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このページは、全長17kmにも及ぶ徳島堰に沿って進みます。
それでは、冒頭にその徳島堰について少し学んでみましょう。

徳島堰由来

この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰、徳島堰)中、随一と言われています。
三百三十年前、江戸の住人徳島兵左工門がこの地方の開発を計画し、幕府(甲府藩)
の許しを得て、寛文五年(1665)工事を始め、同七年に上円井(韮崎市円野町)より曲輪田の
大輪沢(櫛形町)まで約17kmの堰を造りましたが、何故か兵左工門は同年秋工事から手を
引きました。その後甲府藩では有野村(白根町)の郷士矢崎又右工門等に命じて全区間の
不良箇所の修復をさせ同十年に完成したので、この堰を徳島堰と名付け兵左工門の功を
たたえましたが、兵左工門は工事に私財を使い果たして生活は困窮しました。
当初約350haの耕地はその後増加し水路は老朽化したので、昭和四十一年より九年の
歳月と  億5千万円の巨費を投じて農林省によって改良工事が行われ、昭和四十九年に
完成しました。現在毎秒7.96m3の水が自動的に流れ、田1559ha、畑2052haの沃野が
この堰の恩恵を受けています。水辺に立って豊かな水の流れを見つめると
先人の功績が偲ばれます。(文責歌田)

平成七年八月吉日         平成かかしカーニバル実行委員会建立


唐沢橋に出没したのは野猿の群れで、十数頭の猿たちは我々が近づく前には道路を
悠然と横切っていましたが、気づくといっせいに左写真の右上の木へ飛び上がり山へと
姿を消しました。この先筆者は猿よけ電撃ネットで感電するのですが、人里にこんな
たくさんの猿たちが移動するところは中山道でも見ることはありませんでした。

唐沢橋から200m、ここで初めて甲州街道は徳島堰と出会います。
ここの
標高は445m、釜無川の取水地点の高さが455mなので、ここまで
3800m流れて、たった10mしか下りません。この付近の釜無川は410m程なので
45mは下った計算になります。徳島堰がいかに計算された用水路かが分かります。



その先、
宝蔵寺の門前で甲州街道は県道韮崎櫛形豊富線と別れ入戸野の集落へと向かいます。


入戸野は戸数60戸余りの小さな集落、山形酒店が唯一の店で、街道の左側には
滾々と徳島堰が流れています。厳重にフェンスを張り巡らせていますが、こんな
流れに子ともが落ちたら、いったいどうなるのか心配してしまいました。


徳島堰をよく観察すると、全体に勾配が付いているのではなく、要所要所に小さな堰が
あり、そこで落差を吸収していることが分かりました。この場所でも30cmと50cmほどの
堰が二段連なっているところを観察することができます。程なく、集落を抜け堰は
田園地帯の中を進んでゆきます。


集落の道が県道に合流した直後、徳島堰は前方の戸沢川を迂回するように左へ
入ってゆきます。それに沿った道が甲州道中で、各甲州街道のサイトでは、
この辺りから
街道を見失い右往左往する様が見受けられます。上円井までは
あくまでも徳島堰を左に見て進む道が甲州街道ですので注意してください。


この
円井逆断層の案内板が旧道への目印で、その先に見える戸沢橋は渡りません
堰に沿った道は山へと入って行き舗装も途切れ砂利道となります。やがて戸沢林道の
標識が現れますが、左への道には入らずそのまま直進しましょう。


県道から160m、林道から別れ右へ入ると流れが小さくなった戸沢が行く手を遮ります。
実はこの道の下を徳島堰が暗渠となって通っています。我々は徳島堰の上を歩いて戸沢を
渡るわけです。この日は狭いところでは
幅が1m程だったので難なく渡れましたが水量が豊富
なときは危険かもしれません。そんなときは、県道まで戻って戸沢橋を渡ることをお勧めします。


