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豊郷小学校は伊藤忠発祥の地にあるのです。
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| 摺針峠から下りてきて鳥居本宿へ入るところにあったモニュメントと 同じモニュメントがまたあったよ。あそこが彦根市の入口で、ここは 出口になります。と言ってもあと960mは左側が関ヶ原で中山道のすぐそばに 布陣した ここのモニュメントには不思議なものを担いでいる女の人が居ます。 女の人と同じくらいの大きさの太い筒の様なものです。これも近江商人と 関係有るのかなぁ?あの筒の中には何を入れて運んだんだろう? 丁度時間もお昼になったので、ボクたちはこのモニュメントの反対側にある 27号分水工局舎という施設の前で、買ってきたお弁当を広げました。 11時42分〜12時05分 |
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| ケヤキが色づく気持ちの良い道を進みます。この辺りはまだ彦根市の葛籠町。 所々に大きな工場があるんだけど、閉鎖された工場が多く、不景気がまだまだ 続いているので、工場をやめなければいけなくなったとパパに聞いて パパの会社も倒産したらどうしようと心配になりました。12時12分 |
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| そろそろ豊郷町に入るかなと言う場所に石の塔から水が出る水車があったよ。 特に説明がなかったので何の水車なのか分かりません。右側には古い御屋敷に 新しい木の看板があったので近寄ってみたら産地直送島原手延そうめんって 書いてありました。中山道に島原そうめんが何で関係あるのか良く分からなかった けど、そうめんって聞いてボクは嬉しくなりました。だってボクの学校では授業で そうめんを作るんだよ。みんなそうめんって作ったこと無いでしょう。 実はとっても難しくって、島原や揖保のそうめん工場に電話して作り方の コツを教わってやっと作ることが出来たんだ。 12時37分 |
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| 町にこんな看板が増えてきて、いったい何だろうと思っていたら、ママが豊郷小学校って 聞いたことがあるって言いました。テレビで見たことがあるって言いましたがパパも ボクも最初は思い出せませんでした。でも町長さんが古い学校をみんなが反対して 居るのに無理矢理、取り壊そうとしたので町の人たちが怒って町長さんをやめさせ ようとした事件の学校だと思い出しました。2001年12月に始まった事件なんですが、 その後どうなったのか知りませんでしたが、このようにまだ古い校舎が建っている 所を見ると取り壊されないで残るのかなぁ。中には入れなかったけど門から見ると とても立派でかっこいい校舎だよ。詳しくは小学校のページでリポートします。 12時42分 |
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| 小学校の前の田圃にはやりこの郷というモニュメントが有りました。やりこっていうのは 矢射り木といって、昔々この安食南で雨が降らなくて困ったときが有ったんだ。そのとき 村人達は阿自岐神社の神様にお願いしたところ、「安食南にある大木の上から矢を はなてば、矢の落ちたところから水がわく」と教わり、早速弓の名人に矢をはなって もらうと神社の東の地面に突き刺さり、その矢を抜くとそこから水が湧いて来たんだ。 そして乾いた大地を潤して、その年は大豊作になったんだって。その水が湧いた ところが矢池、そして矢を放った大木が矢射り木(やりこ)と言う訳なんだよ。 また、ここ石畑は高宮宿と愛知川宿の間の宿なんだ。今でも豊郷小学校と 町役場の辺りは石畑という字名になっているんだよ。昔の石畑について 詳しく知りたい人は、この その役場前南には 日本橋から480km 12時48分 |
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| この屋敷は、伊藤忠兵衛記念館だよ。伊藤忠商事と丸紅の創始者の忠兵衛が 暮らし二代目忠兵衛が生まれた家なんだ。近江商人だった忠兵衛は八重婦人と この家から出発し、息子に国際感覚を持つよう教育し、現在の伊藤忠まで 発展させたんだって。丸紅の創始者は長兵衛の方で、若林長次郎が16才で 伊藤長兵衛商店に入って22才で養子となって娘さんと結婚し第七代長兵衛を 継いで長兵衛商店を発展させて丸紅になったんだよ。近江商人って凄いね。 豊郷小学校取り壊し反対には、この忠兵衛の子孫も参加しているんだって。 13時10分 |
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| 忠兵衛記念館から日枝郵便局の短い間には天稚彦神社入口に造り酒屋 みたいな立派な昔に家があったり、金田池が有ります。この池は中山道の 北50mの所にあって、昔中山道を旅する人達の喉を潤した清水なんだよ。 でも、今は枯れてしまったので池は埋め立てられ、記念にモニュメントを 作って昔を偲んでいるんだよ。13時17分 |
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| 郵便局のそばには又十屋敷がありました。ここには そしてここは、近江中山道とよさとたちより博物館というのが昨日までの一週間 開催されていました。郵便局から605mで歌詰橋なのですが、133mいったこのお寺 の交差点から工事中で通行止になっていました。入口にガードマンの おじさんがいて、人間は通れますかって聞いたら、人も通れないから迂回して 下さいって言われました。どこからどっちへ迂回して良いのか分からなかった ボクたちは、工事中の凸凹道をどんどん進んで歩いてゆきました。 13時22分 |
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| 迂回路を探していたボクたちが見つけたのは江州音頭発祥地碑です。 江州音頭は今から400年前の織田信長の兵火で燃えた観音堂を作り直した 時に村人の楽しみとして、また仏教を広める手段として村人を集めて 手踊りをさせ、歌はお経の中から面白くアレンジしてみんなで踊ったんだって。 余り面白かったので、お参りに来た人も輪に入って踊ったんだ。 その後毎年七月一七日には盆踊りとして周りの村の人達も巻き込んで 流行ったんだよ。今でも八月一七日に踊るそうなので観られたらいいね。 そうこう言っている内に、工事現場の中まで来てしまいました。 大きなクレーン車が道をふさいで通れそうに無かったけど、工事の お兄さん達が作業を止めてボクたちを通してくれました。ありがとう! でも、この時、実はボクたちに会いたくて追っかけて中山道を歩いてきた 柏市の平間さん夫妻がいました。どうやらボクたちがこの工事現場で もたもたしている内に、迂回路を通って追い越してしまったようです。残念! 13時30分 |
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| 石畑の最後は歌詰橋だよ。この橋は、宇曽川という川に架かっています。 昔この川は水量が豊富で水運に使われていたんだ、だからそのころは 運槽川って呼ばれていたのが、うそ川になまって宇曽川になったんだよ。 この川に架かった橋は丸太の上に土を被せた土橋だったんだ。 西暦940年、藤原秀郷が東国で平将門を討って、京都へ行く途中、この橋まで 来たとき、平将門の首が追っかけてきたので、その首に向かって 歌を一首詠めと言ったところ将門は歌に詰まりこの橋の上に落ちたんだって。 それからこの橋の名前が歌詰橋と呼ばれるようになりました。 13時33分 |
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