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国道20号とは、いよいよお別れです。これからはハイキングコースのような道。
足下を固めて旅立ってください。我々も今までのウォーキングシューズから
軽登山靴に履き替えて出発です。今年、関東地方の梅雨明けは、大幅に遅れて
8月上旬。この日の前後は連日の雨、その合間を縫って晴れることは
有りませんでしたが、何とか一日雨には降られず、気温も23度と低めで
湿度こそ高かったものの無事藤野まで歩くことが出来ました。


今日は、京王線で高尾駅までやって来ました。甲州街道が有るのはJR高尾駅北口、
連絡通路を渡ってJR改札口から外へ出ます。こんな天気でもハイカーが多く。
我々と同様駅での待ち合わせのためか、ハイキングスタイルの人達が大勢います。
街道ウォーカーとハイカーは、微妙にスタイルの違いがあることに気が付きました。
荷物の大きさです。同じデイバックでも、我々は20リットルですが、彼らのは30は
有ります。荷物が少ないのは、体力のなさからなのでしょうか?

駅前から少し行くと魚屋さんが有ります。そこではご主人が店前の舗道で七輪の
火を起こすのに夢中でした。ガラスケースを覗くとウナギの串刺しが山のようにあります。
そう言えば明日は
土用の丑。ウナギの旬は脂ののった冬ですが、夏にウナギが
売れなくて困っていた鰻屋の相談に乗った平賀源内が丑の日は「う」がつくものを
食べると夏バテしないという民間伝承からヒントを得て、鰻キャンペーンを張り
成功したことから全国に広まったと言われています。
51kmのポストを過ぎると、JR中央本線と国道20号線が南浅川を渡る両界橋です。
この先で国道は大垂水峠へと向かい、旧甲州街道は小仏峠へと向かいます。1888年までは
小仏峠が甲州街道だったのですが、車両の通行できる道が望ましいと言うことで廃止になりました。
しかし、現在では中央自動車道が小仏を越え新甲州街道として峠は復活しました。
両界橋の下には、江戸時代獅子淵と呼ばれた古淵があります。右側の建物は
草土水房と言って、大正12年から14年まで毎週日曜日に隣人学園が開かれました。
開いたのは、大菩薩峠を著した
中里介山です。羽村の水車小屋で生まれ、
貧しい中を、電話交換手、代用教員、教員、新聞社と進み、大菩薩峠執筆後は
新聞社を退社し執筆活動に専念するため、ここ高尾にやって来ました。
しかし、ケーブルカー架設工事によりその夢は破れ、奥多摩へと去ります。
その3年間、地域の子供達を集め教育した彼の夢とは何だったのでしょう。
西浅川の交差点で、いよいよ国道とお別れです。角には最後のコンビニとなる
木村屋酒店のポプラがあります。飲み物やお弁当を忘れた人は是非立ち寄りましょう。
交差点を
右折すれば小仏への旧道、次に国道へ出るのは9km先の底沢になります。
その間は、店も無い山道となるので覚悟を決めて進んで下さい。
右折して260m進んだ場所に写真のような煉瓦造りの建物が現れたら正解です。
これは
駒木野病院。ここから裏高尾町に入りました。

駒木野病院を過ぎ140mで小仏関跡です。建物こそ取り壊されてしまいましたが、
敷地は当時のままで、古地図と見比べるとその概要がよく分かります。
戦国時代には小仏峠にその関所はあり、富士見関と呼ばれていました。
武田・今川・織田氏が滅ぶと関所は麓に移され、北条氏の滅亡により徳川幕府の
重要な関所としてこの地に移されました。この関所の通過は午前六時から午後六時で
老中が発行した鉄砲手形、名主が発行した町人手形などが無ければ、通れません。
この手形を番所の前の
手形石に置き、手付き石に両手を並べ通行の許しを乞うたと言います。
しかし、地元の民は下番を交代でしていたこともあり、比較的自由に通行できました。
明治2年1月、太政官布告により廃止されました。またここには
駒木野宿の碑が有ります。
関所を抜け、300m程行くと緩やかな下り坂、その左に石碑が並び、ここが甲州街道念珠坂
有ることを教えてくれます。更に200m行くと、今度は右側のフェンスに
上長房分校の文字が、
フェンスの中を覗くと、とても可愛らしい学校がありました。この分校は八王子市立浅川小学校
分校で、東京最後の分校ですが、来年の春には休校となってしまいます。サイトを見ると
まだ低学年の児童もいるようですが、その子たちもバスで高尾の本校へ通うのでしょうか。
こんな素晴らしい環境の中で育つ子供達は、どんな感性を培うのでしょうか。
分校のあった荒井バス停から蛇滝口バス停へ向かいます。その間は300mですが、
中央自動車道の圏央道
ジャンクションが見えてきます。また左側には用水が流れ、そこへ
降りてゆく階段の橋がいくつか現れます。道ばたには無造作に置かれた
塩化カルシウムが、東京なのに雪が降ることを物語っています。
高尾山の守護神である天狗が怒っている圏央道反対の看板は迫力があります。
利用者には便利な道も、住民には迷惑な話なのですね。

