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大月市の面積は280.3km2、人口は31、217人。人口密度は111人/km2。 これを平たく言えば、大月市民1人当たりが占有する土地は、2,730坪と言うことになります。 これを東京特別区(23区)に当てはめてみると、22坪になってしまいます。 もちろん、2,730坪の中には、市民が使えない山林が含まれていますが、 何となく、気持ちが豊かになるのではないでしょうか。 向こうから歩いてくる親子連れとすれ違って、そんな余裕を感じてしまいました。 ここは、JR大月駅前のさつき通商店街。駅を中心に国道と平行して500m程 続いている甲州街道が、そのまま商店街となった道です。 |
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写真左は、甲州道中と駅からの道が交差する場所。右の角には濱野屋があります。 濱野屋は、明治三十三年創業の旅館・食堂で、ここから富士山へ向かった冨士講の 宿泊場所となり、当時はたいそう賑わいました。そんな写真館が濱野屋のサイトにありました。 続いて、鍾馗様が看板を守っている木村屋菓子舗がその古さを感じさせます。 市役所に近い、大月二丁目の信号で国道20号へ合流します。 |
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国道を少し進むと、明治天皇御召換所址という石碑があります。 脇の碑文を読むと、明治十三年に一週間かけ山梨県視察した折り、ここにあった脇本陣溝口邸で お召し替えされたとあります。明治天皇の山梨行幸はこの一回のみで当時の様子が 書かれたこの碑文は貴重な資料と言えるでしょう。現代のフォントに無い文字が 使われているため、若干、原文との相違があることをお詫びいたします。 |
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やがて国道は、富士急上大月駅を左下に見ながら大月橋の東詰へやって来ます。 ここは富士道との追分けで、眼下には桂川がその行く手を遮っています。現代では 大月橋によって、簡単に対岸の花咲へ行かれますが、当時はここから右に折れ 急な坂道を桂川まで下って進みました。我々も40m戻って富士急の線路沿いに 右へ入り、JRの跨線橋を渡った所で左折し要害の地にある城塞のような 大月東中学校の前を通って対岸に向かいました。 |
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特急スーパーあずさを見送るおじいちゃんに抱かれた孫の姿が印象的でした。 本来の甲州道中は、この下流の橋と大月橋の間にあったと思われますが、 より、川面に近いこの小さな橋を渡って街道を進むことにしました。 |
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国道に合流し、すぐ左側に下花咲一里塚跡があります。ここは平成七年に付近に あった石仏を集め整備されましたが、一里塚という面影は全くなく少々残念です。 道路右側には大月市酪農組合花咲集乳所という建物があります。大月市で酪農? 調べると七保町奈良子字用沢という所に二軒だけ有るようですが、ここからは遠く この施設がいったい何なのか分かりません。どなたか教えてください。 |
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下花咲本陣星野家は、ファミリーレストランすかいらーくと藍屋挟まれていますが、 その風格から二つのレストランに負けていません。すかいらーくの看板の向こうに 見える旧家がそれですが、まるで洒落た和風レストランと見間違える程です。 |
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| 通用口土間より長戸、玄関の間 |
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| 説明を聞きます | 上段の間 | ||||||
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甲州道中に残る本陣は、日野・小原とこの下花咲の三ヶ所のみ、 こうしてその三ヶ所を見られたことは、甲州道中ウォーカーにとって幸いでした。 |
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本陣から360m、中央自動車道大月インターにはデニーズがあるので 昼食にはもってこいです。しかしおじさん軍団の我々は、そば屋を探して進みます。 JR発行の甲州古道ウォーキングパンフレットによると、本陣から200m進んだ西方寺橋を 渡り笹子川の対岸を進むことになりますが、我々は本来の甲州道中(国道20号)を進み 本陣から500mの地点で右の写真の面白い風景に遭遇しました。 ここはセレモホールはなさきさとう葬祭の40m先の場所で、国道から右へ入る道が 往時の甲州道中を思わせます。廿三夜碑が右側にあり、左には数十基の石碑が並び、 ここが甲州道中だとアピールしているようです。 しかしこの道は40m程で行き止まりになってしまいます。 |
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