渋谷の街は街道ウォーカーには障害物競走です。


すし職人を目指す佐武は、大きな寿司の看板にびっくりしました。
これは、小田急線梅が丘にある美登利寿司の回転寿司「活」の看板だよ。
パパは昔行って、お酒のお替りを注文したら、うちは飲み屋じゃねぇと
怒られたんだって、それから行かなくなっちゃったけど、今はここ
渋谷
銀座・赤坂・吉祥寺・池袋などにもお店を出すほど繁盛しているみたいだね。


左は宮益坂の上だよ。ここから谷間にある渋谷に下って行くよ。渋谷駅には6つの
入り口があって、大山街道は
宮益口からハチ公口を通ります。新宿は甲州街道の
尾根の上に出来た駅だけど、渋谷は谷底に出来た駅なんだ。109やセンター街など
若者の町って言われているけど、ヒカリエなんかできて、大人の町へ変わろうと
しているようだね。パパは若い頃この街で遊んだんだって、円山町に行きつけの店が
あって、毎週のように通ったんだって自慢してました。
13時17分



渋谷にきたらパパが行きたかったお店はLOFT、
ここで20分ほど寄り道したんだよ。


ハチ公前や109前はもの凄い人出で、写真も撮れませんでした。気がついたら
109の横の
道玄坂を登っています。道玄というのは、鎌倉時代に、この坂で
山賊をやっていた人の名前らしいよ。きっと昔は寂しい所だったんだね。
今ではこんなに賑やかだから、山賊さんも出てこないね。と言ったら、パパは
もしかしたら夜な夜な、違う種類の山賊が出るかも知れないぞ。って言いました。
坂の途中には、全身鳥除けのネット?をまとった家が並んでます。
ここだけ、昭和の臭いがすると、パパは懐かしがっています。
13時42分


道玄坂を登りきると、再び国道246号だよ。上には首都高3号線がやってきました。
ハチ公前が標高19m、ここが33mだから、14m登ってきたんだね。合流した所に
MORIVA COFFEEがあったので、パパとママは、お茶お茶といって入ってしまいました。
13時50分〜14時08分


道玄坂上から360m進むと、この場所に着ます。神泉町交差点を渡ったところだよ。
ここで、大山街道は右の坂道を下って行くんだ。この坂を
大坂というんだよ。
14時14分


大坂はたった160mだけど標高差12m、道玄坂より急坂だよ。入口には標柱もあるから
間違わないと思います。
ヤマザクラが植わっていて気持ちの良い坂道です。


下りきったところは環六の
山手通りだよ。環七や環八は有名だけど、環六だってあるんだ。
環一が、環状第1号線で内堀通り、環二は外堀通り、環三は清澄通り、環四はキラー通り
環五が明治通り、環六が山手通り、そして環七と環八はそのままの呼び名なんだ。
その山手通りを左に進み
日本地図センターの前で、反対側に渡って下さい。そのまま
小さな坂道を登ると、再び国道246の玉川通りに出ます。日本地図センターは、昔パパ
ご用達で、山の地図を買いに来たり、家を買うときにその土地の歴史を調べるため
昔の地図を手に入れるので来たんだって。今ではiPhoneアプリで調べられるから
便利になったと、嘆いています。
14時18分


玉川通りを進むと、すぐにこんな風景になりました。ここは大橋で、厚木45km、
三軒茶屋2kmと書いてあります。今日のゴールは三軒茶屋なので、
なんだもうすぐじゃん、と気楽な気持ちになりました。池尻大橋から左側の旧道へ
入らなくてはいけないので、この
横断歩道橋を渡って、玉川通りの左へ行きましょう。
14時20分


周囲の景色を圧倒するような建物が現れたよ。これは首都高大橋ジャンクションなんだ。
これが開通したので3号線から、4号線・5号線へと抜けられ環状線が空いたんだよ。
下から見ると、巨大な蛸が町の中でひっくり返ったみたいでしょ。



歩道に変なものを発見。このガラス戸なんだと思いますか?
目黒大橋郵便局前に置かれたこのガラス戸は、強風を避けるものなんだ。
この日は風が吹いていなかったけど、大橋ジャンクションの丸い壁に
沿って目黒川下流のほうから南風が吹くと、強烈なビル風が
発生するみたいです。お年寄りが転ばないようにこのガラス戸の
影に隠れるように作られたんだよ。その
目黒川の桜も葉桜でした。
14時26分


目黒川から150m、池尻大橋の旧道入口です。旧道は650m続くよ。
今はこんな風景だけど、看板とか変わって、何年か経つと景色も変わり
分からなくなっちゃうことがあるんだ。中山道のサイトでもお願いしたけど
景色が変わっちゃったら、みんなの投稿写真を待ってます。
14時29分

