今日は200m登り、300m下るというハードなコースです。特に車坂は、
今まで歩いた街道の中でも最強の斜度を誇ります。熊の影や、転落の
危険に怯えながら、たどり着いた池原集落は、日本のチロルといった
雰囲気の別天地。せえの神を越えれば下りです。





下里瀬の町の中央辺りから左の小径に入り、平地を進むとこの坂が
目に飛び込んできました。これが最強の斜度を持つ
車坂です。
実は宿でいただいた石坂越えガイドは
フスベが通行止めのため、旧国道を
中土まで行き、そこから千国街道へ登れとあります。小谷村のサイトも
同様でした。しかし付近にいた農夫に聞いたところ、本当に工事中の場合、
この写真の場所で通行止めにしているから、行けるかもしれないとアドバイス。
早速、その気になってフスベへ向かいます。


最初はアスファルトの道ですが、これでもかなり急で息が上がってしまいます。
坂の途中には
タラの芽が手の届くところにたくさんありました。きっとこの木の
持ち主の夕食材料なのでしょう。その先には
まむし塚なるものが・・・・。


舗装路が切れると草の道になり、やがて林の中の暗い道へと入って行きます。
そこがこの坂で
一番急傾斜.。これでも道はジグザグなのだから
車坂恐るべしといったところです。また、先ほどの農夫によるとこの辺り、最近
熊が出て、農民が怪我をしたと聞かされ、マグカップを叩きながら進みます。


秋葉様の峠を越えると、道は山を巻くようになり傾斜が緩くなります。
しかし右下の高度はドンドン上がり、高度感が出てきます。何かが
林の中を動く音がしたので、熊が出たと思い身構えました。しかし
よく見ると、ご覧の通り
ニホンカモシカではないですか。佐野坂スキー場
以来の出会いに感動しました。


道が荒れてきたら、木の枝に紙がぶら下がっており、そこには

此処はフスベです。小谷難所のひとつ。十分注意してお渡り下さい。

とあります。渡ってよさそうなので、注意して渡ることにしました。


ここが問題のフスベ核心部です。確かに道は崩壊し、急斜面を
トラバースしなければなりません。しかし落石防止柵があるので、
転倒してもそこで止まりそうです。よく見ると柵には上から落ちてきた
石がはまっています。下ばかり注意しがちですが、上にも注意しましょう。
自信のない方は、やはり国道を進んで池原へ登る方が良いかもしれません。


フスベを抜けると道は穏やかになり、道ばたには天保十四年作の観音様が。
しかし右側は、非常に急傾斜で、下の国道や姫川まで遮るものがありません。
誤って転落したら、途中で止まることなく
姫川まで落ちて行きそうな斜面です。


フスベを抜けると、展望が開け、池原集落が見えてきます。
中央にそびえる山は870m峰、その右肩が
せえの神です。
本日のコースで一番高い場所で約700mあります。車坂も
大変ですが、せえの神への登りも標高差があるため大変です。


田園風景の中、突然発電所の導水管が現れ、これを跨いで進みます。
この導水管は、中土駅そばにある中部電力の
姫川第2発電所の導水管で
信濃森上駅付近の標高638.89mから取水し、約4.5km山の中のトンネルを流れ
この場所で、標高458.93mの発電所へ一気に落ちます。発電機の出力は
最大14400kW、常時7000kWでフランシス水車を使っています。
またこの発電所は、昭和10年、「福島新田」で紹介した、
横澤本衛の作った、
安曇電気の発電所としてスタートしました。当時としては画期的な施設だったのでしょう。
愛嬌のある堰堤の下を登ればまもなく池原下集落です。


池原集落は、大糸線中土駅から標高差で100mほど登った場所にあります。
道標にも
中土駅が現れますが、かなり体力を要しそうです。街道は池原・石坂
1.8kmと書かれた方角へ向かいます。集落は新しい家が多く驚かされます。
消防団の倉庫前を登ると、池原の全貌が広がります。


千国街道道標の前を、通ると眼下に水田が広がり、奥には小さな水車小屋
ありました。付近には
大日如来像や庚申塔もあり、集落の中心と思われます。
しかし、こんなチロルのような風景の中で暮らしたら、どんなに清々しく生活
できるだろうと、都会人は考えてしまいます。冬に来てみろ!と起こられそうです。


