色づく福助の街には、素敵な喫茶店が

柏原の標高は、175mくらいで、その周りを300mから400m級の小さな山が
取り囲んでいるんだ、だから実際は100m〜200mの山が町の外れにポコポコ
立っているって感じなんだ。ボクたちの町は100mくらいの丘の連なりの中に
あるから余り感じないけど、この町みたいに平らなところにニョキって山があると
面白いと思いました。寝物語の里から踏切を渡って柏原の町にはいると
正面に北畠具行のお墓がある標高285mの山がで〜んと立っていて
その山に向かって宿場を進んで行きます。ここの楓も立派で、色づき始めていたよ。

12時40分
宿場の入口は、特に中山道と言った感じは無かったけど、こんな道標があると
宿場なんだなと感じました。農家の軒先には、こんな風に柿を干している家が
目立ちます。この家が一番多く干してあったから写真を撮りました。
ここへ来る途中、パパが道ばたの柿の実を採って食べてみたんだ。
「やっぱり渋柿だから食べられないね」って言ったのに、弟の佐武は、食べさせろって
大騒ぎしました。パパは面白がって、皮をかじって剥いた柿を佐武にあげました。
佐武は、喜んで食べたのですが、最初、味が分からないようでキョトンと
していたけど、口の中いっぱいに渋みが広がった時、グェ〜って吐き出しました。
その顔を見て、パパはお腹を抱えて大笑い。とってもひどいパパだと思いました。

12時53分
宿場の中心地には、大きな中山道と宿場を紹介する看板がありました。
前に立っている三人組は、ボクたちを追い越していった中山道歩きのおじさん達。
あんまり
立派な看板だったので、そして内容が良かったので、パパは写真に
撮って、書き出して見たのが、下の解説です。ちょっと長いけど読んでみてね。
左の旧家は、
造り酒屋の西川さんの家です。他にも荷蔵跡・旅籠屋跡・脇本陣跡
なんかが、この周りにあるけど、当時の面影が残っているのはこの家だけです。

13時01分

中山道 柏原宿

ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道六十九次(草津宿で東海道と合流)の内六十一番目に
なり、約百十二里(一里は三.九キロメートル)、京までは約二十一里のところにある。
江戸時代は、随分栄えたもので、宿場としての業務も、かなり苦労が多かった様である。
幕末広重画く柏原宿の看板は、何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で、現在の建物
そのままである。当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り、中山道有数の宿場名物と
なっていた。現在は一軒だけとなっている。
柏原宿は、規模が大きく、六十九宿中宿高で四番目、宿場の長さ十三丁(一四二〇メートル)
は十番目、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である。
しかも旅籠屋(旅人たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。
現在、一軒も残っていないのが残念である。本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋
(人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)は、当宿には六軒(開宿当時は二十軒を数え、幕末に
なると、普通各宿多くて三軒までなのに、関ヶ原から番場までの五宿は、それぞれ六、七軒
あった)、その問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もある
盛況であった。この宿は、古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の
四町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。一つの宿場に四社も氏神があるのは
そのためである。柏原の総社は、野瀬の神明社である。又お寺の多いことも有名で、ひと頃は
三十ヶ寺を越え、現在も十五寺と三堂がある。中世京極道誉の随臣、箕浦氏が四百年
柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋御殿跡
(地名として残る)等がある。宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した成菩提院は、
天台談林三箇随一と言われた名刹で、盛時には、六十坊を数えたと言う。国指定重要
文化財等豊富である。また、宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり、有名な
寝物語の里(長久寺)がある。この様な柏原宿であるが、しだいに昔の面影が消え、
今にも忘れ去られようとしている。せめてもの思いに、下図の様な復元図(山東町史附図)
を掲げた。                                    平成五年三月
                        柏原宿整備調査委員会  山東町教育委員会

柏原と言ったら福助さんです。この伊吹堂というもぐさ屋さんの番頭さんが福助
さんで、今日は休日で閉まっていたんだけど、中にはとっても大きな福助人形が
あるんだって。観られなくってとっても残念です。そんな人が多いと思ったのか、
近くの民家の窓には、
福助さんのお人形が飾って有りました。福助さんてボクは
全然知らなかったんだけど、3つの説が有るそうです。京都の呉服屋さんで大文字
の主人。摂州のお百姓さん佐五右衛門の息子佐太郎。そしてこの柏原のもぐさ屋
の番頭さん。興味のある人は左のアイコンから「はい福助さん」のサイトへどうぞ。
13時04分
伊吹堂の向かいにあるのが柏原宿歴史館だよ。大きな建物に、歴史館と
観光案内所と喫茶店がくっついてあります。ボクたちが一番喜んだのは
喫茶店です。時間のある人は、歴史館を観ていってください。

13時05分
ボクたちは、座ってゆっくり休める喫茶店「柏」で、休憩しました。飲み物以外にも
食べるものもあるから、お腹がすいた人にも便利です。柏原にはこのほかに
食事のできる場所やコンビニが無いので、是非ここで休んでいってください。
みんなは珈琲飲んでたけど、ボクはお腹がすいたのでお蕎麦をいただきました。

13時06分〜13時36分
これは明治中期開業の柏原銀行跡です。
右の道標は、「やくし道・道標」だよ。明星山明星輪寺泉明院は、通称西やくし寺と
呼ばれ、昔は賑わったお寺なんだ。この道標は享保二年(1717)に建てられたもので
三字体という非常に珍しいタイプなんだって。左下の写真の信号機の下の家は
郷宿といって脇本陣と旅籠屋の中間にあたる宿で、武士や公用で旅する庄屋さん
何かが泊まった場所です。もう柏原でも最後の一軒となった加藤さんのお家です。

13時42分
郷宿を過ぎると、突然宿場は終わって、のどかな田圃の道になるよ。
その田圃の中にあったのが
「復元・柏原一里塚」です。北塚は、街道沿いの
愛宕社参道石段東側(現中井町集会所)に有ったんだけど、今は無いんだ。
南塚は、この場所より少し東に寄った今は川になった場所に有ったんだって。
柏原一里塚は、日本橋から数えて
百十五番目の一里塚です。
13時47分
一里塚からは、松と楓が混ざった並木道を進みます。300m進むと北畠具行卿墓という
看板がでてきました。ここから北の山の方へ300mほどはいると有るみたいだけど
ボクたちはそのまま中山道を進みます。この人は後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府を
倒そうとした正中の変(1324)の中心人物なんだ、でも失敗して幕府に捕まり、
鎌倉へ送られる途中、この場所で処刑されちゃったんだよ。43才だったんだって。

13時52分
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