 
旧道に入ると、しっかり大山街道のステッカーが張ってあって、正しい事が
分かります。ママは山形牛を出す
焼肉旬菜の前でフリーズしてしまいました。
旧道の中ほどには、池尻稲荷神社があったので寄り道して行きましょう。
14時35分

 

ここが池尻稲荷神社だよ。入口には子どもの銅像がありました。この女の子は
江戸時代後期に近くの商店に奉公に来ていた少女で、奉公先の子どもと一緒に
水を汲みに来て、「
かごめかごめ」の遊びをしていたところなんだって。
ボクたちも仲間に入れてもらいました。この神社には涸れずの井戸があって
どんなに日照りが続いても、涸れることが無かったんだよ。だから附近の農家の
人や大山街道を旅する人に喜ばれていたんだ。特に、雨乞いのため大山詣する
人は、必ずここへ立ち寄ってお参りしたんだって。いまでもこの井戸は境内に
あるんだ。井戸の名前は
「薬水の井戸」といって、今は見えないようになって
いるんだけど、その井戸から引いた水が、この
手水舎の水なんだ。何で薬水と
呼ばれるかと言うと、山城の国伏見の稲荷山にある薬力明神の神話で、
「神の道を信じ勤めその病気の平癒を心に三度祈念し、神の道の薬として
飲みほせば、薬力明神の力により病気立ち所に快癒す」
と伝えられているから
だよ。昔の大山街道には赤坂の一ツ木村から池尻村まで飲用水が無かった
んだ、だから豊富に湧き出るこの井戸は、ありがたかったんだね。
14時40分


旧道から玉川通りに出たら、三宿の交差点です。ボクたちは三軒茶屋でゴールの
ため、ここで通りを右側へ渡ることにしました。三宿と三軒茶屋間は740mあって
その南側には、
昭和女子大の広大な敷地があるけど、昔は近衛砲兵営があって
その東側陸上自衛隊の三宿駐屯地は、駒澤練兵場だったんだよ。今の自衛隊は
富士演習場で大砲撃っているけど、昔は大山街道脇のここで撃っていたんだね。

この辺の地名は、太子堂と言うんだけど、三軒茶屋との中ほどに、小学校の
源流って書かれた案内板があったので、みんなにも紹介しちゃいます。

 
     区内小学校の源流
    太子堂郷学所跡地

  太子堂郷学所は、明治新政府によって学制が発布される以前に、東京府品川県五番組の
 村立学校として開校した。
  設立提唱者は太子堂村の斎藤寛斎(1821〜86)である。寛斎は尊攘派志士相楽総三と出
 会い、戊辰戦争に際して彼の率いる官軍先鋒隊・赤報隊に参加した。しかし赤報隊は、新政
 府によって偽官軍の汚名を着せられ、相楽らは断罪された。失意のうちに帰郷した寛斎は
 相楽の学校設立の意志を継いで、地元有力者にその必要を説いてまわった。
  明治四年(1871)正月、郷学所は代田村円乗院において開校し、同年四月、校舎が大山
 道南側の円泉寺所有地に新築されるまで、太子堂村近辺の寺院を巡回教授した。同八月
 には、遠距離から通学する者の便宜を図り、荏原郡衾村(現目黒区)と上北沢村にも分校
 を開設した。明治五年八月に学制が発布されると、これに基づき、七年一月には太子堂郷
 学所を第二中学区四番小学荏原学校と改称して、公立学校に編入した。初代校長には、郷
 学所時代に黌主をつとめた宮野芟平が着任し、後に、太子堂郷学所創立からの歴史を「荏
 原小学校沿革誌」に著した。
  太子堂郷学所が荏原学校となってからも旧校舎はそのまま使用されたが、明治十三年
 (1880)十月の大風によって教場が半壊したため、明治十五年十二月、大山道をはさんだ
 向かい側の当地に校舎を新築した。明治三十三年(1900)十二月、校舎は火災によって焼
 失し、現在の若林小学校所在地に移転した。

  平成八年十月                          世田谷区教育委員会


今の円泉寺は大山街道の北600m程の所にあって、ここに聖徳太子を祀る
太子堂があるんだ。だからこの附近を太子堂って呼ぶんだよ。
14時47分


とうとう三軒茶屋に到着です。国道246の8kmポストを過ぎると、右に
三茶しゃれなあど
という休みの日の午後はホコテンになる
商店街がありました。また、交番の脇には
すずらん通という
面白そうな路地も、さあちょうど午後3時になったので、どこかでおやつを食べたいな。
14時59分


ここが、今日のゴールです。高速の下を行くのが大山街道の新町線、カラオケの
右へ進み、途中津久井道と分かれる大山街道は上町線、ボクたちは新町線に
進むことにします。何故なら津久井道も歩いてみたいと思っているからです。
15時00分


おやつは目の前にあったマックで、おやつ食べたら東急世田谷線に乗って山下へ
そこで小田急線に乗り換えて、おうちに帰るよ。

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