日光街道と奥州街道の追分の町、新旧二つの追分がありました。


変形の交差点が現われ、その正面に鎮座するのが交差点名にも
なっている
不動尊です。宇都宮宿の入り口にあって、悪いものは
入れないぞと睨んでいます。古い街道は、ここで奥羽街道と分岐
していました。脇の石碑には
御大典紀念正面東京ニ至ル
とあります。

 
 江戸時代の初めころ、宇都宮城主本多正純は、日光街道と
 奥州街道をつけかえました。そのとき、旧奥州街道と奥州街
 道の分かれ目にあったのが、不動明王を祀った不動堂です。
 江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっ
 ていました。
  不動堂は初め、この場所より東方(旭陵通りを少し入った辺
 り)にありましたが、後にここに移されました。今でも不動前と
 いう地名があるのは、この不動堂に由来するものです。


ここで、国道119は直進しますが、旧日光街道は左折します。
右へ進む道が旧奥州街道です。


不動前を左折し400m、東武宇都宮線の線路をくぐります。
小さなバスは東野交通のベルモールから西原車庫行です。
東野はとうやと読むのでしょう。ロゴが109を真似た108と
言うのが面白いですね。


線路をくぐると右側にあるのが、蒲生君平勅旌碑です。
宇都宮市の指定史跡案内板があるので御紹介しましょう。

 
   蒲生君平勅旌碑

 
明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物やおこないが明治維新に
 大きな功績があったとして「君平の人となりはまことに立派であるからこれを広
 く天下に表して庶民に知らせるように」との勅命を下しました。そこで、当時の
 宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に「この地が蒲生君平
 の里である」という碑を建てました。
  蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」といわれた人で、
 明和5年(1768)宇都宮の新石町で生まれ、祖先は元宇都宮城主蒲生秀行(
 18万石)の弟正行(3千石)で、本姓は福田でありましたが、途中で遠祖の蒲
 生の姓を名乗りました。
  歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、それらを調査して「山
 陵志」を著し修復の必要性を説きました。
  また、朝廷の官職についてまとめた「職官志」や国防についてまとめた「不恤
 緯」などを著しました。しかし、その業半ばにして病にたおれ、文化10年(1813)
 7月5日に江戸で46才の生涯を閉じました。


旧日光街道である不動前通りを進み、左より富士見通りを合流し、更に
平成通りを越えると左f側に
熱木不動尊(写真右)があります。
こじんまりとした不動堂ですが、起源は古く、初代下野国司である
宇都宮宗円が、奥州征伐に遠征した折に作った不動尊像三体のうち
一体が納められています。ここは宇都宮城南方の地で、城を守護する
ために置かれました。その後、洪水・火災・地震・戦争などの災難
から城を守ったという御利益が有るといわれています。

 
やがて、旧日光街道は不動通りから蓬莱大黒通りとなり、更に
材木町通りになって
宇都宮地方裁判所前で、
大通(国道119)に突き当たります。ここで必ず国道を
渡って
裁判所側歩道へ移動します。その後、右へと130m進んで
ください。下の写真の場所へ向かいます。江戸時代ここは
新石町といって米屋が有った町です。左への道は無く直角に
右と折れていました。

 
 
ここが旧日光街道と奥州街道の追分です。この辺りは伝馬町と
いって問屋場や本陣・旅籠が並び、一番賑やかな町でした。
宇都宮城址は、東武宇都宮駅とJR宇都宮駅の間、南側にあります。
東武駅の場所は、中級武士の居住区で、田川の向こう側になるJR駅
は足軽居住区でした。それら武士の居住区が城を取り巻き、その
外側に当たる伝馬町などは商人の町だったのです。
我々は、ここで左折して日光街道へと歩を進めます。本来ならば
交通の便が良い、この場所で一日の旅を終えるところですが、
14時7分の今は、止まるわけには行きません。行けるところまで
歩いて、今夜の宿(伝馬町の丸治)までバスで帰ってきます。