ここが蛇滝口のバス停です。ここには見所があるのでちょっと寄り道しましょう。
ロールオーバーが機能しないブラウザでご覧の方は、マウスを写真に置いても
画面は変化しませんが、この写真の下には他に4枚の写真が隠れています。
左上:バス停際にあった
水場です。中山道木曽路以来の本格的水場、とても美味しい水です。
左下:水場の隣には家紋と名前の書かれた札が沢山並ぶ
不思議な建物が有りました。
右上:
いのはな慰霊碑の案内板です。この地図を頼りに慰霊碑まで登ってみます。
右下:慰霊碑に向かう
中央本線の踏切、頭上には圏央道ジャンクションがそびえます。

  慰霊の碑

 終戦間近の昭和二十年(1945)八月五日 真夏の太陽が照りつける午後十二時二十分頃
 満員の新宿発長野行四一九列車が いのはなトンネル東側入口に差しかかった時 米軍
 戦闘機P51一機または三機の銃撃を受け 五十二名以上の方々が死没し 百三十三名の
 方々が重軽傷を負いました この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています 私どもは
 この戦争の惨禍を決して忘れることができません ここに確認された犠牲者のお名前を書き 
 とどめ ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ 現在の平和の日々をかみしめ戦争
 を知らない世代へこのことを語り伝えます。
     平成四年八月五日         いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会
 

この場所で、そんな大変な事件が起こったとは思えない静かなトンネルの佇まい。
このトンネルも現在上り線に使われていますが、当時は単線、八両編成の列車の
機関車と一両目がどうにかトンネルに入ったところを襲われました。
当日は八王子空襲で不通だった中央本線が三日ぶりに全面開通し、長野へ
向かう客で、車両からはみ出るほど満員の人々でごった返していました
銃撃の1時間前、浅川駅(現高尾駅)で空襲警報が鳴り響き、乗客が早く出せと
駅員にくってかかる中、せめて小仏トンネルまで行けば大丈夫と列車は発車
しました。しかし高尾の山に米軍機が現れた瞬間、凄まじい銃撃が始まったのです。
列車は二両目の途中までトンネルに入ったところで止まってしまいます。
犠牲者の年齢を見ると、下は五才から上は七十才まで、十代が10名も
数えられます。女性の名前も10名見つかり、そのほとんどが民間人だと
言うことが分かります。中央本線には幾度と無く乗った私ですが、
この話は、甲州街道を歩くまで知りませんでした。これからはここを通るとき
亡くなった方々の冥福を祈らずにはいられません。
 
すっかり悲しくなってしまった我々は、先へ進みます。急に景色が開けた場所は
圏央道が相模原方面へ延びるための
ジャンクション用地、反対の看板が目立ちます。
正面に見えてきた白い建物は老人ホームの
むつみの園
法人ホームの入口が本当の蛇滝口で、ここで左折し、740m山へ入って行くと
蛇滝があります。そこには青龍大権現が祀られ水行道場となっています。
角には食料品・青果・雑貨の店
峰尾功商店が有りますが、この日は休みでした。
尾根を回り込んだ先、川の対岸に子供達の歓声が響きます。なんだ?と思って
看板を見ると、エスオーエスこどもの村とありました。保護者のいない児童、
虐待を受けている児童達が、健やかに逞しく育つように出来た施設で、36名の児童と
22名の職員が暮らしています。ボクたちのように両親と中山道を旅できる子供は
きっと幸せなんだと感じさせる子供達の歓声でした。
山間の道にジャンクションの高い高速道路がそびえ、その下に忽然と現れたのは
何とお豆腐屋さん。
するさしの豆腐を製造販売するのは峰尾豆腐店です。
寄せ豆腐やおからドーナツが人気で、高尾山ハイキングの帰りにわざわざ寄る人も
多いそうです。京王線の車内広告「スケッチ&スナップ京王紀行」で紹介され
有名になりました。旅人が休める椅子があると助かると思ったら向かいの駐車場に
石で出来た椅子とテーブルが、天気の良い日は、ここで寄せ豆腐でもいただきましょう。

するさしって何?と思ったら目の前に摺差というバス停。なるほど、これを
するさしと読むんだな!妙に納得すると椅子のある駐車場の裏には
清流が、
豆腐造りには、良質の水が欠かせないことから、ここ裏高尾の水で作られて
いるのでしょう。駐車場には豆腐を作る昔の
機械がモニュメントのように置かれます。