やっぱり「かねよ」の鰻は美味しかった

逢坂山を越えるには、高速道路もJR東海道線も、京阪電車も
みんなトンネルだけど、国道1号線を歩くボクたちは、坂道を上ってゆきます。
弘法大師堂を過ぎると、両側をデザインされたコンクリートでできた壁の
間を3車線の国道と共に進みます。両側には立派な歩道があるので
安心して歩けるよ。
あっ!前方の壁に何か白いものが見えるぞ!
10時32分
車 石
車石って書いてあるプレートが壁に埋め込まれていたよ。車石って何だろう。
昔、この辺りは京都と大津の幹線道路で、牛車の交通量がとても多かったんだよ。
昔の道路は、今の道路みたいに舗装してないから、土の道を重い荷物を載せた
牛車がたくさん通ると、直ぐに道路に轍が出来て人が歩くのがたいへんになるんだ。
そこで考えられたのが車石と言う石で出来た
牛車用のレールなんだよ。
四角い石の真ん中に溝を掘って、これを140cmの幅で京都から大津まで
並べたんだ。レールは1組だけだったから、交通規制をして、時間帯により
一方通行だったんだよ。朝は、大津から京都へ、夕方は京都から大津へ
と言う具合にね。こんな坂道だったから中央高速に登坂車線が無い状態みたいに
重いトラックがいると渋滞するように、牛車もきっと渋滞したんだろうね。
やっと逢坂山の峠に来ました。峠には逢坂山関址と逢坂常夜灯がありました。
ここからは旧道があって、右へ進むと270m静かな東海道を歩けます。
国道と分かれて右へ進むと、そこは
桟道になっていて下をトンネルに入る
京阪電車が走っているよ。かねよの看板を見たら右へ入りましょう。
今日のお昼ご飯は「かねよ」って決めていたんだけど、ここに到着したのが
10時38分、
営業開始が11時というので、もちろん待つことにしました。
昔からパパは、三島の桜屋か大津のかねよの鰻が旨かったと言っていたので
今日は、本当に楽しみにしていたんだよ。休みじゃなくてよかった!
ここ逢坂山のかねよは、レトロな大正時代の待合室と、庭園に散在した
東屋で静かにゆっくり、鰻が食べられることで有名です。道の反対側には
和風レストランもあって、そちらは営業を開始したのでどうぞと言われたけど
ボクたちの希望は、やっぱり
料亭の個室で食べることなんだ。
家族連れのくせに個室?と思われるかもしれないけど、それは平次と佐武の
性格を知らないからだよ。大騒ぎを始めて他のお客に迷惑が及ぶからなんだ。
個室に案内されても、部屋中を駆けずり回って大騒ぎになったけど
この部屋なら大丈夫、パパとママはそんなこと慣れたもので、
まったく彼らが居ないかのように、くつろいでお庭を見て喜んでいました。
今日は、ボクとパパが上鰻まむし(\1,890)、ママが上定食(\6,300)を頼みました。
上の大きな写真がボクが食べた鰻まむしだよ。肝吸いも付いて美味しそうでしょう。
下がママの定食から撮ってみました。特に卵が美味しいってママは大喜び。
このお店は、大正時代の童謡作家
野口雨情さんもお気に入りだったんだよ。
「七つの子」「十五夜お月」「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」「雨降りお月」
「兎のダンス」「あの町この町」「しゃぼん玉」などが代表作でパパはみんな
知っていたけど、ボクはほとんど知らないよ。今の小学校じゃ教えないんだ。

10時38分〜12時05分

サイトで「鰻」「かねよ」をキーワードにして検索すると、9割は京都新京極の
かねよが出てきます。そのサイトへ行くと、同じように日本一鰻のロゴや
大正時代からの老舗という言葉は出てくるのですが、大津のかねよの事は
一言も書いてないよ。もちろんリンクもなく、チェーン店でもなさそうなんだ。
暖簾分けしても、普通リンクぐらいは張るのに、いったいどうしてだろうって
パパは悩んでしまいました。また、誰か知ってる人がいたら教えて?

かねよを出て旧道を再び京都へ向け出発です。信楽焼のタヌキたちも大小5匹で
見送ってくれました。お腹もいっぱいになり、あとは16時のゴール目指して!

12時06分
道ばたに小さな石碑を発見。「元祖走井餅本家」って書いてあるよ。
走井は「
走井のかけひの水のすずしさに越えもやられず逢坂の関」と
詩に詠まれたほど、良い清水が涌いていたので、このお水とお米を使った
お菓子がこの辺りの名物だったんだよ。その一つの走井餅屋は、その昔
この場所にあったんだね。でも今は、遠く離れた京阪八幡市駅の
石清水八幡宮
の参道にある走井餅老舗がこの伝統を次いで走井餅を作って居るんだ。
この場所じゃあ、ボクたちみたいな街道歩きのお客さんがポチポチ来るだけ
だから商売にならなくなっちゃったんだね。牛車が渋滞していた頃は
大繁盛だったのかなぁ。この碑は改札が一つの無人駅、京阪
大谷駅のそばです。
12時07分
大谷駅を過ぎると横断歩道橋があるから、これを登って京阪の線路と
国道1号線を飛び越えて向こう側へ行ってください。国道の左側だけ
歩道が有るから、ここを進んで行きましょう。程なく
名水餅の看板があるよ。
ここの名水餅も走井餅と同じく、牛車の頃は繁盛していたんだろうね。
でも今は看板だけでお店もなくなっていました。パパが最初に来た
1990年5月19日には、お店はもちろん、おばあちゃんがいて
出してくれたお茶を飲みながら名水餅をいただいたんだよ。
今、この名水餅を守り続けているのは、遠く琵琶湖の畔志賀町の
滋賀御殿本舗なんだ、名前も「びわ湖名水もち」になって売っているよ。
今度来るときは、きっとこの看板もなくなっちゃうのかなぁ。

12時12分
名水餅の隣には月心寺があるよ。門が開いていて中にはいると石で出来た
井戸が一つ、ここから今でも
走井の清水が涌いています。
案内板には第十三代成務天皇がお誕生の時、産湯に使ったとありました。
月心寺は、実はあまり古くはないんだよ。日本画家の橋本関雪という人が
別荘として走井茶屋の跡地を大正4年に買ったんだ。しかし斜面を活かした
月心寺庭園は古く、
室町時代、相阿弥の作だそうです。気になる人は
塀の隙間から見えるから覗いてみてね。関雪が亡くなったあと臨済宗の
お寺になったんだ。今では
精進料理が食べられるお寺として人気だよ。
今日も、たくさんのおばさんたちが通りに面したお部屋でお料理を食べてました。

12時13分
  大津算盤の始祖・片岡庄兵衛
  江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長17年(1612)、
 片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。
 同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、
 幕府御用達の算盤師になったという。なお昭和初期まで、この碑の場所にも
 同家のご子孫が住まわれていた。
                                    監修 大津市歴史博物館
日本のそろばんと言えば播州三木が発祥の地かと思っていたけど、
実はこの大津算盤の技術を、羽柴秀吉が播州三木城を攻略したとき
大津に避難した人が拾得して三木に持ち帰り、発展させたんだよ。
秀吉が攻めなかったら、どこの町がそろばんの町になっていたんだろうね。
こんな所にも歴史が見え隠れして、本当に面白いと思いました。
そろそろ逢坂山も終わりです。
名神高速の下をくぐれば、道も平らになって山科の町並みが見えてきました。
12時23分
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