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峠を越えると行く先には大きく中央自動車道が広がりました。談合坂SAへ1km。
あの左右のルートに分かれる看板も大きく見えます。

中央自動車道
中央自動車道は、1967年12月15日に調布〜八王子間が開通したのを皮切りに
翌年には相模湖まで、その次の年には河口湖まで開通。名古屋からは
1972年小牧ジャンクションから多治見まで開通し、75年には駒ヶ根まで来ました。
76年高井戸まで繋がり、東京から河口湖まで高速で行けるようになりました。
そして1982年11月10日、勝沼〜甲府昭和の開通を見て全線が開通。
2003年には上野原〜大月間が6車線になりました。
いまでは一日平均24万台の車が利用しており、収入は一日平均3億7千3百万円。
パパが若い頃は勝沼までしかなく、甲府バイパスから20号線でよく山や
スキーに出かけたものでした。今では渋滞が日常的、休日の帰りは小仏トンネルの
渋滞を覚悟しなければなりませんが、あの高い高架橋の上で渋滞していると
考えると、地震に遭わないかとても心配になります。


右側の高速道路に気を取られて歩いていると、つい見過ごしがちなのが
長峰峠跡です。道路左側が、小さな緑地のようになっている場所がそうです。
砦の説明板には以下のような記事が上野原町教育委員会によって書かれていました。
下の地図の左が東京方面、右が諏訪方面です。
甲州街道は、二度の中央自動車道工事でズタズタになってしまい、
かろうじて、この緑地の中に当時の往還が残っていることになります。
砦の中、車道から斜めに入って案内板の前を通り、
石碑の前を通って
車道に抜ける道が旧甲州街道です。


 
発掘調査された長峰砦跡

  長峰砦跡は、山梨県の東端部、上野原町大椚地区に所在した、やや小規模な 
 中世の山城跡です。この付近は戦国時代の終わり頃、甲斐と武蔵・相模とが国境 
 を接するところで、当時こうした国境地帯によく見られる、「境目の城」と呼ばれるも
 のの一つで、周辺のいくつかの城郭と結びつきを持ちながら、国境警護の役割を
 担ったものと考えられてきました。
 しかしそれがいつ頃、誰によってつくられたのか、どのような戦いの歴史があったの
 かなどについては不明な点が多く、また一九六〇年代後半の中央自動車道建設
 工事などによる影響のため、元の姿をよくとどめない状況になっていました。この
 ような中で一九九〇年代後半になって再びこの遺跡が中央自動車道拡幅工事の
 計画区域に取り込まれたため、工事に先立ち平成7・9・10年度の三年にわたって
 発掘調査が実施されました。
  調査の結果、戦国時代末の長峰砦に結びつくと考えられるものに、山地を整形
 して設けられた郭(見張り小屋などを置く平坦地)の跡、尾根を切断する堀(堀切)
 の跡、斜面を横に走る横堀の跡などがあり、とくに堀跡からは鉄砲の玉が出土し
 たことなど、いくつもの成果が得られています。また長峰と呼ばれるもとになった
 尾根状地形のやや下がった位置に尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が
 断続的に確認されました。これは江戸期の「甲州街道(正式には甲州道中)」に
 相当するものと見られるものでありました。
  長峰砦跡は、その歴史的な全体像を理解するには、すでに手がかりの多くが
 失われているものでありましたが、それでも発掘調査を通じて次のような歴史を
 とられることができるものと思われます。
  この長峰の地には、縄文時代以来の人々の何らかの活動の跡も断片的ながら
 確認され、ここが古くからの交通の要所であって、戦国時代にはこの周辺で甲斐
 の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われています。そこで交通を掌握し
 戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれました。
  その後、江戸時代になって砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州
 道中として整備され、ここを行き来する旅人は砦の時代を偲びながら通行して
 行きました。そうした歴史は現在の中央自動車道にひきつがれているものと
 いえましょう。
                                 上野原町教育委員会


この道は尾根を歩くように通っています。右が中央自動車道、左は眼下に
オリムピックカントリーのグリーンが見え、その向こうに中央本線四方津駅から
エスカレータが延びた住宅地コモアしおつが望めます。
ここは1987年に着工し、1991年から販売が始まり1610戸6000人が住む
標高340mの住宅地。当時はこんな田舎に大規模な永住用住居なんて
初めてだったので、ビックリ。国道20号を走っていて大きなガラスの
筒が駅から山の上に延びているのには驚きました。


