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中央自動車道を頻繁に利用する筆者は、都内に戻るとき共立女子大を
ひとつの目安として運転している。笹子トンネルを越え、山間の曲がりくねった
道を緩やかに下り続け、渋滞が発生する小仏トンネルをくぐり、正面の丘の上に
共立女子大の建物群が見えると、もうこれで山岳道路は終わり、平坦な道、
帰ってきたんだと一安心するポイントなのだ。その共立大の右側をこうして
甲州道中があったことは、この地図を作製して初めて気が付く。
今度、中央自動車道で帰ってきたときは、再び甲州道中を思い出すであろう。
いよいよ八王子宿も終わりという場所に追分はあります。歩道橋の上に登ってみれば
右に
陣馬街道、左に甲州街道と道が分かれてゆく様子が一目瞭然。今日は甲州街道へ
進むのですが、その真ん中にある名所に立ち寄りたい我々は、この歩道橋を右に降り、
更に先の歩道橋を使って真ん中へと進みました。八王子市の天延記念物である
銀杏並木は、ここから始まることがよく分かるポイントです。中央の高いマンションが
なければ、奥多摩の山々も近くに見えるはずです。
追分の真ん中には奇妙な追分道標立っています。この道標は文化八年(1811)江戸の
足袋職人清八が高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に建てたもので、新宿、八王子、
高尾山麓小名路の三箇所にあります。その後大和田橋で紹介した太平洋戦争の
八王子空襲(1945.8.2)のとき四つに折れて一部が行方不明となってしまいました。
一番下の部分だけこの付近に置かれ、残りは郷土資料館に展示されていたのですが
平成十五年五月、地元の要望を受けこの場所に復元されました。ピンク色の部分が
当時からのもので、緑色の部分を新たに製作して原型を復活させました。

追分道標から陣馬街道を少し進んだ場所に八王子千人同心屋敷跡記念碑があります。
千人同心とは、この付近に住んでいた半農半武の武士集団で、元々は甲斐武田の
家臣達で、天正十年(1582)武田家が滅び、織田信長が本能寺で倒れた後、家康が
甲斐を治めた時に九人の小人頭を取り立て、甲州の国境九箇所を守る奉行に7しました。
天正十八年、八王子城落城後は、元八王子に小人頭と小人(同心)250名を落城後の
警備に当たらせ、その後北条の浪人を加え500人に膨らみ、大久保長安が代官に
なると、元八王子からこの千人町に移転し同心も1000人になり江戸の西の警護に
当たるようになりました。千人同心と言ってもこの町に千人住んでいたのではなく
周辺の村々に散らばっており、その範囲は、三鷹市、川崎市登戸、相模原市、津久井郡
飯能市とかなり広域になります。関ヶ原の戦いや、大阪冬の陣、夏の陣と武士集団として
出兵しましたが、泰平の世になりその公務は
日光火の番といって東照宮の警備を
行い、50人が半年交代で216年間に1030回におよびました。
その後千人同心は北海道の開拓を行ったり、幕末には横浜を警護したりと
活躍し、最後は徳川とともに駿府に移住してゆきましたが、後に暇を乞い
故郷の村々に帰り農業に従事していったと伝えられます。