 
 
松原三丁目で国道と合流するまでのこの道は清住町通りと呼ばれています。
1650mのこの通りには旧家が残り、旧街道らしい通りです。中ほど右にある立派な
建物は、食と空間の創造「たまき」です。最中が有名で中々人気の有る店のようです。
たまきから10分700mの場所は小さなY字路になっており、その又に、
勝善神の碑
あります。(写真右)勝善神とは、良い馬の誕生を祈願した神で、馬の冥福を祈った
馬頭観音とは異なります。昔、この辺りは名馬の産地だったのでしょうか。

 
 
裁判所前で、左へ進んだ国道119号は、ここで清住町通りと合流します。
交差点の名は
松原三丁目、我々は横断歩道橋を渡り、国道の左歩道へ。
ここからは、杉並木など交えながら日光までこの国道を進みます。


国道を歩き始めて8分、国立栃木病院前交差点角に立つ、竹澤マンションの
1階に
喫茶店古城があります。昭和を感じさせる内装で、我々爺さんには
落ち着ける店でした。ここでゆっくり珈琲をいただき英気を養います。
病院のゲートそばには、この辺りの地名の由来にもなった
児の手柏(宝の木)
樹齢400年がありますが、このときは気がつかず通過してしまいました。


孫のような可愛い子が、一人で遊んでいました。早くおうちに
帰りなさいと、お爺ちゃんは心配しています。
大谷が近いこの辺りは、
大谷石で作られた蔵や塀が目立ちます。


大きな道路、宇都宮環状線を宮環上戸祭町交差点で越えると、
いよいよ並木道が始まります。といっても杉ではなく
桜並木です。
歩道も車道より一段高い場所に作られ歩き易い街道です。
ここからゴールまで、杉や桜の並木道が断続的に続きます。

 
大きな交差点から12分、文星芸大入口近くに上戸祭一里塚があります。
これは、日本橋から28番目の一里塚で、宇都宮城下と徳次郎宿の中間に
位置します。日光までは三十六里なので80%ほど来たことになります。
両側に残っていますが、昭和58年に一部修復整備されました。

 
君島建装という会社の入口で、残念ながら歩き易い歩道は終わり
一旦車道を歩くことになりました。10分ほどで、この竜宮城のような
山門を持つ
光明寺が現われます。向かいには坂本観光社と看板が
ある大きな民家。この辺りに
立場があったと記録が残ります。

 
 
農業試験場入口を過ぎると、再び桜並木が続きます。とてものどかで
歩き易い道です。皆で右を見ているのは、そこにあった
フラメンコスタジオ
カペルシータ・ロハが珍しいからです。こんなところに何故?


次は、京都ラーメン金閣寺という店が出てきました。京都ってラーメン
あったっけと、皆首を傾げています。頭上に現われたのは国道119号の
宇都宮北道路です。先ほど通過した宮環上戸祭交差点から始まる119号の
バイパスです。そのまま日光道へと入って行きます。我々は下を直進します。

 
 
宇都宮北道路から380m、時刻は16時28分、下金井バス停で時刻表を
確認したら、3分でバスが来ることが分かり、今日のゴールとしました。
今日の行進距離は
石橋から22.1kmということになります。この辺りの鉄道が
無いため、バス利用となりましたが、長い街道歩きで始めての経験でした。

 
 
宇都宮駅行のバスに乗り、伝馬町のホテル丸治まで30分、
歩いて2時間20分掛かったのに、何て交通機関って便利なんでしょう。
これで明日は、
今市まで19.3km。少しは楽な距離になりました。

     
     
 
今夜は、ホテル丸治に宿泊し、夜は宇都宮の町に繰り出しました。
ますはホテルの紹介で、もつ煮込みのふくべ、続いてふくべにいた
親父さんの紹介で、宇都宮餃子の店香蘭、最後は口直しに海鮮の
店、海蔵県庁前通り店。3軒も梯子したのも初めて楽しい夜です。