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立合橋を渡ると、すぐ国道に出ますが、その右側にあるのが、
鶴瀬関所跡、ここは口留番所
と呼ばれ、街道を行く物資や人を警戒していました。そのまま横断歩道を渡りましょう。
歓迎 歴史と自然のふるさと甲州市大和町」の看板の裏が旧甲州街道です。
看板の袂にあるのがこの鶴瀬地区の石碑と鶴瀬宿の標柱。
標柱には、「
江戸より第三十一宿、江戸へ三十里二十七丁、甲府へ五里一丁」と
あります。この場所が
鶴瀬本陣跡になります。鶴瀬の旧道は60m余りで終わってしまいます。


もちろん鶴瀬宿にも
問屋場があり、荷物の継立を行っていましたが、ここの問屋場は
通年営業ではなく、毎月1日〜20日までで、残りを駒飼宿が行っていました。
東海道のように大規模ではなかったのが甲州道中の問屋場です。
旧道のはずれには大きな
常夜灯が往時を物語っています。


ここから勝沼の市街地に入るまでは
国道20号線を行きます。左には中央自動車道が
大きく迫りますが、すぐに日川の対岸へと消えてゆきます。やがて崩落防止のコンクリートが
続きますが、その上を良く見ると昔使用していたの
国鉄のトンネルがそのまま残っていました。


曹洞宗鶴瀬山真竜寺の石柱を過ぎると、
石垣の上に
古跡血洗沢の標柱が現れます。
そこには「
この地は土屋惣蔵が、逃亡した
跡部大炊介を追尾して斬り、この沢で
血を洗い流したと言われています。
」と
書かれています。これは甲州崩れの
時、勝頼を裏切っ逃亡した跡部大炊介の
ことだと思いますが、近年では諏訪で戦死、もしくは
天目山で戦死した説が有力で、この標柱は
甲陽軍鑑に基づくものと思われます。

続いて現れた標柱は古跡鞍懸で、そこには
この地は、逃亡する長坂長閑が土屋惣蔵に
追われて落ちた鞍が路傍の桜の木にかかって
いた所と言われています。
」とあります。
ところがこれも
甲陽軍鑑からの引用で、近年では
最後まで勝頼に従って殉死した説が有力です。
いずれにせよ、武田家の終焉の地が近いこの
付近にはいろいろな伝説が残って面白い。
筆者は昔、勝頼の史跡を訪ねる旅をしたが
これらの古跡は見逃していました。

国道は、
洞門とトンネルに入ってゆきますが、洞門を抜けたら左の小径に入ってみましょう。
トンネルを迂回するその道は静かで歩きやすい道です。


小径の真ん中には、大和十二景にもなっている
長垣の吊り橋があります。
ぶどう畑の上を日川をこえ横吹と長垣を結ぶこの橋は、重要な通行路として
長い間使われてきました。車社会となった今では、利用する人も無く郷愁を感じます。


そんな長垣の
吊り橋とぶどう畑の標柱が国道と合流する場所に在ります。
真新しい洞門を抜けると、空が広くなります。もう甲府盆地に入って来ました。


東京から
117kmのポストを過ぎると、左側に妙なモニュメント
大和YAMATOとあるところから、ここが大和町の出口、いや入り口かな。


ちょっと広い交差点が現れました。
ここは
深沢入口交差点
いろいろと見所があるのでちょっと足を休めます。
トの字の交差点で、右へ入る道が深沢への道。
少し入ってみると右側に
東神願鳥居跡の案内板があります。


東神願鳥居跡

この地に大善寺境内の東境を示す鳥居が、
戦後まであった。甲州街道は鳥居の下を通り
慶応四年三月六日近藤勇率いる幕府軍は、
この鳥居前に大砲二門を据え本陣とし、
江戸へ向かう官軍を迎え撃った。
鳥居には激戦を物語る銃弾の跡が
生々しく刻まれていたと言う。


1868年3月6日、
甲州勝沼の戦いはこの地で火蓋を切った。
官軍は土佐の板垣退助を総督府として甲府に3000の兵を引き入れ待ち構える。
一方、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は300の兵が恐れをなして121人まで減っていました。
会津から援軍が来るというのも虚報で、近藤は兵を抑えることが出来ず、
結局、八王子まで敗走してしまい、江戸まで逃げ帰った。
鳥居の前に大砲二門と案内板にあったが、官軍は凄まじい数の大砲で攻めたのであろう。
剣の達人も、近代戦争の前に脆くも崩れ去っていったのが目に見えるようです。
そんな空しさ、悔しさが伺えるのが、この地にあった
近藤勇の石像です。



柏尾橋

明治十三年六月明治天皇の山梨御巡幸に際し、甲州街道の拡幅整備が進められた。
この時柏尾橋は、幅三間長さ十九間の欄干付き木造橋として掛け替えられた。橋は深沢の両岸の
岩盤中程から、二段の石垣を積み上げ橋台とし、下段の石垣からトラス構造の橋脚を両岸から
突き出し連結したもので、明治二六年の版画や大正初期の銅版画が残されている。
この明治橋の北側には、大正から昭和初期に掛け替えられた橋台、さらに江戸時代の橋台が
残っており、南には、平成八年、さらに下流の甲州街道以前の大善寺東参道の橋があった
位置に祗園橋が掛けられた。           勝沼町   教育委員会



大善寺の東参道が甲州街道以前にあったと書かれていますが、よほど信仰を
集めた寺が大善寺だったのでしょうか。ここから600mほどで柏尾の交差点。
その間にあるのが大善寺なのです。



