地図をクリックで印刷用A4版PDFダウンロード


テッシーが下校中の子供達と話をしていた場所は、カゴメ富士見工場の裏。
それは、写真正面遠くに見える林が続く場所。あの林の中に工場はありました。
国道20号を走っていると、この工場の大きな看板を見ることができますが、
国道よりかなり高い丘の上のため工場を見ることはできません。しかしこうして
街道を歩いていると、その裏側から良く見えました。特に驚いたのは従業員の
駐車場、車の台数にビックリ!すずらんの里という駅はあるが、ずいぶん遠く
地元の方達は、車が足になっているということが分かる一こまでした。


工場の脇を進んでいると、真横に富士見パノラマリゾートスキー場
良く見えるようになりました。夏でもマウンテンバイクのダウンヒルコールが人気で、
地元の活力になっています。その上は
入笠山で、八ヶ岳の展望が良く冬でもリフトで
頂上近くまで行けることから人気の山です。路傍を見ると、小さな石碑を発見。
磨り減ってよく判別できない文字を見ると、
奉納念仏供養と見えます。
また、右・・・、左・・・とあることから道標も兼ねていたと思われます。


平らな道がやや下りかけると、
御射山神戸の集落に入ってゆきます。
一面のキャベツ畑を左に見ながら進むと、火の見櫓のある場所で、
道は大きく右へと下ってゆきますが、甲州道中はそのまま真っ直ぐ
細い方の道を進みます。


完全な下りになった道の左側には石仏が集められ並んでいます。
真ん中には
大きな石碑があり、真那以址碑?と読めますが本当は
何と読み、何の址なのか地元の方教えてください。


狭い坂道をどんどん降りてゆくと、正面に中央本線すずらんの里駅が見えてきました。
この駅は昭和60年に開業した新しい駅で、後ろの丘にあるセイコーエプソン富士見
事業所が事業所へのアクセス確保と鉄道の有効利用のため費用を負担してできた駅です。
我が家を見渡しても、エプソンダイレクトのPC4台をはじめ、スキャナー、プリンタと大量に
エプソン製品があるので、この駅の電球ぐらいには貢献しているかもしれませんね。
この事業所の裏は諏訪南インターで、東へ向かえば別荘地の原村、西がこの事業所と
富士見パノラマリゾートということになります。


やがて街道は、久しぶりに
国道20号へと合流します。この場所がその合流点で、
ここからUターンするように、写真左方面へ向かいます。諏訪から来た方は、
ここへ入ったら、正面へ登ってゆく道へ行かず、我々がいるほうへ戻るように
登ってください。正面の道へ行っても火の見櫓へ出るので、迷うことはありません。


ここから833m国道を歩くことになります。写真左は富士見パノラマへの入口
諏訪南インターで降りた車は、向こう側から走って来て、ここで右折しスキー場へ
向かうことになります。小さな沢を渡ると、国道右側に
小川平吉先生生誕之地という
大きな石碑がありました。小川平吉とはどんな人物だったのでしょう。この場所に
あった呉服屋に生まれたのは1869年。子供の頃は腕白で、悪評高い悪ガキだった
ようですが、14歳のとき勉強がしたくて、草刈に行くと家を出たまま上京するという
つわものだったようです。その後東大法学部を出て弁護士となり、1903年には
衆議院議員に初当選します。ここでも日露関係に生ぬるい伊藤博文と意見が
合わず、日比谷焼き討ち事件を引き起こします。その後、鉄道大臣となりますが
鉄道敷設免許を利権のために乱発し、五私鉄疑獄事件で懲役2年を受け、
ついに政界を引退する羽目に陥るという、暴れん坊だったようです。
それでも、地元にはずいぶん貢献したのでしょう、先生と呼ばれ石碑が建つようでは。


