有料で通行させていたが、数次の流出にあった。現在 
 の橋は昭和五十九年(1984)に架橋されたものである。
    
昭和五十年三月十九日指定
                             大田区教育委員会
 


写真左は落馬止め天神(北野天神)です。昔、この付近に柳生一族が住み、徳川八代将軍吉宗公の
乗る馬が暴れだし、あわや落馬と言うときに北野天神のご加護により落馬を止めたことから、以降
落馬止め天神と呼ばれ信仰されるようになりました。ここを通る大名や武士たちも、参拝し、地元衆は
全ての災難を止めてくれるという願いを込めて、単に止め天神と呼んでいます。

写真右の二つの石は
千年石(鶴さん)と万年石(亀さん)と言って、この天神様のお祭りのとき
地元の力自慢が、持ち上げて力比べをした石です。その石を村人が一生達者で働けるようにと
ここに祀って、老若男女さすることによりご利益にすがりました。パパもなでなで!
14時03分


ここで一旦、13時58分のベンツの信号まで戻って、橋の下をくぐりましょう。
六郷橋は川崎に向かって
左側(海側)の歩道を歩いたほうが、その先の名所が見えるよ。
橋の歩道の長さは444mもあるんだよ。下を見たら汚れた材木をおじさんが一生懸命
チェーンソーで切って細かくしていました。薪でも作っているのかなぁと思ったら、
この前の
台風(平成19年9月7日:台風9号)で上流からたくさんの流木が来て、
テニスコートのフェンスなどに引っかかったので、その撤去をしているんだって。
そういえば、下にあるテニスコートのフェンスはどれもゴミだらけで汚くなっていました。
14時14分


橋の真ん中に行くと、下に綺麗な家がたくさん見えます。まるで海辺のコテージのようです。
この家はホームレスの人たちが住む家で、高床式になっているから、台風の増水でも
流されなかったんだね。テレビでは多摩川の中洲に取り残されたおじいさんをヘリコプター
で救助するシーンが流れていたけど、ここのおじさんたちも怖かったと思いました。


長い長い橋を渡って、ボクたちの住む
川崎市に着きました。川崎と言ってもボクたちの家は
この辺から車で1時間ほど山のほうへ行ったところなので、この辺は初めて来ました。
橋の欄干には、
木の船のモニュメントがあって、昔はこんな船で川を渡っていたことが分かるよ。
中山道では高崎の先で、達磨がのった橋を発見したけど、木の船も面白いね。
14時20分


川崎市に入ると左の土手には
明治天皇六郷渡御碑があるよ。その隣には梨の起源が。


 多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。
 発見者当麻辰次郎の屋号を取り、「長十郎」と命名されたこの梨は、川崎からやがて全国へ。


橋を降りると、写真右の場所で十字路になります。ここを左へ進むのが万年横丁(大師道)で
明治22年の新道が開通するまでは、この小径を通って人々は川崎大師に参拝しました。
東海道はこの十字路を右へ曲がります。生垣の中に小さな看板があるけど見落としそうです。
14時23分


六郷橋の車道の下をくぐってゆけば、そのまま川崎宿へ続く旧東海道です。
歩道は綺麗なタイル張りになっていて歩きやすい道になりました。
このガードをくぐってすぐ左側が、川崎宿で一番人気の
万年屋があった場所です。
大師へ行く人も東海道を登る人もみんな万年屋の名物
、奈良茶飯を食べました。
弥次さん喜多さんもここでお昼ごはんを食べていったんだよ。


旧東海道の入口には
東海道川崎宿史跡めぐりという案内板があるので参考になるよ。
この案内板の先には本町交差点があって、この角には
新宿の説明板がありました。
これには東海道で遅れて作られたのが川崎宿だったから川崎宿のことを新宿って
呼んでいたんだと書いてあります。交差点を渡ると電信柱の無い綺麗な町並みに入って
行きますが、ボクたちはそろそろ疲れて足取りも重くなってきました。
14時23分


本町1丁目の交差点から二軒目右側の深瀬小児科が
田中本陣跡だよ。
川崎宿には中の本陣、佐藤本陣と田中本陣があって、一番古いのが田中本陣なんだ。
江戸時代の終わりになると、大名の財政難や参勤交代制度の緩和によって、
本陣の財政も苦しくなったんだ。そんな時にやって来たアメリカ駐日総領事の
ハリスさんは、余りにも田中本陣が荒廃していたので、泊まるのを万年屋に変えたんだって。
そんな案内板を読んでいるママの背中を見ているうちにパパの目には本陣が
甦ったような白昼夢が現れました。
14時33分


ちょっと進むと信号の左に御菓子処
東照があり、そこには助郷会所の説明板があるよ。
この付近の農家の人たちは、ここに集められ伝馬の手伝いをさせられたんだね。

右側に現れたのは
宗三寺。このお寺は中世の河崎庄で信仰を集めた勝福寺の後身で
宿場で一番
古いお寺なんだ。中にはこの宿場で働いた飯盛り女のお墓が今でもあります。

その先のなまこ壁の建物は、川崎・
砂子の里資料館だよ。この資料館は、昔川崎市長を
していたおじさんが建てたんだ。そのおじさんが書いた説明板があったから紹介します。
14時44分



 
川崎宿の由来

 慶長六年(1601)徳川家康が東海道を新たに整備して、三十九宿を定めたが、川崎は品川宿と神奈川宿の合の宿で、
 元和九年(1623)家光の時に宿駅に追加制定され、いわゆる東海道五十三次となった。
 慶長五年(1600)江戸三大橋の一つとして六郷大橋(109間)が架けられたが、度々の洪水で破損し、元禄元年(1688)
 から船渡しとなった。
 川崎宿は、九根崎・新宿・砂子・小土呂四町よりなり、「六郷の渡しを渡れば万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」と唄われた。
 徳川将軍の四代にわたるお大師様への厄除け参詣が、江戸庶民の大師詣を盛んにし、大師には門前町ができて大い
 に賑わった。
 明治五年(1872)新橋ー横浜間に鉄道が開通したが、大師詣客のため、その中間に唯一川崎駅が設置されたことは、
 驚きに値する。しかしその後、東京ー横浜間の通過町としてさびれたが、明治末頃から六郷川を利用して川岸に産業
 が興り、大正・昭和には臨海部の埋立地に重化学工業が林立し、日本経済をリードする一大産業都市に発展した。
 当川崎宿は宝暦や文久の大火、安政大地震、また、昭和二十年四月(1945)の米軍B29の大空襲のため、江戸を物語
 る面影は全て消失し、今では浮世絵や沿道の古寺の石造物から、わずかに往時の川崎を偲ぶのみである。

                                               川崎・砂子の里資料館 
                                                            館長 斉藤文夫



ここは砂子1丁目の交差点。左のセブンイレブンのところが問屋場跡で、右の牛丼屋さんの
角が
中の本陣跡です。ボクたちが車を停めたのは、このそばなので今日はここがゴールだよ。
14時46分


まだ家に帰るのには早かったので、みんなでラ チッタデッラへおやつを食べに行きました。



表紙のページへ 前のページへ 次のページへ このページの地図へ