ここ深沢交差点を右折し、800m行くと
トンネルワインカーヴがあります。
先ほど見てきた国鉄のトンネル、それを利用してワイン保管庫を作ったのは勝沼町。
この1100mのトンネルには勝沼町推薦の約170銘柄・約2万本のワインが眠ります。
あなたも個人オーナーになれるカーヴ、時間が許したら是非訪れてみては。


 国宝及び重要文化財

 
国宝 薬師堂 鎌倉時代弘安九年(1286年)
 国宝 厨子堂 
南朝時代文和四年(1355年)
 国の重要文化財 薬師三尊像 
平安時代初期(弘仁期)
 国の重要文化財 十二神将像 
鎌倉時代嘉禄三年(1227年)
 県の重要文化財 日光菩薩像
 県の重要文化財 月光菩薩像
 県の重要文化財 役行者像 
鎌倉時代
 県の重要文化財 鰐口 
鎌倉時代徳和二年(1307年)
 県の重要文化財 太刀 
室町時代寛永十九年 奉納名
 県の重要文化財 山門 
江戸時代寛政十年(1798年)
 県の史跡名勝   庭園 
江戸時代寛永年間
 県の重要文化財 古文書73点 
平安時代から江戸初期まで
 その他、町指定文化財多数あり      その他


大善寺に驚かされたのは、その看板。
国宝の宿 民宿 大善寺とあります。
お寺が民宿? とっても変です。

実は民宿とはありますがお寺さんなので
宿坊なんです。1泊2食付で6000円足らずで
泊まれます。お昼も10人以上で予約すると
精進料理が食べられます。
もちろんリサーチと人数不足の私たちは
ご相伴に預かることは出来ませんでした。

このお寺は別名
ぶどうといって
甲州ぶどうの発祥の寺です。
かなり昔の718年、お坊さんがこの付近で
修行をし、修行が明けた日、右手に
ぶどうを持った薬師如来が夢の中に
現れ、お坊さんは喜んでこの寺に
薬師如来像を刻みました。
そしてぶどうの作り方を村人に
教え、この地方にぶどう作りが
盛んになったと伝えられます。


ここは
柏尾の交差点。国道20号は、ここから勝沼バイパス〜甲府バイパスとなって
大きく左へカーブしてゆきます。旧甲州街道はそのまま真っ直ぐ甲府へ向かいます。
昭和52年(1977)までは、旧甲州街道が国道でした。中央自動車道がこの年
勝沼インター
まで開通したのを期に、この道は出来ました。その頃からドライバーをしている諸兄には
懐かしい交差点だと思います。そんな私も、良くこの道を走りました。
思う出とともに今日は旧道へと進みます。


旧道へ入るととたんに大きなぶどう園が軒を連ねます。しかしシーズンオフのためか
とても静かなたたずまいです。そんな道端右側に
国見坂の標柱が立っていました。
笹子から下ってきて、ここへ差し掛かると甲府盆地が一望に見渡せたのでしょう。


どっしりとした黒塀にモミジが映える素敵な建物が左側に現れました。
これは、ワイン民宿鈴木園で地下のワインセラーには30種1500本のワインが眠っています。
眺めもよく、料金もお手軽なので、奥方を連れ、のんびり訪れたい宿です。

勝沼氏家臣の屋敷跡を過ぎると、本日のゴール上行寺前交差点です。
ここには
勝沼氏館跡もありますが、史跡らしいものは案内板以外見当たりません。
ここでは、中央本線の駅まで1800mと遠いので、前もって携帯電話に登録しておいた
勝沼タクシーを呼び出し、ぶどうの丘にある天空の湯経由で帰路に着きました。

 
 国指定史跡 勝沼氏館跡
                                 昭和56年5月28日指定

  勝沼氏は武田信虎の弟信友、その子信元の家系である。その行動は、「妙法寺記」「甲陽軍艦」
 また石橋八幡、岩殿七社権現棟札等により知られる。勝沼氏は御親類衆として武田軍団の一翼を
 担っていたが永禄三年(1560)信玄により滅ぼされた。
  館は日川の断崖を利用して築かれているが、対岸を往時の往還が、また館のすぐ西を南北に
 鎌倉往還が通過、当時の交通の要衝であり、武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていた。
  館主体部は「甲斐国誌」「甲斐国古城跡志」によって御所の地に相当すること、二重の堀や太鼓
 櫓と呼ばれる高台のあることが早くから知られていた。また昭和45年には、古銭250枚が出土して
 いる。昭和48年県立ワインセンターの建設問題がきっかけとなり五か年にわたり山梨県教育委員会
 による発掘調査が行われた。その結果建物跡、門跡、水溜、溝、土塁、小鍛冶状遺構等が検出され
 たほか多くの遺物が出土した。遺跡は層序や溝、建物跡の重複関係によって三期にわたることが
 確認されている。内郭拡張の際土塁内側を削っているが、それに対応して外側に土塁を設けたこと
 が、外側土塁下の生活面によって確認されている。内郭の構造の変還のみならず、それが館の
 拡大と関連して把握することができる貴重な遺跡である。
  なお、御所北西には御蔵屋敷、奥屋敷、加賀屋敷、御厩屋敷、工匠屋敷、長遠寺(信友法名は長遠 
 寺殿)等の地名や泉勝院(信友夫人開基)があり、広大な領域に遺構が広がっている可能性もある。

    平成11年3月30日
                      勝沼町教育委員会



帰路立ち寄ったぶどうの丘より勝沼ぶどう郷駅を望む、
ぶどうの丘からは歩いても十数分という距離です。


左、天空の湯。右勝沼ぶどう郷駅
ここにはライブカメラがあり、勝沼駅方面と甲府盆地方面を見ることが出来ます。
現地の天気が気になる方は参考になるかもしれません。