なぜかボクたちは消火栓が大好きなようです。



昔は新幹線や東海道線のガードしかなかった東海道も、今ではこの高いガードが
行く手を遮るように現れます。これはゆりかもめの新橋駅が国道の上にあるところです。
ここからゆりかもめに乗るとレインボーブリッジを越えお台場や国際展示場へ行けます。

11時38分


わぁ〜い
新幹線が来たぞ〜、これはだんだん少なくなってきた300系ひかりだよ。
初めてインバータを乗っけて270km/hで走ったんだよ。ママが若いころははシンデレラエクスプレスと
呼ばれて、恋人たちに人気だったんだって、いまでは700系が主流になったからだんだん
見られなくなっちゃうね。ボクが中山道のとき京都から帰ってきたのはこれかなぁ。
11時39分


ボクの写真三連発だよ。パパとママはいつもご機嫌、佐武はお地蔵様の真似をしているところ
右端は
新橋の交番にいたお巡りさんの写真だけど、顔が良く分かるので絵にしました。
11時49分


ここの東海道は、第一京浜と言う名前の国道15号なんだ、その通り沿いに
あったのが
わんわんパラダイスと言うペットショップだよ。佐武は早速自分の
カメラを構えてショーケースにいたわんわんを撮っていました。
11時58分


この街には金ぴかに光るものがビルから出ていて面白かったので撮ったよ。
パパに聞いたら火事のとき、消防車がホースをつなぐ消火栓なんだって。
ふたつのものや、4つのもの、壁からでているものに、たちあがっているものと
いろんな種類があって同じものは無いんだよ。こうして並べると綺麗でしょう。


浜松町1の次の信号のところに
東京タワー→という看板が有ったよ。
その→の指す方向をみると、ビルの上から東京タワーが見えました。
車の中でちらっとみたことあるけど、こんな近くで本物見るのは初めてなんだ。
12時05分


次の交差点は大門という交差点で、その右の奥に立派な門と大きなお寺が見えました。
このお寺は
増上寺といって江戸時代の将軍家の菩提寺なんだよ。
ここからは往復20分で行ってこられるから、時間のある人はよってみてください。
右で佐武が撮っている写真は
濱松町-町名の由来碑だよ。そこにはこう書いてあるよ。
12時18分


 濱松町-町名の由来

  武蔵野の東南端、広く海に面したこの辺りは、その天然資源も豊かなる為、古くより
 人間生活が営まれ、古墳時代の遺跡として今も芝公園台上に残る、大古墳跡に見ら
 れる如く集落を形成。漁業を中心とする活動が盛んであったと思われ、その関係か古
 く由緒ある社寺(芝大神宮等)が近隣に現存する。その後乱世を迎え太田道灌、平川
 城(江戸城の前身)を築く頃には、町らしき形態に成長したと考えられ、天正十八年(15
 90)徳川家康の江戸城入城を見、城下町計画に着手。慶長三年(1598)その菩提寺増
 上寺を麹町より現在地に移転、更に武家を中心に町年寄、特権商人、地元住民による
 東側海浜地帯の埋立工事完成。慶長六年(1603)東海道を現国道15号線上に定め、
 此の東西両側には日常生活用品から産業用資材まで各種商人が軒を連ね商業地域
 の中心となり、その両後背に大名屋敷が並ぶ江戸の町が出現した。当時此の町は増
 上寺代官と兼任であった、名主奥住久右衛門の支配下で「久右衛門町」と呼ばれ、元
 禄年間には遠江(静岡県)浜松出身の権兵衛と言ふ名主と交替した事より、これ以後
 「濱松町」に改名され、明治、大正、昭和、平成と受継がれ現在に続いている。江戸で
 は歴史のある数少ない「古町」のひとつである。尚、当町内には多くの史跡、旧跡(慶
 応義塾跡、新銭座跡、東京市電車庫第一号跡等)が点在している。
                               (文責)加藤辰太郎




さて日本橋を出発し最初に渡る川が古川で、そこに架かる橋が
金杉橋です。現在の金杉橋は上を首都高が走り、川面を見れば
屋形船が所狭しとばかり並び、その欄干には日も当たらず少々暗い
イメージがあります。しかし江戸時代は違いました。この橋の左手は
もう江戸前の海で、カレイや黒鯛が採れる漁村でした。
広重の名所江戸百景に描かれた金杉橋からは、海の向こう遠く
築地本願寺の屋根が見えています。そして平岩弓枝さんの
御宿かわせみには、島送りになる罪人の様子が描かれ、大罪を犯し
遠島へ流され二度と江戸の地を踏めないものは永代橋から船が出て
罪が軽く江戸に帰ってこられる罪人を乗せた船はここ金杉橋から
出たとあります。それを読んでも、この橋の明るさが伝わります。
12時26分


金杉橋の先には、小さな公園があってのどが渇いた佐武は水を飲みます。
芝4丁目の信号の手前で左を見ると、シーバンズN館、S館をバックに
圓珠寺
瓦屋根が見えました。この辺りの海側はお寺がたくさんある町で、北から
法円寺、経覚寺、安楽寺、圓珠寺、了善寺と並ぶよ。街道よりひとつ入った通り沿い
だから中々気がつかないけどビルの谷間に屋根が見えるので面白いよ。
芝4丁目で街道は右にカーブして行くけど、そこから左への旧海岸通を覗いたら
丁度
モノレールが来たので佐武と二人で見ました。ボクたちは近くの多摩動物公園へ
行くときモノレールに乗るけど、ここのモノレールも似ているね。モノレールの
ことをボクたちは空飛ぶ電車って呼んでます。だって窓から下を見ると
線路が見えないで、下を走っている車が見えるから空を飛んでいるように見えます。
12時29〜53分


