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いよいよ甲州道中の旅もあがり、歩くのも大変ですが今回一番苦労したのはこの地図作りでした。
国土地理院2万5千分の1地図を等高線1本1本までトレース、都内の頃は等高線が少なかった
ため、さほど感じることは有りませんでしたが、小仏峠へ差し掛かるころ失敗したと後悔したものです。
1枚描くのに4~6時間要し、ホームページ製作の大半をこの地図作りに費やしました。
しかし、こうして55枚の地図を書き上げると、旅をしたのと同じ喜びを感じております。
甲州道中を旅される方の手に、この地図が握られることが最大の喜びではないでしょうか。
プリンターのインクが無くなるとの声も聞こえてきますが、是非印刷しご利用いただければ幸いです。


左:長崎家、右:橋本家は旧家で特に橋本家の場所には昔茶屋があったと
案内板があります。軒先からは灯篭のようなものが突き出ていてその装飾の素晴らしさには
眼を見張るものがあります。この建物はいつ頃のもので、この灯篭は当時のものなのでしょうか。
ここに明かりを燈し、旅人の道行きを照らしたのでしょうか、それとも客を引くための
看板のようなものなのでしょうか、想像は尽きませんが、その辺りのこと説明する
案内板などあるとありがたいと思います。


諏訪へ向かっていると見落としがちなのが、この反対側の眺め、諏訪から来ると
まずこの大きな白い壁が目印となり、黒い塀には甲州道中茶屋跡の案内板が
目立たないように掲げられていました。他に諏訪湖へ300m、博物館1650m
柿蔭山房200mと案内が書いてあります。


進むと、
民宿街になり中野屋、はた屋、たかぎ荘、しなの屋などが現れ、
その手前の駐車場にはコンクリートに固められた
道祖神が鉛筆の御柱
守られるようにあります。民宿の脇を覗き込むと、下の国道へ向かって何やら
不思議なものが伸びています。これは東海道のさった峠でみたみかんを
運ぶ
モノレールではないですか、何故こんなところにモノレールが、
きっと民宿の国道沿いの駐車場から荷物を運ぶために・・・。まさか!!!
人間も運ぶのでしょうか。それは国土交通省の認可が下りませんね。


民宿街からお墓越しに見え始めていた建物が、突如目の前に大きく迫ります。
野田尻宿で現れた石垣エンジニアリングより大きく、都内を外せば甲州道中で
一番大きな建物でしょう。これは
プチモンド諏訪レイクマンションです。
1992年に建てられ当時の販売価格は1100~1800万円でしたが、15年経ち
中古価格は500万円ほど、駅まで少々遠いところですが、湖の眺めはよさそうです。
諏訪湖の花火も見えるのでしょうか、しかしこの価格ではちょっとした別荘が
購入できるので、マンションでは寂しいかな。そんな老後のことも
気になる世代となってしまった自分に気づき、更に寂しくなってしまいました。


左側が開けると諏訪湖の眺めは良くなり、対岸まで良く見通せます。
真冬などは、空気も澄んで雪化粧した山々をバックに更に素晴らしい展望と
なるのでしょう。右側が人家が切れ緑になったところに、
明治天皇駐輦跡の碑
石投場の碑が並んでたっています。駐輦(ちゅうれん)とは、天子が車を
とどめること。とあることから、明治天皇も諏訪湖のあまりの美しさからこの場所に
車を停め、絶景を堪能されたのでしょう。では石投場というのは何でしょう。
まさか、明治天皇が湖に届けとばかりここから石を投げたということでも
ないでしょうし、その辺に石が転がっていたら私も湖に向かって
投げてみたくなる場所であることは確かです。


石投場からはゆっくりとした登り坂なのですが、すっかり試飲が利いてしまった
我々にはとても急な坂に思えて、あえぎながら登って行きました。
登りきると、とうとう
最後の一里塚跡の碑が待っていました。ここは江戸から
53番目の塚で、植木に囲まれた場所にあるので、うっかりすると見落としそうな
場所に在ります。あと十一町(1100m)で中山道とつながるとあります。


若宮神社の碑を過ぎると、宮坂建具店の手前(写真左上)に小さな川が有ります。
うっかり話しながら行くと通り過ぎてしまいそうな川で、承知川といいます。
その川を、よく見ておいてその先の
ヤマザキYショップ(2009年頃廃業:伊吹さんの情報)
の先へ行くと右側の石垣に
承知川橋の記があります。


   承知川橋の記

  この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
 輝石安山岩 重量約拾参屯 
  伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と
 千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を
 約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが
 乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き
 「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの
 一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
  この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われ
 て来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であっ
 たことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処
 に保存する。
   昭和五十二年                         久保海道町


保存の仕方が面白い。なんと久保海道公会所の石垣に埋め込んであります。
確かに煉瓦模様が刻まれ、その規則性の乏しい模様から埋蔵金の地図と
想像した往時の人々の想像力の豊かさを感じました。また信玄がこの橋を
承知川橋と呼べと村人に命令したのではなく、蔭でこの事態を目撃し
自ら承知川橋と呼ぶようになった様子も伺え伝説の面白さを感じます。


承知川から5分、とうとう
諏訪大社下社秋宮へ到着してしまいました。
あと2分で本当のゴールとなってしまいます。ここで旅の無事を感謝して、
最後の100mである国道142号へと進んでゆきましょう。


塩羊羹で有名な店、
新鶴本店の前を過ぎれば終点はすぐそこ。
御宿まるや(写真右)と、桔梗屋旅館、聴泉閣かめやの真ん中が
中山道との合流点になり、そこが甲州道中の終点となります。


ボクたちは、今から4年前2003年7月26日16時35分和田峠を越え右からやってきて
翌日真っ直ぐ三条大橋を目指し中山道を進んでゆきました。
パパたちの甲州道中は左からやってきて、ここでゴールとなりますが、
2007年秋には、ここから三条大橋への中山道へ入り、塩尻からは五千石街道で
松本へ向かい、そして塩の道である千国街道で糸魚川を目指します。
日本橋から中山道を通ってここまで222.4km、そして甲州道中での距離は210.8km
こうして両街道を使って日本橋から下諏訪まで歩いてみると、いろいろと
考えさせられることがありました。碓氷峠や和田峠などの難所があるのに何故
和宮は中山道を進み京都~江戸間の幹線は甲州道中ではなく中山道だったのか。
川留めなどにより、進む日程が読めない甲州道中と云われていますが、
東海道に比べ、そんな大きな川も無く考えにくいところです。
やはり、徳川家康の退却路としての役目が甲州道中にはあり、10kmも短い
道でありながら、大名をも通さなかった道なのでしょうか。


聴泉閣かめやは皇女和宮さまが泊まられた部屋があり、お茶菓子付きで見学できる
ようになっています。そのかめやの前には小さな広場があり、そこで待っていた
人々の中にあの勅使川原郁恵さんもゴールしました。そこには
中山道下諏訪宿問屋場
跡の碑下諏訪宿甲州道中中山道合流之地碑があり、確かにゴールしたことを
旅人に伝えます。正面の壁には文化二年(1805)
木曽路名所図会に描かれた
下諏訪宿の情景を陶板レリーフにしたものが飾られています。その絵は丁度この場所で、
誰もいない静かな現代と比べ、庶民の活き活きとした様子が描かれていました。
それでは、長い間のお付き合いありがとうございました。