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大和田橋南詰から賑やかだった結婚式場を振り返ります。この橋の下に
空襲を避けて何人もの人々が避難したなんて遠い昔のようであり、またごく最近の
ような気がします。橋を渡ったら旧甲州街道は
右に曲がりましょう。国道と変わらない
広い通りの左側を進んでゆきます。
大和田橋から360m、第五中を過ぎたところで旧道は左に斜めに入ります。
入るとすぐ左にはちょっと変わった建物があります。入口の大きさからこの建物は
きっと祭りの山車をしまって置くものとピンと来ました。
案の定、帰宅後サイトで調べてみた結果、この山車は八王子まつりに使われるもの
この辺りの住所からきっと元横山町の山車が入っていると推測しました。
八王子まつりは、8月3、4,5日、18台の山車が甲州街道を埋め尽くします。
第五中から入って170m先の右側に公園があり、その街道沿いに
竹の鼻一里塚跡があります。公園の名前は竹の花ですが、武蔵名勝図会などには
竹の鼻と書かれています。私たちが歩いた道のりは、ちょうど45kmですから
この一里塚は11里でしょうか。甲州街道の一里塚は、調布から日野まで
多摩川のハケ下を通っており、そちらの一里塚が多く現存しているため
ここまでの正確な距離が分かりません。

公園の隣には永福稲荷大明神があり、その裏手にひっそりと芭蕉の句碑がありました。

蝶の飛ふ はかり野中の 日かけかな

この句碑は一門の女流俳人である松原庵星布が寛政十二年八月に建てたもの、
しかし、その後明治三十四年四月大火に遭い碑石が剥がれ落ちてしまったため
昭和二十四年九月、土地の同士が集まって再建したものです。
  
この永福稲荷の正面石垣に妙な石版がはめ込まれています。
これには
八王子米屋中と書かれていました。調べてみると米屋中は米屋講の前身で
神仏を参詣する同行者の団体ですが、今で言う組合的役割も果たしていました。
その講社がこの永福稲荷を建てたものと思われます。
やがて街道はT字路に突き当たります。ここは現在T字路ですが、当時は左に
直角に曲がる
枡形でした。この角を曲がればいよいよ横山宿、現在の八王子です。
北条氏照は、滝山城から甲州街道を進む敵を押さえるため深沢山に城を移しました。
この城の麓には牛頭天王の八人の王子を祀った
八王子権現がありそれを城の鎮守と
したことから城の名を八王子城としました。もちろん現在でもその城趾はあり城下町
だった元八王子町も現存します。これから進む小仏への道の途中、眺められるかも知れません

その後甲州街道随一の宿場町として発展した八王子は、古代横山党から横山十五宿と
呼ばれ賑わい、明治になっても生糸の中継都市として群馬方面から横浜への
荷が数多く通り日本の
シルクロードといった所です。しかしこれから進む藤野など
相模湖周辺の生糸生産者は、八王子に出荷すると安く叩かれてしまったため
直接、東京へ生糸を運ぶため津久井街道を発展させました。
現在の八王子市は人口56万人の中核都市で国から業務核都市と位置づけられています。
枡形を左折し250m進んだ我々の前にはこんな近代都市が現れました。
ここから旧甲州街道も国道に沿って真っ直ぐ追分へと進んでゆきます。
国道へでたら右へ進みますが、すぐ右側に市守神社大鳥神社の両社があります。
先の交差点は
八王子駅入口で、400m程で駅に行かれます。コンビニや食事が出来る場所も
多数有るので休むには良いでしょう。横山町を抜け横山町郵便局前の信号が
野猿街道の出発点。八王子駅の南側に回り込む小さな道からは多摩ニュータウンへ
続く大きな野猿街道を想像できません。
天正十八年(1590)六月二十三日秀吉の天下平定戦により八王子城は落城した。
戦後処理のため市場の再開が急がれ、横山町では四日市、そして八日市が
開かれたのがこの
八日市宿です。八日町の信号から少し進むと八王子市の
夢美術館がありその手前に八日市宿跡の碑がひっそりと建っています。
当時の名残が現代への続くのか反対側には時代を感じさせる商店が並びます。
雨の日でも大丈夫な長いアーケードもそろそろ終わり。空が見えてきたら
追分も近くなりました。大きなマンションも随分街道沿いに立ってきましたが
写真のような古い商家も少し残っていました。柿渋色の暖簾はこんにゃくの
なかのやです。道路の右側にあったらちょっと寄って食べてみたかったものです。
八王子駅前付近で国道20号と合流して2000m、陣馬街道と甲州街道の分岐点、追分
到着です。道路標識も大月・高尾国道20号と陣馬高原都道521号と出てきました。
交通量の多い三差路なので講談歩道橋を二回渡って、Y字の真ん中に進んで下さい。
追分道標など
見どころは真ん中です。