渡ると、戸沢橋を渡った県道から登ってきた道にぶつかります。右へ降りれば県道ですが
ここは
左へ登りましょう。簡易舗装された急坂をUターンするように登りきれば下円井の集落です。


この下円井も東西200m、南北400mの小さな集落ですが、洒落た土塀や石塀が多く、
また通行の邪魔になった木を根元から伐採するのではなく、腰の高さで切って、
猿の顔
デザインするセンスのある街です。


道は火の見やぐらのところで軽く枡形になっていますが、そこには秋葉山常夜灯が
ひっそりと残っていました。火伏せの神を祀った秋葉神社に因むこの常夜灯は、
もともと静岡県周智郡春野町ある
秋葉山三尺坊大権現という火災防止の神様を参拝する
人の道しるべだったようで、東海道をはじめ中山道、そしてこの街道にも良く見られ
谷保では大きな常夜灯も紹介してきました。その向こうにはこれまた立派な
なまこ壁
門を持つ家が現れました。甲州街道にもなまこ壁が良く現れますが、なまこ壁といえば
伊豆の松崎にいた
入江長八のなまこ壁が有名です。これは平瓦、現代ではタイルを
敷き詰めその目地にあたる部分を漆喰で盛り上げて留めた技法で、長八の考案とも
言われています。漆喰は海草の角又を煮詰め貝灰を入れ更にスサ(麻・藁等)で練り上げた
糊で保水性がよく耐久性に優れた素材で、壁塗りなどに全国で使われています。
漆喰をふんだんに使い盛り上げた形がなまこに似ていることからその名が付きました、
海草の取れない甲州街道にあるなまこ壁は、かなり贅沢なものだったのでしょう。


やがて集落の中の街道は、カーブミラーのあるところでT字路となり、
これを右に曲がって坂を下ってゆくと、黄色い家の場所で
Y字路になります。
よく見ると、右が県道で、左には暗渠になっていた徳島堰が現れるところが見えます。
その徳島堰のフェンスを目印に左へと進んでゆきましょう。


街外れに来ると、コンクリートの暗渠が徳島堰から右手の川に続いています(写真左)。
これは徳島堰の水量を調整する
逃がし水路で水量が多くなった場合ここから水を
釜無川へ放流する仕組みと思われます。その先には暗渠から顔を出した徳島堰が現れます
(写真左)。そこには「
徳水不息」と書かれ、山から自然に湧き出た水で形成される川と
徳島堰の交差点にあるサイフォンとなっています。全長17kmもある徳島堰は途中何度も
西の山から流れ出る川を越えてゆかねばならず、必ず交差点が発生してしまいますが
そこには
サイフォンという伏せ越しがあり、川の下を暗渠となってくぐっています。
現在ではコンクリートでできたトンネルですが、江戸時代の当時はかなり難工事だったの
ではないでしょうか。そんな先人の思いを感じさせるものでした。


下を走る県道が国道20号の円野郵便局前交差点にぶつかるところが遠望できます。
その向こうには荒々しい
七里岩が屏風のように連なります。手前の田んぼの中には
なにやら
馬に乗った信玄のような彫像が見えますが、これは何でしょう。
甲州街道を歩く人たちの中には、徳島堰から離れてしまい、この県道を行き
かかしの里の看板を見上げながら進んでしまう方も少なくありません。
この彫像の前に出てしまったら、下円井まで戻るか、田んぼの中を登ってきてください。


やがて行く手に
かかしの里と一文字づつ描かれた大きな看板が現れました。
徳島堰は曲がりながらゆっくりとこの看板に近づいて行きます。そばへ行くと
黄色の大きなモニュメントがありました。ここは
平成かかしカーニバルの会場、
毎年9月上旬に200体ものかかしが、この看板の下の田んぼに並びます。
1994年、この上にある40世帯からなる宇波円井地区のみなさんが、
地域活性化のために始め、3回目からは上円井、下円井、大戸野の地区も
加わって円野町全体のイベントとなりました。最初は31体で始まった
カーニバルも200体を越え、観光バスのツアーコースにもなりました。
地元のおかあさん達がトウモロコシの皮で作ったかかし人形も好評で
500個が完売と言う人気です。秋になったらもう一度訪れたいものです。


