杉並木ではなく松並木が延々と続いていた野木の街道です。


野木交差点で国道4号線と合流します。ここには、松並木と野木宿の案内板が
ありました。
野木宿入口の小さな案内板は、街道から路地に入ったところにある
ので、見過ごし易いので注意してください。野木宿は日本橋から10番目の宿場
で、古河藩が管理する古河三宿(中田・古河・野木)の一つです。野木村の成立
は野木神社の周りに住居したのが始まりで、その後文禄年間に街道筋へ出て
馬継ぎが開始され新野木村が成立しました。本陣と脇本陣がそれぞれ1つ、
旅籠は25軒と小さな宿場でした。小さな規模であったため、古河宿や小山宿に
客は流れてしまったようです。現在は東京のベッドタウンとして野木駅周辺に
新しい町が形成されています。


満願寺は、何気ない寺院であったが、目に留まったのはこの飛行機、墓の入口
両側に精巧な石の
飛行機が2機、いったいどんな方の墓なのか想像が膨らみます。
大方の予想は、旅客機のパイロットだった方ですが、街道から目立つ場所に
有りますので、名物として参拝されてはいかがでしょうか。
その栃木県思川浄化センターの道路標識がある下には、目立たない一里塚跡の
案内板がありました。江戸から17番目の
野木一里塚跡です。


24.2mの水準点がある浄明寺を過ぎると、左側に野木宿道標があります。


   町指定文化財 野木宿道標

指定年月日 平成二十二年三月二十五日
所在地 野木町大字野木二〇六七−三

 本道標は、日光街道野木宿から下生井・白鳥・部屋・榎本を経由し、
栃木へ向かう日光山近裏道と呼ばれた脇往還入口に建てられて
いる。この道は、栃木で例幣使街道へ通じており、野木以南と日光
方面とを短絡する道であった。また、日光街道が宇都宮まで奥州
街道と重複しており、荷物の輸送や往来する人々で混雑したため、
迂回路を示す道案内として、こうした道標が建てられたものと思わ
れる。なお、道標は交通案内の他に、旅人の安全や悪疫の村へ
の侵入を防ぐといった道祖神的な性格や、道案内をすることで
功徳を得ようとする信仰とも考えられている。本道標にも「是より
太平山道」と刻まれており、大平山神社への参詣道の道案内と
しての性格が強く、江戸時代の人々の太平山神社に対する信仰
の厚さを知ることができる。

 野木町教育委員会



左側の広かった歩道が終わってしまい、すぐ左側の森に観音堂
佇んでいます。森のはずれには、
猿田彦大神の石碑が建っています。

 
その先にあったのが、佐野ラーメンの中村屋。時刻は12時35分。
友達に紹介されたのは、750m先の
蕎麦酒坊なごみや、しかし
その店がどのくらい先にあるのかが、この時点で分からず、空腹に
負けて、手前のラーメン店に入ってしまいました。実はこれが敗因でした。


昼の定食は、佐野ラーメン+ジャコ丼。ともにミニサイズかと思ったら
しっかりフルサイズが来てびっくり、美味しかったのでビール&餃子も
頼んで完食してしまいました。どっかり胃に入った定食は、エネルギーを
歩くことに費やしたため、消化不良のまま、夜の宴会まで影響しました。

 
 

重いお腹を抱えて、友沼、役場入口の信号を過ぎると左側に法音寺
あります。この寺院、どこかで見たような雰囲気ありませんか。本殿の
前に来て分かりました。写真左の燈籠、
東大寺大仏殿の燈籠に似ています。
帰宅してから東大寺の燈籠(写真右)と比べてみたら、まったく同じ
レリーフが施されていました。屋根の形までそっくりじゃないですか。


境内にある弘法大師供養塔の台座には、明治の水準点几号が刻まれています。
本堂を覗くと大きな大仏様はありませんが、目を引くものがありました。真新しい
卒塔婆が供養されており、その施主名に
歌手イルカと有ったのです。寺の人に聞くと
そのイルカさんだそうです。誰のための卒塔婆かは分かりませんでした。


小山市に入ると、再び一直線に伸びた国道が続きます。日光街道は
この直線との戦いです。挫けず、一歩一歩の積み重ねが大切と
教えてくれるような気がしました。頑張りましょう。


傍らの大木に神様が宿っていました。八百万の神が住む国を実感します。
その先の
若宮八幡宮のの境内には神が宿ったような銀杏があります。


久々に大きな建物が現われました。光南病院です。コンビニも無く
我慢していた我々は、ちょっと失礼して、拝借しました。
本当に助かりました。ありがとうございます。東京から70kmポスト
を過ぎると右側に
沸光寺。いよいよ間々田宿に入ります。