田川の堤防を下り、県道295号に入ります。この県道は昔の国道19号、更に昔の
善光寺街道(北国西街道)となり、五千石街道はここで終わります。善光寺街道は
中山道の洗馬宿から分かれ、郷原宿からここを通過し、刈屋原峠、立峠、猿ヶ馬峠を
越え稲荷山宿で北国街道と合流し善光寺に向かいます。ここから松本までは
善光寺街道を行くことになります。北国街道や善光寺街道もいつかは歩きたい道です。

出川という地名は、この辺りが水量の豊富な湧泉地帯で、小川が無数に流れ出る
ので昔は、出河川と呼ばれ、後に出川になりました。中世までは高原瀬と呼ばれ
弥生時代から人が住んでいたところで、付近にはその遺跡が残されています。


善光寺街道に入って800m約10分進むと右側に多賀神社諏訪神社の合併社があります。
街道の反対側には、街道からは見えませんが南松本駅があります。早速、境内に入って
みましょう。鳥居をくぐると正面に大きな神楽殿が立ちはだかります。その屋根を見ると
諏訪大社の紋である梶の葉と、多賀神社の紋である菊が仲良く並んでいました。
多賀神社は、あの中山道滋賀県の多賀大社からの分社といわれています。


拝殿は質素で、その両脇には夫婦御神木の寿命神様が大きな葉を茂らせ並んでいます。
この神社で驚いたのは、いろいろなものを寄進した人の名前が、とんでもなく大きく刻まれて
いることです。この拝殿への石段の標柱にも中藤茂・中田亮両名の名が大きく刻まれています。


賽銭箱にも梶の紋と、菊の紋が並んでいます。鳥居の際に有ったのは
お百度参り用のカウンタです。石柱に数字が入った車が埋め込まれ
この場所から拝殿まで往復してくると車を回転させ数字を変えてゆくという
方法で、何回往復したかが簡単に分かる仕組みです。このような
カウンタのことを
百度石といい、2桁目のカウンタが付いた百度石もあります。
お百度参りは平安時代から始まったもので、回を重ねるうちに雑念が
なくなり、無我の境地へと入って行けるというもので修行の一つと言われます。


多賀神社の向かいは丸正醸造です。遠くからもその看板の文字が読め
醸造というからには、また銘酒が飲めると勢い込んでやってきましたが
残念なことに明治28年創業の味噌・醤油の醸造所でした。ちょっと残念。
その先には出川公民館があり、その前に明治六年開校
盛業学校跡地
の碑があります。この学校は松本の県学の起こりで開智学校、盛徳学校と
並ぶ古い学校で、現在はその跡地が公民館と言う訳です。他にも出川
差矢場跡地、信楽村役場跡の碑などが次々と現れました。


出川町交差点を過ぎ222m進むと右側に、重要文化財
中田家住宅が威容を誇ります。
ここの庭園は長野県の名勝に指定されています。また明治天皇小休所の碑もあり
その黒く大きな門とあわせ、近寄りがたい雰囲気をかもし出していました。


 長野県名勝    中田氏の庭園
 松本市重要文化財 中田家の住宅

 1 指定年月日 
    庭園部昭和五十四年三月二十二日
    住宅 昭和四十四年七月四日

 2 概要
  中田家は江戸時代には出川組の名主役を勤め、役宅にふさわしい庭園を備
 えた上級民家を構えていた。江戸時代中期からは酒造業を営み、旧態を今日
 に伝えている。
  庭園は約五七八平方メートルの広さに設計された本格的な平庭式池泉回遊
 様式の庭園で、江戸時代前期の築庭と推定される。松本藩戸田家儒者木澤天
 童はしばしばここに遊び、『鶴亀日記』に庭園の美を讃えた一文を遺している。
 また、明治天皇の北国御巡幸の際の御小休所としての由緒も深い。
  住宅は江戸時代元禄頃の様式を一部に残している低い長板葺きの書院と、こ
 れに接続した明治二十三年(一八九〇)に新築された軒の高い瓦葺き本棟造り
 の母屋からなっている。
  建造物の南面に、書院にほぼ正対して庭園が築造されており、これらが同時
 代の様式を遺して共存していることは貴重である。

    平成六年八月一日
                               松本市教育委員会

  



中田家から2〜3分行くと、空が大きく開け、川が近いことを知らせてくれます。
そんな場所に
一里塚跡がありました。ガードレールの内側に二基の石碑とともに
出川町史跡研究会の立てた白い標柱があり、ここが一里塚跡と知らせてくれます。
道は柳橋交差点に近づき、思わずこの柳橋を渡ってしまいそうになりますが
我々の善光寺街道はこの橋を見過ごしてそのまま直進します。そこには広い空き地
があり看板には国際空手道連盟
極真会館本部直轄松本道場とあります。
8月オープンとありますので、皆さんがここへ来るときにはきっと立派な道場が
出来ているものと思います。その道場を右手に見て先へと進みます。