モニュメントの隣には水土里ネット「円野町」の大きな案内板がありました。
みなさんは
土地改良区をご存知ですか?農家の人には当たり前のことでも
なかなか一般に人には分からないものです。実はここも土地改良区。
日本の風景は100%人間が作り出したものという人がいましたが、田園風景こそ
農家の人々が生活のために作り出した風景と言って良いでしょう。
土地改良区とは、農業生産を行ううえで必要な用水・排水・農地の整備を
行うために組織された農家の人たちの集まりです。最近では、その改良区の
中に一般の人たちも住むようになり、共存が大切となってきました。
そのため広くPRし理解を得ようと言うのが
水土里ネットと言うわけです。
土地改良区は全国に約7,000あり、関係する農家は300万人になります。
その中の小さなひとつが、ここ円野町の土地改良区です。
看板には徳島堰の取入口や、円井逆断層、そしてかかしカーニバルの
写真もあるので、楽しんでいってください。
程なく進むと、徳島堰の脇に
徳島堰を解説した案内板がありました。
ページ冒頭の青い文字がその内容です。ひとつ気になったのが
竣工費の億の上の数字が抹消されていたことです。農林省の補助事業
とのこと、きっと当初書いた数字に問題があり急遽消したのでは?


寺沢との交差点に再びサイフォンがありました。これには
徳島堰土地改良区理事長 庵原祐正と記名がありますが、サイフォンの
前の文字は達筆のため読むことができませんでした。
やがて街道は、
桜のトンネルとなり国道へと向かいます。
この寺沢との交差点を右へ300m行くと円野郵便局前交差点。
そこには、
みどりや食堂とセブンイレブンがありますので補給が足りない
方は、寄り道して身体にガソリンを補給してください。


前方に国道20号が現れました。ここには信号機は無く、車は一時停止ですが
我々は下をくぐる
トンネルを使って国道の向こう側へ向かいます。


トンネルを抜けると上円井の集落へと入ります。集落のメインストリートと
交差したら
左へ曲がりましょう。徳島堰はそのまま真っ直ぐ進み釜無川の
取水口へと向かい、ここでお別れとなります。取水口までは550mほど
時間と興味のある方はお勧めですが、我々は街道へと足を運びます。
交差点から230m右の写真が妙浄寺への入口です。かなり狭い路地なので
急いで街道を行くと見落としてしまいそうです。入口には
徳島翁のおはかみち
と書かれた石碑が建ち、その先には
なまこ壁の土蔵が並びます。


江戸深川の商人で豊臣家の残党と言われた徳島兵左工門は、堰を建設するに当たり
その完成を祈念して深川の法華山浄心寺第二世日通上人の開眼による
七面大明神
その守護神とし、この地に安置して建設に励みました。しかし幕府の圧政にあい、
この地を去り、その後を妻である妙浄尼に委ねました。それにより身延山法主日莚上人
より
妙浄寺の名称を賜り、この寺となったと言う訳です。いまでも七面大明神が
本堂に安置されていますが、見ることはできませんでした。


境内の右手裏にはひっそりと
徳島翁と妻の墓がありました。
そのまま裏口から寺を出ると、すぐ上に国道20号が走っており、その際に
大衆食堂なかよしがあります。早出の方や健脚の方は、ここで昼食が良いでしょう。
現在13時38分、我々にはちょっと遠い場所でした。



2013年4月13日の小松@上尾市さんの情報によりますと、
なかよし食堂は、やま輝に変わりました。


街道に戻り333m進むと右側になまこ壁の立派な家が現れます。ここは明治天皇
小休所となった
内藤家。立派な門から中を覗くと、空き地になっていたのでビックリ!
そこから200m足らずで
国道20号と合流します。信号機には上円井とありました。