車道は村はずれで、九十九折になりますが、街道はショートカットするように
直登して進みます。この直登が結構きつく、息が上がってしまいました。
右のカーブの奥には
池原諏訪神社(写真右)がありますが、行く元気がありません。


直登を繰り返し、最後の民家を過ぎる頃、振り返ると来た道を望むことができます。
フスベから導水管も良く見え、辛かった登りも癒されます。あと少しで頂上です。


ここが本日の最高峰、せえの神(塞ノ神)です。塞ノ神は、岐の神(ちまたのかみ)で、
日本古来の民間信仰で、村の入口を悪霊から守る神様です。中国から来た道祖神や
仏教の地蔵菩薩などと同様に扱われてきましたが、この地方は圧倒的に塞の神です。
白馬村あたりまでは、道祖神のほうが多かったのですが、小谷村に入ってからは、
こちらの方が目に付きます。この先どうなるか楽しみです。


峠の正面には、
風吹岳と横前倉山が雪をまといそびえています。
あの稜線の向こう側にあるのが、風吹大池で、左肩にある風吹山荘から
手前右下へ下ると、我々が向かっている来馬温泉へ降りることができます。
山の向こう側へ下れば、ヤッホー平から蓮華温泉、天狗原から栂池と
よいハイキングコースが延びています。景色の良い峠の塞ノ神なので
ゆっくり休んで行くことにしましょう。


下り始めると、すぐに民家が出てきました。池原側と同じ標高にあるこの集落は
石坂集落です。遠くの山腹にも民家が張り付いています。浦川の向こうにある
北野・高車集落です。街道は石坂集落の軒先を掠めるように急降下して行きます。


この集落は、とても水が豊富で、いたるところに水量の多い沢があります。
傾斜も落ち着くと、見たことのある僧侶像がありました。白馬村のものと
違って、後頭部はあまり出ていません。自然な感じの頭です。


下り切ると、T字路に出ます。本来の千国街道は右へ進んで浦川を渡るのですが、
橋が流されてしまい渡れません。仕方なく上流の橋を目指して、左折し、緩やかな
道を登って行きましょう。足は緩い坂でも登るのを拒否しています。
交差点脇の高台にあるのは、
幸田文 文学碑と歳月茫茫碑です。幸田文は
幸田露伴の次女で東京向島に生まれました。この文(あや)は、70歳を過ぎてから
全国の崩壊地を取材し、婦人之友に寄稿しました。そして後に『崩れ』という紀行文を
発表しています。そのときに訪れたのがこの地。平成4年に建立された
歳月茫茫碑も平成7年の土砂崩れで流されてしまいます。


文学碑から見た平成7年の西山崩壊地です。青い場所が滑ってこの付近を
埋め尽くしました。そのときの様子を書いた碑もありましたので紹介します。


  水は、人間の暮らしの根源を支え、恵みをもたらす大切な資源である一方、
 ときには、大雨や洪水で、人間の暮らしを脅かす恐ろしい存在でもある。
  平成7年の7・11梅雨前線豪雨は、まさに典型的な事象であった。
  時間雨量四八ミリ、最大日雨量三五七ミリの雨は、一瞬にして脆弱な地山を
 削り土石流となって流下し、人災は免れたものの、全壊家屋二八棟を含む
 被災箇所数が一二三〇にも及ぶ甚大な被害をもたらした。
  この「歳月茫茫碑」もその時、西山斜面の崩壊により流出被災したが、この
 たび、建設省松本砂防工事事務所のご好意により再建されたものである。
 茲に謹んで謝意を表し、未来永劫の安寧を願うものである。
    
              平成八年六月     小谷村長 郷津久男


 

文学碑を後に進むと、鉄橋が現れます。これが浦川を渡る、
浦川橋です。
流された橋を渡るより1000mほど遠回りになりますが仕方有りません。


浦川橋からは、1911年8月8日に大崩壊した稗田山を望むことができます。
大崩壊の話は、後ほど。あの山の頂上左は白馬コルチナ国際スキー場で
ゲレンデにいる人には、この惨事の跡を見ることはできません。今でも
小規模な崩落を続けているため、あちこちで工事中でした。ご覧の林道も
崩壊しているではないですか。


橋を渡ったら、すぐに川に沿った道へと降ります。大きな堰堤を巻くように
川沿いにドンドン下りてゆきましょう。対岸や川の中に古い橋の無残な
痕跡を見ることができます。


