待ちに待った快晴と雪を頂いた北アルプスの山々、この条件を待って
1年半が経ってしまいました。しかしこのコースは何と言っても、この
条件でなくては。それでは、雪形の残るアルプスの紹介をしながら、
安曇追分から神城まで行きましょう。


新宿を一番早く出発する特急に乗っても、
安曇追分駅へは、この時間になってしまいます。
駅前から国道147号へ出ると、左へ向かって出発。すぐに右手へと入る旧道があります。


旧道は200mほど続きますが、ちょっとひなびた風情のある道になります。
大きな道路へ出たら右折、空は広く景色の良い道を
高瀬川へと向かいましょう。


振り返れば、人物の後ろに雪を頂いた大滝山から蝶ヶ岳へ向かう稜線が。
中央手前は浅川山、その奥に
常念岳が頭を出します。右側には横道岳から
東大天井岳、そして
大天井岳2921.9mの輝く稜線が見えてきました。
この広い道は東西に真っ直ぐではなく、東北東と西南西に傾いているため、
北へ向かう塩の道から見ると、少し振り返ったことになります。


高瀬川を高瀬橋でわたります。高瀬川は槍ヶ岳の北側、北鎌尾根の両側を
流れる、千丈沢・天上沢が源流で、この下流で犀川と合流し日本海へ向かいます。
川幅200mには、槍ヶ岳の雪解け水が流れ、往時はどうやって渡ったのでしょう。


橋の上は非常に展望が開け、川の上流方向に、左から爺ヶ岳2669.8m、
鹿島槍ヶ岳
2889.1m、奥に五竜岳2814mが良く見えるようになってきました。


高瀬川は、長野駅の東で千曲川と合流し、新潟県に入って信濃川と名を変え
日本海への注ぐ、日本一長い河川となります。高瀬橋を渡りきったら、そのまま
行かず、
右の小径へと入ってゆきます。すぐにもとの広い道に戻りますが
街道ウォーカーとしては、ここが大切なところ、しっかり旧道を歩きましょう。
この辺りには、昔の高瀬橋を監視する
番小屋があったと記録に残ります。


300mほど進むと町営バスの停留場、十日市場消防詰所前がありますので、
その先で左の小径へと直角に曲がってゆきます。240mで再び大きな道へ
合流します。そこにはバス停
十日市場があります。逆コースの場合、ここから
左へと旧道に入って行くことになります。


広い道(実は県道329)へ出たら右折して東へ進み、120mで今度は左折です。
目印はカーブミラーと緑と白のポール4本。ここで左折すると、後は田圃の中の
街道を
4000m真っ直ぐ進むことになります。村は田植えの最中で、普段は
東京で仕事をしている息子たちも実家に帰ってきて、農作業を行います。というのも
服装や身のこなしで、地元の人ではないことが見抜けます。声を掛けてみたら
やはり神奈川県でサラリーマンしているおじさんでした。普段はじいちゃんばあちゃんの
静かな農村も、この時期は賑やかで、活気があります。


綺麗に田植えが終わった田圃の向こうには、左、浅川山、右、有明山の間に
大天井岳の輝く稜線が望め、それが田に映って素晴らしい景色になります。


そんな田植えに忙しい田圃の中に分譲地が出現。南西の角地100坪の土地が550万円とは!
全ての土地を購入しても5000万円です。東京近郊では100坪買えるかどうか。
そんなの土地の前を、息子の軽トラから降ろした
田植え機の乗ったおじさんが行きます。
しかし、この後ガス欠になってしまい、おじさん大慌てで後ろの軽トラを呼びますが
軽トラは次の田圃に行ってしまいました。その後おじさんどうしたのでしょう。


岡麓は明治10年東京産まれのアララギ派の歌人です。昭和19年、戦火を逃れ
晩年の7年間をこの地の内鎌草庵で過ごしたといいます。矢印に沿って右へ
235m行くと
岡麓終焉の家があります。逆に左へ200n行くと安曇養護学校があります。
町営のバス停は
内鎌火の見前になります。この辺り目印が少なく、距離がつかめません。


街道の右には田植えのための水がガンガン流れています。そんな側溝も左へと
消えて行き、集落に入ると
林中公民館が現れました。これは最近造られた新しい
公民館ですが、その先バス停のところには古い公民館もありました。


林中の集落には、恐ろしいほど立派なお屋敷があります。兎に角その塀の長さ
には驚きました。土塀が両側に100mほど続き、中には蔵や離れなど大小の
建物がところ狭しと並んでいるではないですか。昔の庄屋さんなのでは?


林中の集落は400mほどで、抜けるとまた大きな空が広がります。
池田キリスト教会が田圃の中にひっそりと佇み、その向こうには
大きく北アルプス迫ってきました。


右側に宇佐八幡宮の森が現れました。良い木陰なので休憩してゆきましょう。
正面に有明山を望む境内で、頭上の満開になった桜を眺めながら横になります。
境内には古い石仏が9体あり、その中でも目を引くのがこの
道祖神
後ろを見ると、
天保十己亥年三月とあります。それは1839年今から171年前に
造られた道祖神でした。天保年間は徳川幕府ができてから200年以上経過し
体制にひずみが目立ち始めたころでした。そんな中、この年には渡辺崋山の
蛮社の獄という言論弾圧事件が起こっています。この村には影響があったのでしょうか。


右手の朝日食品工業安曇野工場を過ぎると一直線の終わりも近くなります。
田圃の向こうに
池田工業高校の校舎が見えてきます。何でこの農村に工業高校?
学校のサイトへ行き、沿革をみると面白い歴史がありました。
大正10年に池田実業補修学校として開校し、大正14年に池田実科中等学校となり
昭和15年、北安曇農学校、昭和23年北安曇農業高等学校、昭和36年農業科を
廃止し工業科を設立、昭和38年池田工業高等学校となります。主に養蚕を教えて
いた当校でしたが、時代の流れは高度成長時代と変革し、養蚕を捨て工業へと
鞍替えした珍しい学校でした。しかし就職氷河期の今日、工業科での就職も
難しくなっているのでは、いっそ昔の養蚕を復活し、池田ブランドの高級生糸でも
生産したほうが子供たちの未来が見えてくるのでは、なんて考えてしまいました。


池田工業高校を左手に見ながら進むと、右側にこの道祖神のある小さな交差点です。
総合体育館の標識もあります。我々はここで右折して県道51号へ出ました。


しかしガイドブックによっては、緑のルートを塩の道としています。
我々のルートは赤、どちらが正解か分かりません。家の並び方を観察すると
経験上緑が正解のような気がします。いずれにしろ、五街道と異なり、
生活道路であった塩の道は、多くのルートを持ち、季節や牛車、徒歩などに
より、異なった道を通っていたと言います。あまり気にしないのが
塩の道流とのこと、皆さんはどちらを選びますか。左前方には
高校のグランドの向こうに
餓鬼岳がそびえます。


赤いルートで県道に出ると福祉会館入口の交差点です。ここで左折して
しばらくは県道を北に向かって進みます。すぐ左には
立派な公衆トイレがあり
早速利用させていただきました。