10ヶ月ぶりに下諏訪へ戻ってきました。新しいサイトを立ち上げて塩の道
(千国街道)をお送りいたします。塩の道とは信濃に日本海側と太平洋
側から塩を運んだ道で、前者を千国街道(糸魚川街道、松本街道)、後者を
三州街道(伊奈街道、飯田街道)と呼びます。今回の旅は、その内の千国街道を
糸魚川へ向かうもので、私たちとしては、日本橋を出発し、甲州道中を歩いて
下諏訪へ到着したので、引き続き日本海まで歩きたいと言う目的を達成する
ために、その街道へ向かうと言うもの。しかし千国街道の出発地は松本のため、
下諏訪と松本を結ぶ必要があり、今回は中山道で塩尻まで、その先は
五千石街道を歩いて、太平洋と日本海を結ぶことにしました。新たな旅を
お楽しみください。




久しぶりの下諏訪は快晴。街道歩きの諸兄は良く感じるところですが、前回の到着地に
来たとき、その間がいくら長くとも、帰ってきたと言う感じがするものです。今回も、
10ヶ月ぶりなのに戻ってきたという感情でいっぱい。また、さあ新たな旅へという希望に
満ち溢れます。ここはもちろん
甲州道中と中山道の合流地点
前回は2003年7月27日に京都を目指して出発した道を、今回は糸魚川を
目指して出発します。それでは皆さんとご一緒に!



合流地点から少し進むと、中山道のときに泊まった宿「奴」があり、その隣は
諏訪湖
時の科学館の儀象堂。奴の裏には小径を辿ると行くことができる青塚古墳
あります。この辺りに宿泊した方や、時間に余裕のある方は是非立ち寄ってみては。


旧道を下って240m行くと国道142号に出ます。その角にあるのが
おんばしらグランドパーク
そして見落としそうに裏で控えめなのが
高札場跡です。またその先にはコンビにもあるので
飲み物や軽食を購入、ザックに詰めて出発です、


この交差点は国道20号と142号が合流する場所。中軽井沢から来る国道142号は和田峠を
越えて、ここ下諏訪で20号線と繋がります。我々は信号を渡り真っ直ぐ20号を進みます。
ちょっと行くと左側に面白い店が、虎の壁画に中を覗くと大きな
エイリアンが立っています。


先ほどの大社通り交差点から下諏訪駅前交差点を過ぎると、この場所に出ます。
ここで国道20号は右へと別れ、
中山道は左の小径へと入ってゆきます。
街道ウォーカーならピンと来る旧道入口ですが、仲間と話が弾むと間違え易いところ。


 下諏訪町文化財
 史跡魁塚

 ここは赤報隊長相楽総三以下幹部八士その他の墓である
 慶応四年正月江戸城総攻撃のために出発した東山道総督
 軍先鋒嚮導の赤報隊は、租税半減の旗印をたてて進んだが 
 朝議一変その他によって賊視され明治三年同士によって墓
 がつくられた。名を「魁塚」として祭られた。爾来地元では祭り 
 を絶やさず昭和御大典には御贈位の恩典に浴した草莽とし
 て維新史の上に大きく輝く人々である。
      昭和49年6月24日指定
             下諏訪町教育委員会

 旧道に入ってすぐに現れるのが魁塚
 これは「さきがけづか」と読みます。
 中に入ると大きめの墓石が並びますが 
 目を引いたのは記帳ノートが収められた
 大きな箱。中を見るとご覧のノートとボー
 ルペンがあり、我々も早速記帳しました。
 5月3日の欄に「パパが歩く塩の道」という
 記載を発見したら、それはこのときのも
 の。皆さんも是非旅の記録を残して
 みてはいかがでしょうか。


少し進むと右側の国道20号の向こうに大きな鳥居が見えます。
この交差点は
春宮大門、鳥居の向こうには諏訪大社下社春宮があります。
中山道は春宮裏手に下りてきて、下社秋宮まで回って、ようやくここへ出ます。

前回来た時には大木いっぱいにりんごの実が成っていた場所(写真右)。
ここはリンゴ・梨・カリンを育てている
やぎこま農園です。今は梨かな?



恐ろしく狭い中山道


そのまま進むと道はこのT字路に突き当たります。
前回は看板も無く右折し橋に向かったのですが、
今回は
中山道の標識があり、ここを入る恐ろしく
狭い道が中山道であることを教えてくれました。



砥川を渡る場所は、黄色のルートが
本来の中山道だったようですが、現在は
そこに橋はありませんので、土手を60m上流へ歩き、国道20号の富士見橋を渡りましょう。


これが砥川に架かる富士見橋、橋を渡ったら24m進んで左に入り、再び細い中山道に
入ってゆくのが、正しい現代版中山道です。しかし我々は、橋を渡ってすぐ左の土手を
進み、対岸の細い中山道を延長したルートを探し、
土手を無理やり下って(写真右)
空き地を通り、24m入ってからの道に出ました。この空き地に中山道が通っていたことは
明白ですが、現在売り出し中で、この空き地が無くなるのも時間の問題でしょう。
しかし、細くても良いから、従来の中山道は歩けるようにしていただけると最高です。


24m進んで左に入ってくると、38mでこの小さな交差点になります。赤いルートは
国道を24m進んでから左折しここで中山道に入るルート。黄色は我々が進んで来た
空き地を横断して来たルート。どちらを進んできてもここからは
再び細い道へと
入ってゆきます。入口には中山道の標識も建てられたので迷うことはありません。


国道20号の西大路口交差点からの太い道は、そのまま横切ります。すると190mで
写真左の
小さな橋が現れます。前回歩いたときは、バギーを押してこの橋への急勾配
を苦労して登ったものですが、独り身には何と言うことのない橋です。実はこの橋が
下諏訪町と岡谷市の
となっています。右後ろから国道からの道が合流しすぐに
山田農園(写真中)が現れます。この日は新苗の販売日と見えて賑わっていました。
山田農園から250m時間にして4分ほどの辻に
旧渡辺家住宅入口の標識があります。


 
長野県宝 旧渡辺家住宅

  渡辺家は代々諏訪高島藩に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ
 藩士)の家でした。安政年中(1854〜)の「家中分限帳」(武士の身分や禄高を記録した
 もの)によると、「郡方下役外様御徒士18俵2人扶持であったことがわかります。
 住宅の規模は、間口7間半(約13.5m)奥行5間(約9m)で、外観は茅葺・寄棟造で
 内部には土間と炉の間があり、また居間には中床があります。この住宅の創築年代に
 ついては、記録や墨書などは残されていないが、南側の居間と台所の戸口が袖壁をつ
 けた閉鎖的なものであること、柱の風蝕程度などから18世紀中ごろに建てられたと考
 えられます。その後、天保12年(1841)から嘉永年間(1848〜1854)にかけてのころ改築
 工事をして現状のような間取りになりました。現存する武士の家が全国的に数少なくなっ
 た現在、この渡辺家はたいへん貴重なものです。この一家から三人の大臣が出ており、
 渡辺千秋(1843〜1921)宮内大臣と国武(1846〜1919)大蔵大臣の兄弟はこの住宅で育ち、
 千冬(1876〜1940千秋の三男で国武の養嗣子)は司法大臣になりました。


何の変哲も無い茅葺の民家ですが、説明を読むとその歴史の重みを感じます。
大臣になった三人の子供たちが、この庭を駆け回る様子が目に浮かぶようです。
この住宅の向かい側には表札に渡邉とあるお住まいがあり、この家の子孫が
お住まいと見受けられ、どんな暮らしをされているのか夢は廻ります。