すっかり話が長くなってしまいましたが、歩を進めることにしましょう。西八王子駅前を
過ぎ、
馬場横丁の標注を右に見ると、長房団地入口の交差点に出ます。追分から1250mの
ところで、旧甲州道中はこの信号を右折します。今でこそ国道20号は一直線に高尾へ
向かっていますが、甲州道中は田んぼの中をうねうねと曲がりくねりながら進んでいたので
現在のこの右折は少し不自然な気がします。横断歩道を渡ってから黄色の方へ進みます。
右折してすぐ左に二基の石碑が建っています。左側は道標で右高尾山マデ一里半
左真覚寺マデ八丁と読めます。右側の石碑はイラストが描いてあり興味深いものです。
昭和二年に新道(国道20号)が出来て路が真っ直ぐになったときの様子が描かれています。
当時この枡形には砂川屋、地蔵堂、まんじゅ屋、新角屋などが有ったことを語っています。
また、左の道標よりかなり立派な石垣の上にのった石碑が描かれていますが
この道標の前身のものなのか、また空襲で折れて上の部分だけをここに再配置
したのかは分かりません。是非教えていただきたいものです。
石碑を見終わったら、すぐ隣の信号を左折し、斜めに国道へと向かいます。
330mで再び20号へ出ました。出たところの正面には
長安寺があります。
急勾配の屋根の上には徳川の紋である葵の御紋が二つ。草創は寛永三年(1626)の
この寺を語る前に、まずは
大久保長安について語らねばならない。
大久保長安は八王子宿を整備することに尽力した人物だが、その権勢は徳川幕府に置いて
かなり大きなものがありました。そもそも武田の家臣で大蔵藤十郎が当時の名、
猿楽師として使えたが、経済に関する優れた才能を認められ、武田の金山開発を
任されていました。徳川に使えてからは名を大久保に改め、石見銀山、佐渡金山開発に
能力を発揮し、また五街道の一里塚を整えたのも彼の功績と言われています。
天下の総代官と呼ばれた彼でしたが慶長十八年(1613)卒中のため死去。
しかし、その後本多正信の陰謀により、金山における不正蓄財が発覚し一族処罰を
受け、長安も罪人であるがため葬儀を禁止されました。この寺の草創が1626、
つまり十三回忌の年に、この寺は建てられことになります。どういう経緯で
葵の御紋
許され寺を建てられたのか非常に興味深いものです。
思いは大久保長安で国道をひたすら行くと、目が覚めるような建物が、
これは
高尾警察署でモダンな建築に驚かされました。そこから少し行くと
武蔵陵墓地参道の石碑があり、800m入ると
多摩御陵へと続きます。多摩御陵と
言う呼び名は昭和天皇陵築造以前の呼称で現在は武蔵陵墓地が正式名称です。
ここには、大正天皇陵(多摩陵たまのみささぎ)、貞明皇后陵(多摩東陵)、
昭和天皇陵(武蔵野陵)、香淳皇后陵(武蔵野東陵)の四つの陵墓があります。
陵墓の内、陵(みささぎ)は天皇、皇后、太皇太后、皇太后。それ以外の皇族は墓に
なり、現在宮内庁で管理しているものは北は山形から南は鹿児島まで458箇所あります。
では、旧街道でお馴染みの明治天皇は何処に埋葬されたのでしょう。
父、孝明天皇までの歴代天皇は京都東山の泉涌寺ですが、、どちらでもない京都の
伏見桃山陵が選ばれています。母は豊島岡墓地と親子別々葬られた経緯も興味深いものです。
多摩御陵入口の交差点から130m行くと、多摩御陵西の信号で国道の右側に旧道への
入口が現れます。この日最後の旧道は御陵の麓に沿って670m続きます。
旧道内には粋な黒塀見越しの松のお宅が続き、千人同心の小人頭の家かな
などと空想を巡らし、近づいてきた山に向かって進みます。
いきなり現れた横断禁止の道路は
高尾街道、ここでは素直に左へ25m行き
町田街道入口の交差点で横断歩道を渡り、また25m戻って残り40mの旧道を
楽しんでください。ちょっと無駄のようですが、旧道にこだわる人は迷わずに!

再び20号へ出て、正面道路の向こう側にあるのが熊野神社。町田街道入口交差点から
50m程の所にありますが、交通量が少ない時間帯だったらそのまま渡っても良いが
危険を冒すこともないので、ここは交差点に戻って横断歩道橋を渡りましょう
降りたところが
熊野神社前になります。ここには大きな樫の木と欅の木が合体して
しまった巨木があります。そばでよく見ると確かに隙間が全くなく密着しています。
そんなことから
恋が成就する木と呼ばれています。そんな恋のエピソードを!

 
 昔の恋の物語
 
  
今から四〇〇年の昔、八王子城主北条氏照の家臣、篠村左近之助に
 安寧姫という、美しい娘がおりました。氏照はこの娘をたいへんかわいがり
 城下の月夜峰で催される宴には、いつもそばにおいていました。
  宴ではよく獅子舞が演じられ、その中にひときわ上手に笛を吹く狭間の
 郷士の息子という若者がいました。氏照は笛の名手でありましたから、この
 若者を宴に呼んでは笛の音を楽しむのでした。安寧姫とこの若者はしばしば
 顔を合わせることになり、いつしか恋が芽生えるようになりました。そして
 この木の下で逢瀬を重ねていたという。その後二人がどうなったか定かでは
 ありません(古老の話)
  この木は樫と欅が根元で一緒になって成長した相生の木でしたので、いつ
 しか「縁結びの木」と呼ばれるようになりました。この木の根元に自分の名前と
 思いを寄せる人の名前を書いた小石を二つ置くと、願いが叶うと言われています。 

 

もう一つ面白い話が紹介されていたので再度このサイトで紹介いたしましょう。


 お杓文字様の由来

  
中央線の南側の畑の中に杉木立があり、中に小さな石の祠があった。
 ばばあ森とも、またの名をお杓文字様と言って、いつも杓文字が納められていた 
 その杓文字を借りてご飯をよそって食べると、たちどころに風邪が治ると、言い伝 
 えられ、ばばあ森は大正年代まで付近の人達から信仰の対象として崇められて
 いたらしい。その祠は、京王線高尾駅拡張に伴い、熊野神社境内に遷された。
  なお、そのそばにぢぢい森もあったが、明治三十四年中央線の開通とともに
 無くなったが、その場所は、今の信号のあたりであるとか。このぢぢばば夫婦は
 紀州から熊野神社の御影を持って当地に祭られた祖であると言われている。
 

こんな小さな熊野神社にも、素敵な歴史が眠っているのですね。新しくこの土地に
住み始めた人達は、きっとこんな話知らないのでは無いかと思い紹介してみました。
  

本日のゴールは、JR中央本線高尾駅、京王線高尾駅のある高尾駅前交差点
これから飲んべえの我々は、八王子まで電車で戻り、北口の稲荷湯で汗を流し
金太郎で乾杯です。厚かった一日、ビールのうまいことうまいこと。