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笛吹川の土手を快適に歩いてゆくと、対岸に大きな建物が見え始めます。石和温泉です。
程なく左後方から国道411号線が合流し、道は国道を行くことになりますが、歩道が無く
危険な歩きが590m続きます。やがて国道は笛吹橋で、笛吹川を渡りますが、
甲州道中も国道と一緒にここ笛吹橋を渡りましょう。江戸時代の笛吹川はもっと北、
石和温泉駅辺りを流れていて、街道は現笛吹川の中を通っていましたが、大洪水に
見舞われ、川の流れが街道を消滅させてしまいました。従ってこの橋もなく、斜めに
街道は通っていたと思われます。橋を渡っていると、左対岸に松並木が見えてきました。
あの並木に沿って進んでゆくのが現在の旧甲州街道です。
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橋を渡りきったら、道を渡ってから市街地に下りないで左に進みましょう。
バス停笛吹橋西の前を通り過ぎると、松並木下の道へ降りる小径があります。
松並木は300m足らずですが、街道歩きの旅人にとっては昔も今もありがたいものです。
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松並木が終わる頃、小径は右方向にカーブし笛吹川から遠ざかってゆきます。
その分かれ道の場所に笛吹権三郎之像があります。説明の石碑もあり、こう記してます。
笛吹権三郎の事
今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいた。
彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に
逃れたと聞く父を母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身で
あった。彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも
里人の心を酔わせていた。
ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのために近くを流れる子西川が氾濫し権三郎母
子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。若い権三郎は必死で流木につかまり
九死に一生を得たが、母親の姿を見つけることはついにできなかった。悲しみにうちひしがれ
ながらも権三郎は日夜母を探し求めてさまよい歩いた。彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い
同情をそそった。しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三
郎は、自らも川の深みにはまってしまったのである。
変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸
で発見され同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られた。
権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくる
ようになり、里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、今も芹沢の里では
笛吹不動尊権三郎として尊崇している。
これが先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。
昭和六十年五月吉日
山梨県山梨市七日市場四九三番地 長沢房子(旧姓広瀬)
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笛吹川は、最上川、球磨川と並ぶ日本三大急流のひとつで、甲武信ヶ岳や国師ヶ岳を源とする
東沢渓谷と、国師ヶ岳や奥千丈岳を源とする西沢渓谷が合流し笛吹川となり、更に鰍沢町で
釜無川と合流し富士川となり、静岡県で駿河湾に注いでいます。昔から洪水に悩まされ
ダムなどを作って砂防に努めていますが平成3年にも被害が出ています。
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そんな権三郎にちなんでつけられたのが、この通りです。石和は水が豊富でいたるところに
水路が設けられていますが、この通りにもかわいい水路がありました。この突き当りで道は
Y字路になり、水路は右への道に沿って流れていますが、旧甲州街道は左へ進むので注意。
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Y字路を過ぎて、このテアトル石和が出てきたら正解です。Y字路から460m。
あと370mで市部通りである国道411号線に出ます。今日の上映は武士の一分と
拉致されためぐみさんの映画の二本立てです。それで1000円とはレンタルビデオ並ですね。
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笛吹橋から川沿いを走ってきた国道を合流するのは、ここ依田石材店前です。
国道は、市部本通りと名前を替え、権三郎通りとはガラッと趣を変えます。
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1961年果樹園の中から突然お湯が湧き出し
始まった石和温泉の歴史は新しい。東京から
近いこともあり、奥座敷の歓楽街として賑わった。
筆者も若い頃には職場旅行でよく来たことがある。
芸妓置屋という看板を見つけ昔を思い出した。
温泉街の規模は熱海に次ぐといわれ今でも
120軒ほどの宿泊施設が軒を連ねている。
最近では歓楽街を脱却し、家族でも来れる
町のイメージ造りに力を入れているようだ。 |
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そんな街づくりの一環を垣間見ることができるのが、各所にある案内板や
足元を飾るデザインタイルです。これらは左から来る鵜飼橋通りとの
交差点で見ることができます。石和町の力の入れようを感じました。
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ここ石和で、鵜飼いを生業としていた平時忠漂泊(鵜飼漁翁)は禁漁を犯し
簀巻きの刑に処せられました。しかし、その怨念は尽きず石和川の怨霊となり
人々を苦しめておりました。そこへ日蓮上人の高弟である日朗・日向上人が
通りかかり、法華経一部八巻六万九千三百八十余文字をかわらの小石1石に
1文字ずつ写経し、川底に沈め三日三夜供養を唱えてその亡霊を成仏させた
という伝説があります。そのときの草庵がこの鵜飼山遠妙寺です。
市指定文化財の仁王門は三間一戸側面二間楼門重層入母屋造瓦葺で
江戸時代末期の建築物です。
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縁妙寺からほどなく、上り新宿方面高速バス停の前に石和本陣跡がありました。
明治十三年天皇がお越しになる直前に大火に遭い消失してしまいました。
現在は主蔵が一棟残るのみとなっています。その斜め前方左側には下りの
高速バス停があり、その前に足湯がありました。我々もちょっと休憩して
素足を温めます。東京からと言う二人連れも仲良く浸かっていました。
旅人にはありがたいサービスですが、これから甲府まで行く我々には
あまり暖めてふやけてしまっては元も子もないので早々に引き上げます。
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足湯の裏は石和小林公園で、中へ進むと等身大の銅像がありました。
この公園は、元々この小林中翁の家の跡で、その翁の功績が説明板に
あったので紹介しましょう。大正11年早稲田大学を中退し、家業の
石和銀行取締役支配人に就任。その後、30際のとき富国徴兵保険相互会社
(現富国生命)の第一部長、44歳で社長となり、52歳の時に日本開発銀行
初代総裁となった。その後東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉
日本政府代表、アラビア石油社長、海外技術協力事業団初代会長、
財政制度審議会会長、外資審議会会長を歴任し、勲一等旭日大綬章を
賜った石和の英雄です。右の蔵は小林翁が使用していた文庫蔵で
明治の建築がそのまま残っています。
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さて、街道に戻りましょう。文庫蔵から120mで石和温泉駅入口交差点です。
ちょっと遠いのですが、ここを右へ800m行けば中央本線の駅になります。
元気な人は、もう少し頑張って酒折駅まで行きましょう。そっちは街道から
130m、次にくるときも楽ですよ。
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やがて街道は右にカーブし、笛吹警察署北交差点、ファミリーマートを経て
甲運橋東詰交差点に出ます。時間は12時半、この先町を外れてゆくので
昼食処を探していたら、この交差点を左折したところにありました。
右の写真、テーラーゴルフウェアイワマツの1階にあります。
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今日の昼食は中華料理の大三元。こざっぱりとした4人がけのブースで
日替わりランチに餃子をつけ中生ジョッキをいただき天国へ来た気分です。
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