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前ページのやました生花は相模原市相模湖町で、260m登ると、小さな峠になり、
その峠を越えると藤野町に入ります。この辺りは国道から離れ、交通量のない静かな
街道歩きを楽しめる場所で、季節の良いときには、道ばたの草に腰を下ろし
お弁当を広げるには良い場所です。 |
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これが甲州街道であるという、安心感を与えてくれるのはこんな道標を過ぎ、
道を回り込んでゆくと正面にカラフルな家並みが現れました。
ここで街道は左に折れることになりますので、カラフルな家を覚えて置いてください。 |
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そのカラフルな家の下にはボディーショップファミリーオートという板金屋さんが
あります。その先を左に降りる道が甲州街道、道は太く真っ直ぐなので
思わず赤い道をそのまま進んでしまいそうになりますが、見えにくい黄色の道を
探して左へ降りてゆきましょう。 |
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220mほどで、橋が現れ、下を見ると中央自動車道の相模湖インター上空と分かります。
東京から来た車がインターを降りる分岐点の真上にある歩道橋が甲州街道だったのです。
ヤマユリの咲く道を、更に下って行きましょう。 |
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高速道路を越え下ってきた道が右にカーブし、今度は左にカーブしますが、
その手前、こんな農道のような草の道が甲州道中。畑へ入る道のようですが
この道が観福寺を迂回する長い車道を避け、真っ直ぐ下る本来の道。
間違って車道を行っても260m長くなるだけですが、観福寺正面の道を
甲州街道と間違え下ってしまうと言う危険があります。 |
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農道は120mで再び観福寺を回ってきた車道に合流します。
農道に入ってすぐ右下に中央本線のトンネルが見えたら正解です。
車道に合流したら右に進みます。 |
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目の前に上下水道工事の小山設備がある道へ進みます。程なく石碑群が現れ
その一つに蚕影山と書かれた大きな石碑が見られます。蚕影(こかげ)山は、
カイコの神で茨城県の蚕影大権現を祀ったものです。山地で水田による収穫が
乏しかったこの地方に養蚕が栄えたのは江戸中期以降、明治になると天秤棒で
生糸を担ぎ横浜まで出荷し、巨万の富を得たものもいるとか。そんな養蚕も
昭和50年代には廃れ、こうして当時の信仰の対象だけがひっそりと残ります。
続いて、手作り家具の工房Do楽があります。趣味で作った家具を販売する店。
いろいろと面白い作品の家具が、写真でのカタログになって紹介されています。 |
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先ほど見下ろしていた相模湖ローヤルを、今度は見上げる場所に来ました。
建物の後ろの道を我々は進んできたことが、この位置からよく分かります。 |
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また歩道橋の上に、下を覗くと今度は相模湖インターからの道が国道へ合流する
交差点の真上に出たようです。休日には大渋滞するこの交差点も、こうして
見下ろすことは初めてなので、何とも不思議な感じがします。 |
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最後の急坂を100mも下れば、国道20号の吉野へ出ます。もちろん、ここは右に曲がって下さい。
すぐセブンイレブンが出てくるので、休憩や飲み物でも飲んで資料館へ向かいましょう。 |
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吉野大火の後、明治30年に建てられた旅籠「藤屋」が現在の藤野町郷土資料館です。
開館は、10時〜16時、月曜と木曜が休館日、是非時間を合わせ見学したい場所です。 |
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国道を挟んだ資料館の向かい側は本陣跡です。本陣は江戸末期に計画され
明治9年に完成した五層楼を含む壮大なもので、現存の土蔵を囲むようにして
建てられていました。しかし明治29年の吉野大火で焼失、唯一土蔵だけが残りました。
吉野大火は暮れも押し詰まった12月29日19時30分に出火し、折からの強風に煽られ
瞬く間に全町を火の海と化しました。焼失家屋135戸、郵便局、村役場、小学校、
駐在所、病院と町の主要施設を焼き尽くす記録的な大火でした。 |
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この模型は、明治10年頃の吉野宿を当時の写真・資料、土地の古老からの聞き取り調査
などで再現したものです。町並みはもちろん建物の細部に至っても忠実に再現されています。
吉野宿に続く関野宿へ向かう宿の出口には沢井川が流れ川面まで19mの高さと急流のため
川中に柱を建てることが出来ず、両側よりの刎出し木による難工事によって小猿橋は
架けられました。大月の猿橋に似ていることから名付けられたものです。
この小猿橋は10年ごとに板を葺き替え、20年ごとに架け替えるというお金のかかる橋で、
当初は全て公儀の費用で賄われていましたが、年々その費用が減少し、物価高も影響し
300〜500両のの赤字となってしまいました。そこで宿場の人々は費用捻出のため
飯盛旅籠の設置を願い出ることになったのです。 |
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山深い吉野では、養蚕と炭焼きが現金収入の道でした。山の傾斜地に桑畑を開墾し
カイコを飼育し繭を生産しました。良質の繭は津久井の中野や上野原に売られ
川和織、甲斐絹として横浜や東京に出荷されました。また、商品にならない繭は
自宅で紡ぎ売らなければなりませんでした。そんな養蚕の道具は二階に展示してあり
群馬県の養蚕農家が母の実家であった私にとって、とても懐かしい想いが溢れます。
本陣側からふじ屋を眺めると、こうなります。その向こうは相模湖で夏は湖面からの
涼しい風が部屋を抜け、気持ちの良い旅籠だったと伝えられています。 |
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| 小猿橋、新猿橋に続いて架けられたのは吉野橋。我々もこの橋を渡って関野へ向かいます。 |
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吉野橋上から沢井川上流を眺めた写真。この辺りに新猿橋は有ったのでしょうか、
小猿橋への道も踏み跡程度に残っていますが、相模湖の水面が行く手を遮ります。
この湖水より、下に当時の街道は通っていました。橋を渡り吉野ポンプ場の先、左に
中華料理の福龍が有るところを、右へ国道と離れ登って行くのが甲州街道。
入口右側は日立の電気屋さんになっているから、目標としてください。
この旧道は藤野中学校の前を通る420m程の短い旧道で、すぐ国道へ戻ってしまいます。 |
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ガソリンスタンドのところで国道へ戻ったら、あとは藤野駅まで国道歩き。
日連入口交差点では青根・牧野への道を分け、藤野町役場前を過ぎればゴールは近い。 |
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中央自動車道を走っていると良く目にする巨大なラブレター。
これは一体何だろうと、お悩みの諸氏も多いと思います。それではその正体を。
ここ藤野町は施策としてふるさと芸術村構想を掲げています。
それは、昭和19年の疎開に始まります。その疎開者には画家・美術評論家・小説家
オペラ歌手などの芸術家が多かった事が関係しました。
その一環としての屋外アートがこの高橋政行氏作「緑のラブレター」
金属造形のアーティストである氏は、現在も藤野町牧野に在住し、陶人形作家の
奥様と精力的な活動を繰り広げています。
そんな芸術に思いをはせていると藤野駅はもうすぐ。今日の旅はここで終わります。 |