堰堤を流れる水量は、雪解け水の影響でもの凄いものになっています。
見つめていると吸い込まれそうな錯覚に陥りました。


河床付近まで降りてくると、左からの水量豊富な沢を大きなパイプ
通し、その上を歩いてわたります。左にある大きな岩は
中浦の大岩とあります。きっと意味のある岩なのでしょうが、説明はありません。


正面、同じ高さの場所に松ヶ峯無線中継所が見えてきました。
しかし、道は更に下って行くので、最後は松ヶ峯へ登らなければなりません。


本日最後の登りは標高差30mほど、登りきると土石流の転石という碑がある。
稗田山を下った土石流は、この松ヶ峯を越えて来馬集落へと流れていったという。
そんな馬鹿な、当時は分からないが、現在の河床からでも30m以上ある。
渓流が土砂で埋まってしまったので、当時はもっと高かったはずです。


 
 稗田山の崩落
 
世に日本三大崩落の一つといわれる稗田山崩落の大惨事は、明治四十四年(1911)
 八月八日の未明午前三時に突如として起こった。四キロ余にわたって崩落した大土石
 流は、浦川を流れ下って姫川を塞き止め、ここ松ヶ峯を乗り越え、この地域一帯は壊滅
 的打撃を受けた。
  死者          二十三名
  家屋と田畑の流失 七十余町歩
 右方、眼下に広がる今日の来馬河原は、かつては美田地帯として知られ、街道往来の
 宿駅として重きをなした来馬宿は、役場・学校などとともに、その中にあった。


写真中央上が稗田山で、大規模な崩落で赤い部分が土砂に埋まった。
千国街道は稜線左の鞍部から下り、石坂集落を抜け浦河橋をを渡り左岸を
降りてくる。午前三時ということと、明治四十四年ということで、牛方や
ボッカが巻き込まれることなく、街道ウォーカーとして安心しました。



階段の入り口には松ヶ峯展望台さあ、のぼってみようとあります。では、早速!
上の大きな写真も、下の写真も、この
松ヶ峯展望台の上から撮影しました。
下には東屋もあり休憩にはもってこいなのですが、トイレは鍵がかかっていて使えません。


こちらは美田が広がっていた旧来馬集落のあった河原
現在でも10m以上の土砂が堆積していて、とても水田にはなりません。
街道も、当時はこの河原を通っていたのですが、今は左の山肌に
沿って下って行きます。右には何度も塞き止められた姫川が静かに流れます。


松ヶ峯の直下には当時を思いはせる美田があり、田植えの研修でしょうか
ベテランが指導している姿がありました。少し下ると今度は
帷子石があります。


左から流れ込む沢を見ると、驚いたことにワサビが自生しています。
地形からすると、昔はワサビ田だったのですが、後継者がなく、放置
された場所に、力強く繁殖しているのでしょう。車道に出ると、
森岡社跡
があります。この脇の階段を登ったところにあったとありますが、
今は草むら、説明も無く、どんな施設があったか、知りたいものです。


車道は下りますが、左に緩やかに登る道があり、行くと来馬豆平諏訪社があります。
太い杉に囲まれ、階段も杉により曲がってしまうほど、歴史を感じる神社です。この神社には
村の宝である、
菊散檜垣双雀鏡があります。直径12..3cmの青銅鏡で、
鎌倉時代の作と言われます。


来馬集落の案内板を過ぎると旅も大詰め、西方堂で、街道はUターンするように進み、
程なく、
来馬温泉風吹荘へ。今日のゴールは北小谷駅ですが、かなり余裕をもって
日程を組んだので、この風吹荘で、温泉に入って、手打ち蕎麦と日本酒でゆっくり休みます。


食事は基本的には手打ち蕎麦しかないのですが、飲兵衛の我々のリクエストに
応えていただき、
山菜のてんぷらを作っていただきました。酒も大町で買った現地の酒を
担いできました。11時30分から13時30分まで2時間のんびり過ごします。


風吹荘から駅までは、15分ほど、その中ほどが今回のゴール小谷橋西詰です。
本来は風吹荘の裏山を乗り越えて下寺へ下るのですが、道は通れません。


北小谷駅で待つこと数分。13時59分の南小谷行きに乗り、特急で新宿へ戻ります。
次回は紅葉の頃を予定していますが、どうなることやら。