埼玉県と分かれて8500mしか歩かない茨城県へ。


もとろん、江戸時代にこの利根川橋は無く、八坂神社と対岸の中田宿の
間を渡船が行き来していました。しかし徳川将軍が東照宮へ参拝の時には
和船を並べ板を敷いた舟橋が造られました。明治天皇御巡幸の折にも
造られたと記録されます。橋が出来たのは、大正13年(1924)で架け替えを
経てこの橋は昭和41年に出来ました。下流側の上り線は新しく、平成21年
完成です。長さは641mで、10分ほどかけて渡りました。

 

河原上空にはモーターパラグライダーが遊びのどかな風景が広がります。
遠くには高層ビルも望めます。後で分かるのですが、あのビルは、今回
ゴールの古河駅前にある、
アプリKOGAです。高さは97.65mで、ここから
5800mあります。上流の隣にかかる橋は東北本線の橋で、とても長い
貨物列車が通過中です。
 

橋を渡りきったら、すぐに左折し土手に沿って下って行きます。
そのまま道は右にカーブし、そこに
房川渡と中田関所跡碑
ありました。中田宿の案内板もありましたので紹介しましょう。

 
     中田宿

  江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、
 現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を
 経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から
 昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
  中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以
 前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗
 橋宿と一体的に造成させたことにあり、宿場として、隣の古河宿や
 杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を一五日ずつ半分に割り、中田
 栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
  本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、
 山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れ
 ながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を
 並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
  天保十四年(1843)の調査では、栗橋宿四〇四軒に対し、中
 田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。
    
    
平成十九年一月
                     古河教育委員会
 


 

土手から500mほど進むと、左側に寺社が並びます。最初にあるのが
鶴峯八幡神社です。この神社は、治承四年九月源頼朝が奥羽征討の
時、ここへ立ち寄り軍利守護を祈願したところ、武運が開けたので、
鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を上伊坂(今の中田)に勧請しました。
頼朝の侍従で鶴岡八幡宮の詞官高橋摂津守の次男鴨次郎吉元を
この神社の初代神主にして、社名を鶴峯八幡神社としました。その後
明治四十二年、小中田香取宮の本殿を合霊しました。明治四十四年
利根川改修時に、境内が河川敷になってしまうため、ここに移築
したということです。またここには古河市無形文化財指定の
永代太々神楽が伝承されています。境内には自由民権運動家の
小久保城南の胸像があります。また木陰にベンチがあり、裏に
トイレ(写真右)あるので、休憩には良いポイントでしょう。


60m隣には光了寺が並びます。ここにも、先ほどの関所跡で
見つけた小さな家を模った洋風郵便箱のようなものがあったので
今回は正面の扉を開けてみました。中にあったのは
観光スタンプ
でした。ご覧の通り、その名所毎のスタンプが収められています。



 

しばらく行くと、利根川橋で上流を走っていた東北本線が、段々近づいて
最後には、その
踏切を渡ります。その直後右側にあったのはうどん俵屋
11時30分ですが、この先に食事にありつける店が無いと踏んで入りました。
まずは、乾いた喉にビールを流し込み、名物の夏季限定なまずの天ぷらを
いただきます。ここでは1時間休憩しました。

 

中田を後にして茶屋新田に入ると、道幅が広がり一直線に続きます。
江戸時代も道幅が五間(約9m)で、両側は一段高くされ松並木になっていました。
かつては、「
左右に松並木が続き、道は広く、東海道にもこのようにまっすぐで、
平らで、きれいなところはない
」といわれていました。正面には利根川橋から
見えた
アプリKOGAが間近に迫ってきました。あと直線で3000mです。


台和古河工場の塀が続き、終わること出てきたのは、お食事小松園
うなぎという昇り旗がはためき、うどんで良かったと思いました。
右側には
吉田茶園入口の看板があります。後ろの林の向こうには
東北本線が日光街道と平行して走っています。

 

左へカーブしながら進むと、国道354線を横断します。その先280m
右側に振り返るようにしないと分からない場所に
一里塚跡がありました。
どうやら鉄塔が建っている場所が一里塚のようです。左に回り込んで見ると
十九夜塚があり、例のスタンプ台もあったので、押して見ます。


古河第二高校正門前を通過すると、祭禮道原町口の碑があります。
ここにもスタンプ台があるのですが、どうして史跡なのかが分かりません。
詳しい方が居りましたら、御教授願います。


太い道に合流し、古河宿に入りました。入口には常夜塔の
モニュメントが迎えてくれました。電信柱の無い美しい通りが
古河駅まで延びます。しかし昔、この通りは美しい松並木の
通りだったと案内板にあります。松並木の間からは古河城、
富士山・筑波山・浅間山・男体山が見えたそうです。
長さも5kmに渡って続いていたとか。残念です。


おじさんが写真を撮っているこの場所は、古河城御茶屋口門址です。
古河城はこの西250mのところにありますが、日光街道からの入口は
この茶屋口と呼ばれていました。徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて
19回行われましたが、その時の将軍は古河城に泊まりました。この場所には
御茶屋口番所が置かれ、城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚の
挨拶に対応していました。今は古河歴史博物館になった古河城へ
時間のある方は是非立ち寄ってみてください。


古河駅入口の先には、高札場跡(写真左)があります。道路反対側に
本陣跡や問屋場があり、ここが宿場の中心地という訳です。その先で
日光街道は直角に左折します。その角(写真右)を今回のゴールとしました。

 
 
今回は、北千住で打ち上げを行いたいということと、渡良瀬遊水池
見物したいということで、野木在住の友人の力をと車を借りて、周遊しました。
古河駅前で拾ってもらい、遊水地から板倉東洋大前駅までお世話になりました。

 
北千住へ戻ったおじさんたちは、大黒湯で汗を流し、雑賀で打ち上げです。