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8月・9月は、なかなか予定が揃わず、旅に出来ることが出来ませんでした。
久々の甲州街道は、快晴で湿度の低い絶好の街道歩き日和。
しかし今回の行程は、舗装路にもかかわらず、高低差の大きな難所。
頑張ったのは、我々だけでは有りません、多くの甲州街道ウォーカーと出会いました。
 

藤野駅前を過ぎると、国道はJR中央本線を左から右へ橋で越えてゆきます。
車で国道を走っていても印象的な場所で、目の前に大きな空が広がります。



線路をまたぐと、右側上空に中央自動車道が迫ってきます。この場所は70mの幅の中に
国道20号、中央本線、中央自動車道が犇めきあうところ、歩道が無かったら怖いぞ!と
思っていたら、中央自動車道の橋脚の中を進む歩道があり、安心して歩けます。
左側には
相模湖藤野ダイヤモンドマンションが、後ろはちょっとうるさそうですが、南側は
眼下に相模湖を見下ろす絶景のマンションです。高速道路下が終わると歩道橋を渡り
国道へと降りてゆきます。次の目標のために右側を進みましょう。

 

ひっそりとした
関野宿には、特に目を引くようなものは残っておりませんでした。
その町外れには
増珠寺があり、力士の話が載った案内板が有ります。


  力士追手風喜太郎

  追手風喜太郎は、寛政十一年(1799年)甲州街道沿いの当地関野に生まれ、幼名を「松次郎」と言いました。
 その生家は、現在もこの寺近くにあり、佐藤博文氏が当主として守っております。
  松次郎が力士への道を歩むようになったのは、九歳の時、同郷出身の力士で叔父にあたる「追手風小太郎」
 が長崎巡業の折り、松次郎の家に立ち寄ったことから始まります。この時、松次郎は親の止めるのも聞き入
 れず小太郎の後を追い弟子入りしました。力士としての仲間入りをしてからは、松五郎とも呼ばれ、文政三年  
 (1820年)春場所には西三段目の下から二枚目となり、シコ名も「黒柳」と改めました。文政十二年には前頭
 筆頭となり、黒柳の名を「往右衛門」と改め、さらに天保二年(1831年)春場所からは「追手風」としました。
 その後、小結・関脇とすすみ天保七年には西大関と据り、同一〇年には土俵を退いたとのことです。
  土俵を退いてからの追手風は、年寄となり相撲会所の要職に着くと共に、門下からは多くの名力士を出しま
 した。また、敬神祟祖の念に厚く、竜渕山増珠寺には五具足・燭台などを寄贈し、氏神の三柱神社には、青龍・
 白虎・朱雀・玄武の四神の幡(写真)を献納しました。
  この「安昌久全信士」の碑は、文政一二年一一月二五日喜太郎の手により建立されたもので、追手風小太
 郎の碑であります。また、佐藤家の墓地には、昭和四六年建立された追手風喜太郎と弟子の横綱雲竜久吉の
 碑が建てられています。

          昭和六一年二月          藤野町教育委員会


この追手風の年寄名跡は現在11代目として続いています。
曙・貴闘力・若花田と共に入幕した元立浪部屋の力士、
大翔山が1998年から追手風親方として部屋を構えています。
あのグルジア出身の小結「
黒海」は、この部屋で活躍している一人です。
追手風喜太郎は四代目と言うことですから、相撲の世界の深さには感服します。


小淵小学校の下を過ぎると、上野原へ3km、大月へ23km、甲府まで64kmの道路標識が
迎えてくれます。旧道はどうやら小淵小学校前へ登って行き
三柱神社前を通り川を渡る
道筋らしいのですが、そこまで進んでも現在は川を渡る道がないので、ここは国道を進みます。
明泉学園相模湖セミナーハウスを過ぎると名倉入口の信号が現れます。ここで左下へ
下って行くのが甲州道中。民家の犬に注意して急な坂を下って行きましょう。