空手道場の左には大きな建物が続いており、その壁には「よろこびの街100万ドル」と
大きく書かれていました。もともとダイエーだった建物が
ステーションパーク松本となり
いろいろなテナントが入ったショッピングモールです。さきほどの看板はその中に入った
パチンコ店の看板でした。その通りに
豊田橋のバス停がありクローバー製菓入口と
ありましたが、付近に見つからず地図を調べたら500mも西へ入ったところにありました。


ステーションパークを抜けると、柳橋と比べちょっと地味ですが
豊田橋がありました。
共に田川を渡る橋で、そこからの北アルプスの展望は素晴らしいものがあります。


豊田橋を渡ると次の栄橋まで800m一直線の通りが続きます。この両側は
松本市庄内と言う地名ですが、古くは豊田町で、その昔は
樋田町といったそうです。
樋田というのは、田に水を引くのに樋を使用していたことから、その名が付きました。
街道の左手にはいつも常念岳が顔を出していますが、ここで気がついたのは
あの
槍ヶ岳が再び頭を見せたのです。松本市街から見えるとはまったく思わず
本当の感動した瞬間です。さてどれが槍ヶ岳か探してみてください。


善光寺街道沿いの樋田町は、古くから職人の町だったらしく、珍しい店が軒を並べます。
最初の信号の角にあったのが
中澤刃物製作所です。店のウィンドウには包丁、鉈、鋤、鍬が
並びます。主人の中澤玉樹さんは、この道一筋約60年。刃物を得意とした鍛冶屋さんで
その人に合わせたオーダーメイドの刃物を作ってくれます。その先石屋・染物店・印章店
などが並び、ひときわ目を引いたのが
松本張子の一○島屋さんです。数十の張子が店の
前に並び一つ一つ特徴のある形と彩色に驚かされました。もともと1850年頃大阪から桐原家に
伝わった張子は、明治中頃から昭和初期まで多くの店で作られるようになり繁盛しましたが
昭和40年代には廃絶してしまいました。趣味で張子を集めていた大久保武雄さんは
松本張子に魅了され古い資料を元に再現を始めました。それがこの島屋商店です。


田川の支流薄川を渡る
栄橋に来ました。ここからは美ヶ原の王ヶ鼻が見えました。
写真中央やや左のこぶのような山がそうです。その右後方に美しの塔のある美ヶ原
高原が広がります。ここからの距離は11.5kmほど、街道を戻れば南熊井の
長野自動車道をくぐった辺りになり、その距離を実感できます。


栄橋を渡ると、いよいよ松本市街といった街並みになります。新しい建物ですが、なまこ壁風、
明治の煉瓦風と意匠に凝った建物が目立ちます。ここは昔、
博労町といって松本城下の
南出入り口に当たる枝町十町のことをそう呼んでいました。古くは貢馬を集めておいていた
場所で、馬町とか馬喰町と呼ばれていましたが、元禄六年博労町に改められました。


栄橋から330mのところには明治十一年に作られた緑橋の欄干が保存されています。
現在、その下に川はありませんが、地図を見ると、この道路の右側からまつもと市民芸術館
方面へ堀が残っており、緑橋も昔はその下を流れがあったことを物語っております。
松本バスターミナルへと続く次の交差点には、明治時代の郵便ポストと、配達人の
モニュメントがあり、旅人を楽しませてくれます。次は松本駅へと入る深志2丁目交差点です。


駅前を過ぎ中央2丁目の交差点には左ぜん光道 右野麦街道の石柱があります。
ここを左折すれば、あの上高地へと続く道となり、野麦峠から飛騨へと行くことができます。
ということは、政井みねも我々が歩んできた岡谷からの道を通り、ここで左折して故郷
飛騨へと向かっていったのでしょう。何千と言う女工さんたちが同じ道を歩いたのです。


この交差点の横断歩道を渡ると、同じく街道の左側に
牛つなぎ石が歩道の中にあります。
この交差点は人通りも多く、さしずめ松本の銀座といったところでしょうか。石を見ていると
ちょっと変わったバスがやって来ました。
Town Sneakerと描かれたバスは松本観光のため
また市民の足として1回100円ポッキリで乗車できるミニバスです。コースは東西南北の
4コースあり、ご利用してみてはいかがでしょうか。


中央2丁目交差点から80m、中町通り入口が今回の旅の終点です。
次回はここで善光寺街道と分かれ千国街道へと入ってゆきます。
その先、
女鳥羽川を渡れば松本城、時間もまだお昼なのでぶらぶら行ってみましょう。

ナワテ通り 四柱神社 明治天皇行在所跡
松本城の人力車 東から見た松本城天守閣 松本城東掘
ナワテ通りのガマ蛙 外濠小路で昼食 苺ときゅうりの振る舞い
煉瓦の美しい建物 レストラン鯛萬 宮島耳鼻咽喉科医院
お土産は北深志1丁目にある八百源のわさび漬けでした