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 日野渡船場跡

  
日野の渡しは、現在の立日橋付近で柴崎(立川市)と日野を結んでいた多摩川の渡しで、
 江戸時代貞享年間(1684〜1688)以前は農耕のための作場渡しとして利用されていた。
 この頃、甲州街道は下流の青柳(国立市)付近から万願寺渡船場から多摩川を渡り、万
 願寺一里塚を経て日野宿に至っていた。貞享元年、甲州街道は青柳より上流の柴崎から
 日野渡船場で多摩川を渡り、日野宿に至る道筋に改変された。これに伴い、日野の渡しは
 府中宿と日野宿を結ぶ正式な渡しとなり、日野宿の経営となった。三月から十月までは
 渡船、渇水期の十月から翌三月までは土橋だったが、文政七年(1824)以降は一年中渡船
 となった。渡し賃は人と馬で別々に徴収されたが、武士、僧侶、宿の人々は無料で通行でき  
 た。明治維新後も日野渡船場の経営は日野町へ受け継がれるが、大正十五年(1926)日野
 橋の開通によって渡船は廃止となった。
                                         日野市教育委員会

国道20号の日野橋交差点を奥多摩街道方面へ進んだ我々は、ちょっと意外なルートで
多摩川を渡ることになりました。きっと国道20号の日野橋が旧甲州街道と思いこんでいた
我々にとって、わくわくする道です。それでは、日野橋交差点を進んで270m先の変形十字路へ
左上の写真がその交差点、コンビニ風の建物は
コミュニティストアこざかいです。
ここを左折するのですが、店の前の舗道に
旧甲州街道の標識が有るので確認してください。
曲がって135m行くと右側に立川市
柴崎市民体育館が現れます。この体育館の前には
歴史と文化の散歩道という立川市の案内板があり、ここが甲州道中であること、
また、昭和三十年代まで、ここに
道標が有ったことを教えてくれます。
体育館の外れには根川緑道があり、木陰には市民がお昼寝した風景も見られます。
更に50m進むと
新奥多摩街道(奥多摩バイパス)を横断する交差点にでます。
この錦町下水処理場前を真っ直ぐ横断すると過ぎ左に
下水処理場が始まります。
60m進むと左の写真のY字路。この左側に
日野の渡し碑があります。木で隠れて
見えないため周囲の木を刈り込んでやっと立っている古い碑と、渡し船のモニュメントが
付いた立派な大きな新しい碑が有り、こんなことが書かれています。

日野の渡しの出来たのは いつの頃だか誰も知らない
江戸時代中期貞享年間 この地に渡しが移されたことは 確かであろう
かつて信濃甲斐相模への人々は この渡しを過ぎると 遠く異境へ来たと思い
江戸に向かう人々は 江戸に着いたと思ったという


私たちも、その異境に向かって旅立つとしましょう、
ここから先は、渡し船のコースとなっていたので、平成の旅人は好きなルートで
日野市の渡船場跡へ向かえばよい。Y字路を左へ進めば日野橋、右に真っ直ぐ進めば立日橋。
しかし我々は、右に進みすぐあるY字路を更に左へ向かい
賢治の学校
前を通って、土手に登って
多摩川の土手を歩いて立日橋へ向かいました。
日野の渡しは、この立日橋の下を渡ったというので、まだ新しいこの橋を行くことにしましょう。
橋の上空には多摩モノレールが静かにすれ違ってゆきます。土手から対岸の土手まで433m
有りますが、川面を渡る風が気持ちよく、快適な橋です。対岸には大きなマンションがそびえ
その下にある甲州街道駅へ向かってモノレールが進んでゆく様子が良く見えます。
鯉を釣っているのであろうか、川面に小さな櫓を組んで釣り糸をたれる釣り人がいる。
日野市に入り、渡船場跡の碑を探してみたが、先人達の目撃した碑は見あたらず
新しい案内板がここが渡船場跡だということを語っている。この案内板に書かれている
内容については冒頭に記したので読んでみてください。
再び立日橋へ戻り、新しい大きな道路の舗道を進む。この辺りに旧甲州街道とおぼしき道が
見あたらない。この新しい道につぶされてしまったのであろうか。右側に緑が展開すると
そこは
スポーツ公園、続いてクレアホームアンドガーデンの広い庭があります。
ここには喫茶ルームもあるので、休憩にはもってこいかも知れません。やがて道は
国道20号に突き当たります。そこは
新奥多摩街道入口交差点。ここで旧甲州街道は
右折して日野宿へと向かいます。
国道に入って最初の信号は川崎街道入口。この角にはひっそりと高幡山不動尊道の
道標
があります。通称高幡不動尊、高幡山明王院金剛寺は奈良時代の建立で関東の
三不動の一つとして親しまれています。その不動尊はこの交差点を南に折れ2.3km
浅川のほとりに有ります。新撰組副長の
土方歳三はこの近く石田に生まれ、この寺を
菩提寺としていました。今でも土方歳三の立像や殉節両雄の碑があります。
川崎街道入口から70m程で左側に日野宿本陣があります。
これは都内に現存する唯一の本陣で、また甲州街道で現存
する三つの本陣の一つです。この本陣は嘉永二年(1849)大火に
より主家を消失し、その後文久三年(1863)に再建されたものです。
この本陣には当主の佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた

佐藤道場
があり、後の新撰組局長となる近藤勇や土方歳三、
沖田総司、井上源三郎らが激しい稽古に励んだところです。道場と
言っても専用の館はなく、本陣の前庭を道場としていました。
現在、駐車場となっている辺りが道場として使われた庭だそうです。
日野宿には本陣1軒と脇本陣1軒があり、実はこの下佐藤家は脇本陣で、本陣は隣のマンション
クレール日野がその跡地です。しかし規模は同格で脇本陣とはいえ、本陣と同じ大きさを誇り
明治天皇も二度立ち寄られ御茶を飲んでゆかれたそうです。この本陣は市の観光協会により
公開されており、案内の方も常駐し詳しい説明を聞くことができます。
この写真では領主の執務室、つまり現代の区役所と言ったところでしょうか、から庶民の
訪れる土間をみたところで、鴨居が低いのは悪人が刀を振り上げても鴨居に当たり
攻撃できないような構造になっていることを説明されているところです。ここが近藤勇が
座った場所だとか、門はその昔長屋門であったとか30分ほど案内していただきました。
本陣、脇本陣の向かいが問屋場跡の図書館です。面白いことにこの宿の高札場も
ここに有ったそうですが、その場所は街道の真ん中だったそうです。この国道20号の
センターライン辺りに街道に向かって
高札場が書かれている古地図が本陣にありました。
本陣から日野市役所入口を通り、340m進むと左側に
八坂神社があります。
むかしむかし、この付近の土淵と言うところで多摩川の洪水の後、淵に妖しい光が数夜に
渡って見えたので、故老が拾い上げると、金色燦然と輝く
牛頭天王の神像であったという。
その像を祀ったのがこの神社の起源で寛政十二年(1800)のものです。本殿には
天然理心流
近藤周助門人により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられています。
また、例大祭の
千貫みこしは近県でも有数な神事で絢爛豪華な祭り絵巻が繰り広げられます。
正面にJR中央本線のガードが見えてきたら曲がる準備をしてください。旧甲州街道は日野駅前東
信号で左折です。しかし、この60m手前で右に斜めに入り直角に左折しこの交差点を横切るのが旧道。
旧道に入ると日野駅東交差点で右折し、ガードをくぐってすぐ、日野駅南交差点を左折して坂を登るのが
平成の甲州街道ですが、昔の街道は真ん中の写真の
宝泉寺前を通り、坂を登り右の写真のJR用地入り
線路を横断するルートになります。しかし現在この道は、線路を渡れないので、前述のJRガードを進みます。
右の写真は、日野駅南に向かうJR中央線のガードです。これをくぐって左折します。
時刻もお昼時になったので、この日の駅周辺で昼食です。左の茶屋とある建物は何と
日野駅の駅舎です。とても駅舎に見えない素敵な建物です。飲食店の少ない南口から東口に戻り
国道沿いのビル二階にある
ステーキハウス・カウボーイが今日の昼食場所。ハンバーグランチは
ボリューム満点、味も最高、値段も安く大満足の昼食となりました。生ビールも飲んで、もう
蒸し暑い街道には戻りたくない気持ちでいっぱいです。南口には綺麗なトイレもあるので
この先の工場地帯に備えて用を足しておきましょう。
日野駅南の交差点から急な坂を登ってゆくと、左側に日野駅西駐輪場があります。
ここで道は
Y字路になりますが、旧甲州街道は右へ進んで中央自動車道のガードを
くぐります。Y字路右の駐車場の所には
高幡山八十八箇所の道標と庚申塚三基が
並びます。振り返らないと見えないので注意して探してください。