下りきった所に架かる橋が
境沢橋。現在は神奈川県藤野町と山梨県上野原市の県境ですが
昔は相模の国と甲州の国境でした。そうは感じないほどの小さな橋を渡ると。相模湖を渡る
大きな堤川橋が有ります。この日はワカサギ釣りの人達で橋の上は大賑わい。
形は小さいものの、見ている間にもつり上げる人が何人もいます。甲州街道は
この橋を渡らず、
Uターンするようにいろは坂のような急坂を登って行きましょう。


60m程の標高差を3回のターンを繰り返し車道を登って行くと、眼下に相模湖の湖面が
見えてきます。正面には先ほど通ってきたマンションが直線で1150mの所に見えます。
いよいよ東京都・神奈川県ともお別れ、山梨県へと道は進んで行きます。


坂を登りきろうとする最後の右カーブの内側に諏訪番所跡を発見。
これは境川番所・境川口留番所とも言われ、通行取り締まり、物資出入り調べ
高瀬舟取り締まりと徴税、鶴川渡し場取り締まり、通行手形改めなどを10名の
役人で行っていました。明治4年に廃止となりましたが、明治13年には天皇巡幸の
折り、小休所となったことから、この番所跡の裏手にある自動車学校用地も
番所敷地の一部なのかと想いを巡らせ通過しました。
また、道の反対側には
甲州街道史跡案内図があり漫画チックで面白いので
興味のある人はマウスをクリックすると、拡大図が現れるのでご利用下さい。



直線距離なら130mの所を600mもかけて登ってきた先には、上野原自動車教習所が有ります。
教習所を出てもう30年になるベテランですが、教習所を見ると何となくドキドキするのは
私だけでしょうか。上野原は人口が少ないのか主流は合宿教習。都会からの客を安い料金で
引きつけます。ここでは23万円で免許が取れます。ちなみに私の出た教習所の料金は31.5万円。
随分差があるようです。学生さんはここへ来て合宿で免許を取得するのが良いかもしれませんね。
この日の教習は二輪車だけのようで、広いコースに三台の自動二輪がのんびり教習を受けていました。
教習所の先には、懇々と水をたたえる
用水路があり、山里の水の豊かさを感じます。


教習所から500m程進むと、左側に大きな木があり、その木陰は
自動販売機天国
飲み物だけで100種類以上、たばこも100種類はあり、アイスクリームも10種類ある。
ベンチと灰皿も用意された街道ウォーカー天国かも知れません。
向かいには
廿三夜塔が神社の境内に建っています。
これからも数多く出てくるこの石塔は、陰暦23日の夜、講中が集まり、飲食を共にして
願い事を叶えるために月の出を街ちをした場所。全国各地に存在する石塔です。


自動販売機天国の前は、諏訪神社。巨大な杉が五本並んで迎えてくれます。
しかし本殿に行くと、そこには古郡神社とあります。一体どうなっているのでしょう。
実は、昔この辺りを支配していたのが古郡氏でその古郡氏が建てたのが諏訪神社
ということで、社殿の額はそのために古郡とあるようです。
ともかく我々が驚いたのは社殿に食い込むように並ぶ杉の巨木。
そりゃ中山道・大湫の杉に比べれば細いが、並木になっているのが圧巻でした。


この辺りは、台地が狭くなり左側にはトウモロコシを干した田園風景の下には
JR上野原駅が、右側は
甲州街道の石碑がありその隣には「交通安全」とか
「少子化は国力の低下につながる」「愛・結婚」「世の中が丸く明るくなるように」などと
書かれたトーテムポールのような
飾り柱が並び、その向こう側の崖下に国道20号が走る。

諏訪神社から470m、中央自動車道が旧甲州街道の下を走る。
そのすぐ先には
疱瘡神社、奈良ではくさ神さまと呼ばれる疱瘡(水疱瘡から天然痘)
の神様を祀った神社。くさは瘡のことで、皮膚病の総称、または梅毒の総称とも言われる。
きっと天然痘や梅毒に悩まされた人々の切実な信仰を集めたに違いない。
また、ここは
塚場一里塚跡で日本橋から18里の塚があった場所です。