古くは有明の里と呼ばれた池田町は、岡谷・須坂につぐ製糸工業の
町で、明治・大正時代の建物が残る素敵な町です。塩の道はその
中心街を南北に貫いておりますが、見どころは町外れに多いので、
時間を作って散策もよいでしょう。



一丁目市川さん宅、二丁目旧駅通りの古久庄の蔵、旧池田町商工会館、
二丁目本通の街並み、三丁目横沢さん宅、三丁目裏通りと、街めぐり
スポットも多い池田町。散策地図を手に入れて街めぐりをしたくなります。


ここが本通りで県道51号線、そして塩の道です。福祉会館入口から300mで1丁目の
交差点、北へ向かって二丁目、三丁目となります。交差点の手前には
池田郵便局が。


写真左は、上の街めぐり左中に掲載されている一丁目市川さん(西中屋)宅です。
その向かいには
池田学問所跡の碑が寂しく立って居ました。


池田一丁目の交差点を右折すると30m先左に食事処みつよしがあります。
時間も12時20分、ちょうど昼食タイムなので、ここによります。
本日のランチはボリューム満点の親子丼+ミニラーメン。ビールもいただいて満腹に。
しかし、ソバ程度にしておけばよかったと、この先の道のりで後悔するボリュームでした。
味は最高だったので、まっいいか!この先には食事できる店はありませんので注意。


二丁目本通りで一際目立つのがこの信濃新聞の店舗。
重厚は屋根は、昔問屋場でも営んでいたのでしょうか。


池田町はてるてる坊主のふるさとと呼ばれています。それは童謡てるてる坊主を
作詞した浅原六朗がこの町の出身だからです。彼は明治28年酒造家の4男として
生まれましたが、5歳で町を去り福島で育ちました。その後早稲田の英文学科を
卒業し、出版社で雑誌の編集をしています。そのときに中山晋平の曲に詩をつけた
のがこの曲です。昭和に入ってプロレタリア文学の代表作家として文壇で活躍し
昭和52年、軽井沢で逝去しました。彼を偲んで、町役場の隣に文学記念館があります。
その先の
JA池田支所前バス停の待合所は、てるてる坊主が似合う可愛いものです。
四丁目の入口には石に注連縄、きっとこれも道祖神かと思われます。


四丁目と五丁目の間には、用水路があり、大量の雪解け水が流れています。
これは高瀬川から分流し、田圃を潤して残った水は、再び高瀬川へと流れます。
高瀬橋から見てきた田圃はこの水によって潤っていたのです。


用水路の際には観音堂があり、二十三夜塔などの古い石碑が見られます。
これは陰暦の二十三日夜、講中が集まり飲食を共にした行事で、十五夜から
八日後の二十三夜は月の出が真夜中頃になり、それまで行動を共にする
ということなのですが、現代のサラリーマンみたいに仕事帰りに居酒屋という
訳に行かなかった当時の男衆が毎月堂々と宴会を行うための言い訳の
ような気がいたします。きっと楽しい夜ではなかったかと思います。
池田町の外れ五丁目の交差点手前にあった
オフロードバイクの残骸
何かと思い家人に聞くと、
ートハウスライムという美容院の看板だそうです。


池田五丁目交差点からは、人家もまばらになり、田園風景が続きます。
その中を1600m進むと、頭上に
大町市の標識が現れました。塩の道は
ここで
右折して旧道へと入って行きます。特に目印もないポイントなので
注意して下さい。ここで旧道に入り損ねると、戻るのが難しくなります。


旧道へ入ると左に小川を見ながら坂を登って行きます。橋の手前には
石仏群があり、珍しい道祖神も丸い石に彫られています。橋を渡って
6本杉の坂を登ると原集会所があり、更にゆったりと道は登り続けます。


