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流川を渡るといよいよ教来石です。教来石って不思議な地名ですよね。
これは日本武尊が座ったと言われる石のことで、経来石、清ら石、へてこ石などと
呼ばれています。さてその石はどこにあるかというと、これがいくつもあるようで
みんな教来石なんだそうです。そもそも日本武尊の時代は2世紀、確かに東征で
甲斐の酒折宮から信濃へ向かったとあることから、教来石にも立ち寄った
可能性は大きく、ここで石に座って休んだこともあったでしょう。しかし、長いときが流れ
その石を特定するのは、意味がないことかもしれません。この村に日本武尊が
来て休んでいったということが大切なのでしょう。それで教来石なのです。
そんな村の入口には田舎暮らし情報館というリサイクルショップがありました。
なんか面白そうなものが小屋や庭にたくさんあって、ゆっくり探したら面白そう。
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流川橋の上から南を望むと、緑の山の頂に白い砂が見えます。これは日向山(1659.6m)の
雁ヶ原です。台ヶ原中学から入った林道で途中まで登り、その後徒歩2時間程度で登れます。
緑の山頂から西に回りこむと突然白砂の原が現れ、ちょっと変わった山です。
甲斐駒ケ岳や地蔵ヶ岳も、頂上は白砂の頂ですが、周りに樹木はありません。
同じ花崗岩の露頭なのですが、ここは緑に囲まれていることが不思議です。
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教来石は上と下に分かれており、最初に通るのが下教来石の集落です。
旧甲州街道には特に目立ったものが無かったので、この美容室ババは
かなり目立っていました。特に店の前にいる石のカエルが何ともいえません。
街道はすぐに国道20号へと出てしまいます。
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国道歩きは3分ほど、すぐに右の旧道へと入るのですが、その間に
明治天皇御小休所址の碑があります。国道の反対側なのでちょっと気がつかないで
通り過ぎてしまいそうの場所にあります。その先に横断歩道橋が見えてきました。
その下には左側に駐在所、右に郵便局があり下教来石の中心地といった感じです。
その郵便局の手前を右へと入って行くのが旧甲州街道です。
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旧道に入ると、眼下に田園風景が広がります。ここを明治天皇が通ったとき
下の田圃では田植えが行われていて、天皇はそれをご覧になったという場所です。
今では、田植え機にまたがったおじさんが一人ガンガン植えていってしまうのでしょうが、
天皇が見られた時代は早乙女が優雅に植えていたのではないでしょうか。
この風景を見ていると、そんな早乙女たちの歓声が聞こえるようです。
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木陰の無い道を歩き続けてきた我々に助けの神がこの諏訪神社です。
この木陰からの田圃はまた格別のものがあります。諏訪神社は元和三年(1617)に
造営された教来石の産土神です。境内には石仏もありますが、ここは本殿へ向かいましょう。
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諏訪神社本殿
付棟札1枚 本社拝殿再建諸色勘定帳
昭和43年12月12日 県指定
諏訪神社の創建及び沿革について詳しいことは明らかでないが、古来から教来石村の産土神として崇敬を
受けてきた。
現在の本殿は、天保15年(1844)12月19日再建したもので、棟梁は諏訪出身の名工立川和四郎富昌である。
本殿は一間社流造で、屋根は柿葺、正面中央に軒唐破風付の向拝をとりつける。
建築の特色は、随所に施された彫刻装飾にある。身舎壁面の「猩々と酒壺」背面の「唐獅子」小脇羽目の
「昇竜と降竜」蟇股の「竹に雀」脇障子の「手長と足長」の浮彫、向拝正面に中国の故事「ひょうたんから駒」
の丸彫など、豊富な意匠、奇抜な図柄、加えて精巧な彫刻は、全体の均衡を失わず、よく「立川流」の作風を
伝えており、富昌の傑作品の一つである。江戸時代後期の社寺建築の動向をふまえつつも、異彩を放つ貴
重な遺構である。
なお、付加指定の棟札に「維持天保十五歳次(中略)甲辰冬十二月十有九日(以下略)」とあり、また本社
拝殿再建諸色勘定帳には「御本社棟梁 立川和四郎殿 本社分 一金 四拾二両・米 弐拾八俵・拝殿分
一金 拾七両・米 拾七俵(以下略)」とある。
山梨県教育委員会
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この本殿の彫刻には、本当に驚きました。本殿は、それを囲う建物で覆われており、
その周囲は目の細かい金網のため、写真を撮るのは殆ど不可能ですが、一部金網の
破れたところからレンズを入れて何とか取れたという次第です。こちらからは、側面に
彫られた「猩々と酒壺」と脇障子の「手長と足長」をよく見ることができました。
こんな村の小さな神社に、こんな素晴らしい彫刻があるとは思ってもみませんでした。
反対側は国道で、ここを何回も通過していたのに気も付きませんでした。
排気ガスがこの本殿にも届いていることから、是非完全な保護を県にお願いします。
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少し進んだ場所に明治天皇御田植御通覧之址の碑が左側にあります。
明治天皇は明治十三年六月二十三日に、この場所から田植えを
ご覧になったとあります。やがて田圃の上を通っていた街道は田圃のそばへと
下りてきます。下諏訪から来た人は、珍しい上り坂ということになりましょう。
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その先にも、明治天皇は足跡を残されました。左側に現れたのは、御膳水跡です。
巡幸の際、天皇はこの細入沢の湧き水を飲み美味しかったのか村人を誉めたとのこと
さぞ恐縮したであろう村人が、傅く様子が目に浮かぶようです。現在は涸れ沢と
なっており我々は御相伴にあずかることはできませんでした。
街道は再び、教慶寺の前で国道20号へと出てゆきます。
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今度の国道歩きはたった70m、この場所から再び旧道へ入ってゆきましょう。
ここからが上教来石の集落です。国道と並んで田圃の中を行きますが、
街道は国道より平坦な道を行くので、助かります。
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| 落ち着いた町並みの上教来石 |
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| ここにも変わった見越しの松が |
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大目沢橋を渡ると、国界橋へと真っ直ぐ伸びる街道が眼下に広がります。
この直線道路は実に800m、暑い今日は木陰が無くちょっと厳しい直線です。
手前の右側、北杜市の看板のところに山口の関所跡はあります。
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町指定文化財(史跡)
山口関所跡
所 在 地 上教来石1359
管 理 者 白州町長
指定年月日 昭和48年12月1日
甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(154)の武田信玄の伊那
進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で
近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名
取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(1705)に本栖の口留番所から
移ってきた。
この番所の記録に残る大きな出来事に、天保七年(1836)郡内に端を発した甲州
騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、
番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び
職に戻り、明治二年番所が廃せられるまで勤め、明治六年に設けられた台ヶ原屯所
の初代屯所長に、起用されている。
今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した
袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取
宅に保存されている。
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