芝5丁目の信号来たら景色が変わったよ、今まで街道の両側は大きなビルに
はさまれて景色が見えなかったけど、ここは右側の空か開けて空が良く見えます。
一番手前の低いビルは
港勤労福祉会館、その向こうの高い建物は都営芝5丁目アパート、
高くそびえる右奥のビルは、日本電気本社ビルだよ。ここで街道左側には
第一田町ビルがあって、その下に
西郷南州、勝海舟会見之地碑がありました。
13時05分

 
 田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内

 この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が
 江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血
 開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある
 場所です。
 この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元
 より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
 現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠く
 なりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。
 また人情噺で有名な「芝浜の皮財布」は、この土地が舞台です。




会見地碑から160mで
JR東海道線田町駅だよ。ここには都営浅草線の三田駅も
あって人通りが多い賑やかな町です。もう1時を過ぎたので庶民的なこの町でお昼
ご飯を食べることにしました。駅前の森永プラザビル二階には
ANGELO CAFE
あって、そこでボクはオムライス、佐武はピザを食べました。いつも入っている
ファミレスとは雰囲気が違い、おとなしく食べなさいとパパに叱られてしまいました。
13時10分〜14時00分

やった〜東京タワーだぁ!札の辻は大きな交差点で横断歩道橋で渡るんだけど
その上から東京タワーが全部見えるよ。そばのビルよりうんと高くってビックリしました。
今度は東京タワーへ登ってみたいと思いました。札の辻の手前、産業安全技術館の
前には変な塊があります。前に回って覗くとその塊の中に親子らしい人たちが
寄り添って立っていました。これは彫刻家伊本淳さんの作品で
健康像といいます。
働く人の健康が明るい社会を作るんだってパパが解説を読んでくれました。
道路の反対側、三田中学校とツインビルの間に素敵な
お花畑が見えたよ。
札の辻って聞いたことがあると思ったら中山道の大津にも同じ地名がありました。
大津の説明だと
高札場のある十字路ということなんだけど、ここも高札場だったのかなぁ。
14時04分


札の辻をからカーブして行くと、ビルに大きく御田八幡神社って書いてあります。
そのビルの下には小さな鳥居があって神社がありました。パパは不思議がっていたけど
きっと、このビルも昔は境内にあって神社がビルのオーナーなんでしょ、とボクは思いました。
14時15分




 
史跡
  高輪大木戸跡
                            
所在地 港区高輪二丁目十九番
                            
指定  昭和三年二月七日

  高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。
 享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)
 など諸説がある。
  江戸の南の入口として、道幅約六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は
 閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
  天保二年(1831)には、札の辻(現在の港区芝五の二九の十六)から高札場も移された。
 この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大
 高札場の一つであった。
  京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は
 品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
  江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅五.四メートル、長さ七.
 三メートル高さ三.六メートルの石垣のみが残されている。
  四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の
 産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然紀念物保存法」により
 内務省(後文部省所管)から指定された。
   
平成五年三月三一日 建設
                              東京都教育委員会


いよいよここで江戸ともお別れだとパパが言ったけど、別に景色が変わるわけでもないので
なんでお別れなんだろうと思いました。昔は道路の反対側にもこんな石垣があって、その間に
大きな木の門が有ったんだって。夜になると締まっちゃう門が道路にあるなんて変だと
思います。閉まっちゃった門の前には入れなかった人たちが一晩中座り込んで開くのを
待っていたのかなぁ。sabuはカメラの使い方がまだ良く分からなくって悩んでいます。
ボクは、この頃からカメラの調子がおかしくなって、何を撮っても青い写真になってしまい
この場所で撮った写真も全部ダメになってしまい少し悲しくなりました。
14時24分


泉岳寺は、街道から右へ170m入った場所に在ります。信号から緩い坂を登ってゆくと
正面に東海大学付属高輪台高等学校・中等部の校舎がそびえ、その下にちっちゃな
門が見えるでしょ、そこが泉岳寺だよ。参道の右側には
義士おみやげって看板のある
駒屋商店がありました。中を覗くと、義士せんべい\650、47士ろまん草だんご\400、
赤穂名物しほみまんじゅう\900、なんかに混じって「こち亀人形焼おなじみ両ちゃん\630」
というのがありました。パパはなんで高輪でこち亀なんだろうと首をひねっています。
大きな門をくぐると中は広い境内になっていて、パパとママがくたびれてベンチで休憩
している間に、ボクとsabuは面白そうなものを見つけては写真を撮りました。


ここからは忠臣蔵で有名な大石内蔵助と四十七義士が眠るお墓だよ。入口にはお線香を
売っているおじさんがいて、ボクたちもここでお線香を買ってひとつひとつのお墓に
供えました。忠臣蔵って何?ってパパに聞いたら、いやなおじさんを良いおじさんたちが
みんなでやっつけた事件なんだよと教えてくれました。しかし本当はいやなおじさんが良い
おじさんで良いおじさんがいやなおじさんだったという話もあるので、人の話は気をつけて
聞かなくてはいけないんだって。やっつけられた吉良上野介は地元愛知県では名君と
評価され、困った人たちを良く助けていたんだ、反対に浅野家はみんなが困っているのに
お城を建てるために厳しい年貢を納めさせ地元の評判はとても悪かったんだって。
それからこの泉岳寺のお坊さんも四十七義士の遺品を売ってお金を稼いだので、
江戸の庶民に批判を受けたんだよ。もちろんあわてて売った遺品を買い戻した
そうなんだけど、ひどいお坊さんだね。東海道五十三次の第1日目の旅はここ泉岳寺
までだよ。これから都営浅草線泉岳寺駅から地下鉄に乗ってボクたちの家へ帰りました。
14時41分〜15時15分

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