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                    むさしそうしゃ  おおくにたまじんじゃ

            武蔵総社 大國魂神社

 当神社は、大國魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祠った神社である。
 第12代景行天皇41年 (111年) 5月5日大神の託宣によって創立
 せられ武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御
 代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれて、
 当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。
 国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を配祀したの
 で「武蔵総社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので
 「六社明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで
 代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を
 寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の
 後宗教法人となる。                 (例大祭五月五日)

                  大國魂神社・府中市観光協会

 
八幡宮から10分ほど同じ左側を歩いて行くと、八幡宿の交差点の先に大國魂神社
現れます。境内は1万坪強と広く、ぐるっと回ってくると1km近く歩くことになります。
説明板に書いてあるように、本殿の両側には小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・
金佐奈大神・杉山大神が祀られています。

特に目を引いた建物は、鼓楼で左の写真の建物です。鼓楼とは太鼓を叩き時刻を知ら
せる時計台のような物で、宇治の万福寺や日光東照宮など主に寺院に建てられた物です。
大國魂神社では慶長年間に三重塔とともに建てられましたが大火により消失し、現在の物は
嘉永七年(1854)に再建された物です。右の写真は
中雀門で、街道から鳥居、随神門、
中雀門をくぐり拝殿に至ります。

この神社の祭りは国府祭といい、消燈して闇夜に御旅所に神幸することから、俗にくらやみ祭
と呼ばれています。毎年4月30日の品川海上禊祓式から始まり祈晴祭、御鏡磨式、競馬式、
山車の競演、萬燈大会と続き、5月5日に本祭を迎えます。しかし、昭和36年から御輿の渡御は
夕刻に改められました。暗闇で行っていろいろ事故でも続いてのでしょうか。
そのほかに毎年7月20日に行われる
すもも祭りも賑わいます。
源頼義,、義家父子が奥州平定の途中、大國魂神社に戦勝祈願し、戦に勝ち凱旋の帰路
戦勝お礼にお詣りしすももを献上したことに始まります。
明治14年6月、明治天皇はこの地を訪れ鮎漁を楽しまれました。それを記念して明治35年
ここ
亀田屋で生まれたのが「鮎もなか」早速、1ツいただき味見してみました。
普段甘い物があまり好きでないパパは、最中を食べないのですが、素朴な甘さの
この最中は気に入りました。形は小さいのですがあんこが隅々まで入っています。
昔この辺りは神戸と呼ばれ、こんな老舗が多く集まっています。神戸は
郡家(こほど)
言う意味で、郡司が政務を執る役所のことです。今で言えば市役所があったのかな。
大國魂神社から150m府中市役所前の交差点は、甲州街道と府中街道の交差点です。
府中街道は南(左)へ進めば、登戸、溝の口、小杉を経て川崎へ、北(右)へ行けば
国分寺、東村山、所沢へ。当時も役場があり人でも多かったことからこの
高札場
建ったのでしょう。東海道・大津の札の辻と同様、ここも昔は
札の辻と呼ばれていました。
普通の高札場と違うのは、この高札場が大國魂神社
御旅所の中に設けられたからです。
この札の辻にも歴史を感じさせる老舗が軒を連ねています。左の鞍造りの店は
創業1860年の酒屋
中久本店、真ん中は創業大正12年節句人形専門の櫻井、そして
右側はなんと
箒の専門店ではないですか。詳細が分かりませんが凄い店です。
番場宿、鹿島坂の石碑を過ぎると、甲州街道をこんな緑道が横断してゆきます。
左右に延々と続く人と自転車の専用道路です。ここには昭和51年9月までレールが
有りました。始まりは明治43年の
東京砂利鉄道です。通ってきた多摩川線のように
下川原〜国分寺間で砂利を運搬していましたが、大正5年には軍用鉄道となり、
昭和8年、東京競馬場の開設に伴い、開催日に限り乗客を運びました。その後通勤線と
なり、昭和24年からは常時運転となり、昭和48年武蔵野線の開通とともに旅客が
廃止になり、その後貨物線として営業していました。多摩川線とは別の歴史を
たどった国鉄下川原線は、いまこうして
下川原緑道として市民に親しまれています。
緑道から50mの高安寺は古刹です。中山道の瀬田唐橋で俵藤太の三上山ムカデ退治
話をご紹介しましたが、その俵藤太が藤原秀郷で、平将門を討ち鎮守府将軍になった人で、
実はこの高安寺は、
藤原秀郷の館跡に建てられました。それから250年後には弁慶と義経
この寺によって写経をしたという伝説もあります。高安寺の名は
足利尊氏が自分の名から
付けたものでしたが、小田原北条氏の庇護が無くなり急速に衰えてゆきました。しかしこれを
憂いた青梅二俣尾海禅寺の徳光禅師が徳川幕府より御朱印十五石を拝領し復興しました。
総門、山門、本堂の庫裡、鐘楼、観音堂などを境内に配し禅宗七堂伽藍の面影をとどめています。
山門の表側には、通常の仁王像が有りますが、裏に回ってビックリ!奪衣婆という
恐ろしげな像が振り返った人を驚かしています。寺の一番奥には
古跡弁慶硯の井戸があります。
寺のそばには、ここで写経した弁慶にちなみ江戸名所図会にも登場する弁慶橋跡の碑があります。