野田尻への道は、中央自動車道をくぐるのではなく、横断橋で上空を進みます。
最初に現れた橋がそうで、道路左側には
野田尻宿への案内板が2枚有りました。
ここで高速道路を渡り、野田尻宿へ向かいましょう。


中央自動車道を横断すると道は高速に沿って緩やかに下ります。
右に直角に折れてゆくと暗い切り通しを抜け野田尻の集落へと
入って行きます。車のいない道は子供達の天国。
東京では考えられない風景がそこには有りました。


野田尻宿は、正徳3年(1713)集落起立の状態で宿を構成した。
天保14年(1842)には、本陣1、脇本陣1、旅籠は大2、中3、小4計9の
小さな宿場であった。蔦屋・紺屋・中田屋・酒屋・鶴屋・万屋など現在も
昔の屋号が残っている。もちろん職業は違っている。
お玉ヶ井にまつわる伝説は、その昔、旅籠「恵比寿屋」で働く美しい
女中「お玉」にまつわる恋物語で、念願の恋が実ったお礼にと、
水不足に悩む野田尻の一角に、澄んだ水をこんこんと沸き出させた
と言う・なんとお玉の正体は「竜」で長峰の池の主「竜神」と結ばれたと
言われている。熊埜山西光寺は、天長元年(924)真言宗として
創立した歴史ある寺院である。鎌倉時代に建長寺第9世管長智覚禅師を
勧請開山として、臨済宗に転宗した由緒ある寺院である。

上野原町教育委員会


しっかりした街道の町並みが残るこの宿場には、長閑な時間が過ぎます。
右を見ても左を見ても誰もいません。もちろんコンビニも無く、自動販売機が
いつ来るか分からない客を待ちます。中山道や東海道では、折角の屋号を
大切に各戸に掲げている街もありましたが、ここにはそんな気負いも有りません。
ただ静かに時間が流れるだけの心和む佇まいが我々を迎えてくれました。

 
実はこの宿場、中央自動車道の下り
談合坂SAと隣接しているのです。
サービスエリアから見ると、その存在は全く見られません。
真ん中の写真煙突のように見えるのがサービスエリアの照明塔です。
そもそも談合坂という坂は何処にあったのでしょう。中央自動車道に
同じく渋滞で有名な中野トンネルというのが有り、これは付近の字名から
取ったと思われるのですが、談合坂は見あたりません。
きっと道路公団に歴史好きな方がいて、このサービスエリアの名前を
付けたときに謎をかけたのかなと思ってしまいました。
サイトで調べてみると、この付近の寄り合い場所だったとか、北条氏と武田氏の
交渉の場所であった等と言った説が有力のようですが分かりません。
株式会社
和智組の前では、付近で採れたキノコを洗うおばちゃんが
いました。この場所から90mで中央自動車道上り線なのですが
そんな社会とは隔絶された時間が静かに流れる宿場でした。


宿場の外れには宿場を表す石碑が建てられていました。隣には案内板があり
向かいの
犬嶋神社の手前、簡易郵便局と駐在所にある明治天皇御小休所跡
本陣跡だったことを伝えています。さしずめこの碑のある家は脇本陣と
言ったところでしょうか。いずれにしても古い家は残っていないので
確かめるには住人に聞くしかないと、前述のキノコのおばちゃんに聞いて
みましたが、はっきりした答えをいただけませんでした。


犬嶋神社に入って休憩です。ここの本殿にも祭典総理の看板がありました。
真新しいところを見るとこの地域では毎年総理を選んで祭りを仕切るようです。
またこの神社の特徴に左の舞台のような造りの建物があります。
八坂神社のような舞台とも違うのですが、中に何かあるわけではなく
物置のような使われ方をしていますが、目的は明らかに違うようです。
一本の大木を使った正面の鴨居には圧倒されます。
我々の他にも若き甲州道中ウォーカーが休憩していました。
トイレも有り、手前の自動販売機で飲み物を買って休憩するには
よい木陰とU字溝を逆さまにしたよいベンチがあります。