坂の途中、美しいなまこ壁の蔵が周囲に調和し、旅人を良い気分にしてくれます。


登りきったところは、T字路になっており、ここを左へと進むのが塩の道です。
角にはお地蔵様が納められた
小さなお堂があり、良い目印となっています。


T字路から160m、右側に仁科神明宮が現れました。鳥居の左には宮本公民館
国宝の本殿中門までは370mありますが、ここまで来たら是非寄ってください。


入口には塩の道周辺史跡案内図があり、大町までの史跡が掲載されています。
鳥居をくぐって参道を進むと、左の農家に
不思議な建物が隣接して立っています。
この界隈を歩いて来ると、時々このような建物を見ることができます。
2階に大きな排風機が付いていたり、1階から2階へ太いパイプが延びていたりと。
あまり気になったので、畑の草むしりをしていたこの家の女将さんに話を伺いました。
それによると、この周辺は米の産地で、刈り取った稲を2階で乾燥させるために
このような形態になっているとのこと、すっかり納得し安心して先へ進めます。


参道はこの先で直角に左折しますが、その手前には樹齢800年の3本杉があります。
しかし、昭和54年3月の突風により真ん中の杉が倒れてしまいました。
この杉は長野県の天然記念物に指定されています。杉を見たら、角を左へ。


右に手水舎を見て石畳と石段の参道を80m進んで本殿・中門へ向かいます。


見えない右には拝殿があるが、これは国宝ではなく、写真右の中門、左の本殿、そして
それらを繋ぐ
釣屋が国宝に指定されています。案内には以下の説明が書かれています。

 
 神明宮本殿中門(前殿)

 国宝 
昭和十一年九月十八日 旧国宝に指定され昭和二十五年八月二十九日
      文化財保護法の施行により 重要文化財の指定とみなされていたのを昭
      和二十八年三月二十九日 文化財保護法第二十七条第二項の規定により
      『世界文化の見地から価値の高いもので たぐいない国民の宝』として新た
      に国宝に指定された
  神明宮は仁科御厨鎮護のために勧請されたのであるが その創始の年代は明ら
 かではない 現存の社殿は寛永十三年(西紀一六三六年) 松本藩主松平直政が
 式年造営を奉仕 藩士池田吉久を奉行とし 大工金原周防をして造替せしめたも
 のである 社殿は 本殿と中門と 両者を連絡する釣屋とから構成されている
  本殿は 桁行三間 梁間二間の神明造で 破風板がそのまま延びて千木となり
 破風板に鞭掛があり 妻には棟持柱があるなど 構造手法に古式がうかがわれ
 細部は大体室町時代の様式を傅えている これは文献の示す上では 少なくとも
 永和二年(西紀一三七六年)以来二十年目毎に式年造営が行われ 工人が世襲
 的に奉仕したためであらう  寛永の造営後十数回の修補を受け 昭和十四年
 保存法による解体修理が行われた 本殿は神明造の原型式を濃厚に保存して
 いる点建築史上貴重な遺構である
  また 修理を含む式年造営の棟札が保存されているが 明治以前のものが
 二十七枚もあるとは珍しく これら棟札は文書にして重要文化財に指定されている
    
      昭和二十九年十一月十五日




写真左は拝殿も含め中門、本殿の全景です。ボランティア説明員のおじさんがいて
その辺りの話を詳しく説明していただきました。社殿の周囲の森は
仁科神明宮の社叢
呼ばれ幹囲2mを越える杉が多数そびえています。中でも仁科神明宮の大杉として
国の指定を受けていた
御神木は目通り9mを越える巨木であったが昭和55年に
枯れ死してしまい、現在は屋根を掛けられ鎮座していました。


神明宮の見学には20分ほどかかりました。それでは街道に戻り再出発です。
公民館のすぐ先には巨木を除けるように建てられた立派な塀があります。
その先左側の民家の裏には、小屋を掛けられたお地蔵様が街道に背を向け
座っています。6分ほど進むと、前方に巨大な石碑が現れました。
文化財かと思い碑面を読むと、
乳川牧場 畜魂碑とありました。