御射山神戸の中心地は、農協がある辺りになります。そもそも御射山とは、鎌倉時代
諏訪大社で行われた
御射山祭りに始まります。諏訪大社はもともと風除けの神様として
信仰され、その神への生贄に鹿などを射止めて奉納したのが御射山祭りの起源です。
ここから北へ20km、ビーナスラインの八島ヶ原湿原と霧が峰の中間に旧御射山遺跡が
あり、すり鉢状になった丘の斜面には、コロシアムのような観客席があります。
ここに鎌倉幕府の武将達が集まり、流鏑馬のような競技をしていたものと思われます。
そのようなことから、この風習が全国に伝わり、ミサヤマと呼ばれる地名や神社が
各地に残るようになり、ここもそのひとつということになります。


御射山八幡という交差点の際には、小さな鳥居の八幡宮があり、そろそろ
集落も終わりとなります。交差点から300mの場所が右の写真の場所で、
ここから再び国道と別れ金沢宿を目指します。


旧道を坂道で登ってゆくと右側に
馬頭観音の群れが現れました。普通馬頭観音は
苔むした古いものが多いものですが、驚いたことに、ここには飛び切り新しい馬頭観音が
並んでいました。北洋号、名馬あか号、と並び青・チビ・花という牛か馬の碑には
その新しさもさることながら、現代でも立派に供養していることに感激しました。
街道を歩いていて牛馬には遭遇しませんでしたが、まだまだこの付近にはいるのでしょう。
その先には、
片瀬明神跡の石碑も草むらにひっそりと隠れて建っています。





こんな大きな木がそびえる一里塚に出会ったのは、東海道・中山道を歩いた
私にとって初めてでした。これが
御射山の一里塚で、日本橋から四十八番目の
一里塚です。塚は両側にありますが、東の榎は明治初期に枯れ、西のケヤキが
塚が作られた慶長年間から380年間を生き延び、目通り幹囲6.9m、樹高25mと
非常に大きく育ちました。またここには
標高917mの標柱も立っています。


森を抜けるとパッと展望が開けます。左側には
エプソンのスポーツ施設が続きます。
前方下には今日のゴールとなる青柳駅も見えてきました。


セイコーエプソン金沢精和荘
が見える道は急に広くなります。
スポーツセンターへのアクセス道路のため、甲州道中は拡幅されました。
その広い道が途絶えるところが右の写真。ここで広い道を
後にまっすぐ細い道へと入ってゆきましょう。


700mほど、ゆっくりと下ってゆけば、再び国道20号へ合流です。ここから金沢宿の
中心までは540mあります。
匠亭のモルツ<樽生>の看板が我々を誘いますが、
今日は温泉入って一杯できるので、ここは我慢我慢!


金沢の信号が見えて来たらもうゴールです。この交差点の左向こう側には
右の写真のような看板の集合地がありますが、ここが
本陣小松家址になります。
この小松家には明治天皇が御巡幸の折、昼食をとられたため、
行在所となりました。
そんな石碑や本陣の説明版も看板の中にひっそりとたたずんで居ます。


 金沢宿本陣跡

 
五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き、約四里(約十五キロメートル)おきくらいに
 宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務に当てさせた。甲州街道の
 宿場には二十五人の人足と二十五匹の馬を常駐させその任に当たらせた。
  本陣は大名や公家が泊まったり、休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっ
 ていた。金沢宿には二軒の問屋が置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿
 は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害
 と前年の火災で焼失したのを機に、慶安四年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。
  本陣の敷地は約四反歩(約四〇アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などが
 あった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族
 を顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先にたって働いた四代三郎左衛門は、延宝六年(1678)
 高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され家は悶所断絶した。
 その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩
 高遠藩の三藩であったが、江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通ら
 ず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。

          平成十一年五月吉日     金沢区 金沢財産区      金沢歴史同好会



この金沢交差点で本日の甲州道中は終了。この交差点を右へ入り温泉へ向かいます。


交差点から125m入るとこの金鶏の湯があります。茅野市営なので料金も400円と格安。
旅の汗を流して、ゆっくり帰りましょう。


ゆっくり歩いても中央本線青柳駅までは17分ほど、しかし一旦温泉につかってしまった
我々は市営のバス、
ビーナちゃん号に乗って駅まで行きます。もう汗はかかないぞ!
駅は洒落たデザインですが無人駅。各駅で小淵沢へ出て特急で帰ります。