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| 1ヶ月ぶりに帰ってきた青柳駅 |
駅からエプソンの寮を望む
林の向こうが甲州道中 |
駅からの遊歩道沿いには
穂屋之木大明神が |
車のいないのどかな道を
金鶏の湯へ向かう |
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金沢宿の中で発見した馬繋ぎ石。民家の玄関口の前、大きな石の片隅に、
穴を開けた石が無造作に 置かれていました。
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金沢宿にも昔はしっかりとした枡形があったと言いますが、国道が宿場内を走ったため
緩やかなカーブに付け替えられてしまい東の枡形は姿を消しました。
町は人影も無く寂れた感じで、古い建物だけがひっそりと佇んでいます。
右の写真からも分かるように宿場内は、諏訪側の宮川に向かって緩やかに下ります。
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ここの秋葉常夜灯は、かなり近代的、石柱の上に電球とは恐れ入りました。
宿場の外れには宮川があり、金沢橋で渡ります。この右側に水神明王があり
いくつかの古い石仏が残っていますが、その中に処刑された小松家を弔う
地蔵尊があると伝えられます。どれがそれかは分かりませんが、村人たちは
自分たちのために戦い、そして藩に処刑された小松家をいつまでも尊敬し
こうして隠すように祭っていたのでしょう。橋を渡ると甲州道中はすぐに右折します。
本来は、この橋ではなく、もっと右側にあって、その先のクランクが枡形になっていました。
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枡形を抜け、再び国道へ出る場所に権現の森はあります。この権現の森の由来は
文化二年(1805)に金沢宿より幕府に提出した「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」の中に
「宿持鎮守 除地 拾六間四方 金山権現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」
とあり、この権現の森と石祠が報告されていました。その祠は今でも鳥居の正面に鎮座します。
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石祠の左右には、江戸中期より大正期までに奉納された御嶽座王大権現、不動明王
摩利支天、牛頭天王などの石仏が並びその芸術性の高さに驚かされました。
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権現の森を過ぎると再び国道歩きとなります。そこで見つけたのが諏訪ナンバー。
ご当地ナンバーが流行で、神奈川では湘南ナンバーが人気でしたが、長野にもありました。
このナンバーは初めて見たので思わずシャッターを切ります。ドライブインフジカの前を
過ぎると左手田圃の中に大きな寒天の里の看板があります。これは手前にある
富屋寒天工場の看板なんでしょうか、そういえば茅野は日本一の寒天生産地。
寒天は徳川家綱の時代、京都の旅館の主人が戸外にトコロテンを捨て、それが
凍結と融解を繰り返しているうちに干物となり食べたところトコロテンより美味しかった
のでこれを製造するようになったというのが起源、信州へは行商人がその製法を
持ち込み、農家の副業としたが、気候が合い一大生産地となりました。
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うっかりすると見過ごしてしまうのがこの木船の一里塚です。セブンイレブンを過ぎた辺りから
左側にこんもりとした森が見えてきます。その国道沿いの先端にあるのが一里塚で、
国道から行こうとしても川に遮られ行けません。どうしても見たい方は、清水橋バス停から
脇道へ入り、ホテル虹色のメルヘンをぐるっと回って田圃の畦道沿いに裏から行きます。
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この一里塚は江戸から四十九里目(五十里目とも)の塚で、中央本線の線路敷設、
耕地整理などにより、移動したためこの場所が本来の場所ではないそうです。
江戸時代には国道も線路もなく、田圃や川も現在の状態ではなかったので
本当の甲州道中も一里塚もどこにあったのか、今となっては知るすべがありません。
ちなみに一里塚の位置を知りたくて、清水橋付近の民家の方に伺ったところ
そんなものがこの付近にあるなんて知らないとの返事、江戸は遠くになりました。
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