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旧甲州街道へと入って最初仁目に着くのがグランタワー調布国領ル・パサージュです。
まだまだ低層建物中心の街に、34階建てのマンションはとても目立ちます。街道歩きで
こんな風景を見たのは浜松以来でしょうか。このマンションは日本総合地所が2004年9月に
建て、285世帯の方が入居し、高さは118.3mあります。しかしまだまだ高いマンションは
他に沢山あり、現在は川口市のエルザタワーが185m55階建てでトップ。江東区の
Wコンフォートタワーズが54階建てで2位。3位は中央区のセンチュリーパークタワーと
なっていますが、今年8月には大坂に200mのクロスタワー大坂ベイが完成し日本一となります。
新宿では、これより高いビルを随分見てきましたが、こうして単独で建っていると
遠くからも良く見え、甲州街道のランドマークといった新名所と言えるかもしれません。
すぐ下には力王の地下足袋を売る、街道らしい商家が現役で頑張っているのが
対照的で、面白い風景を醸し出しています。 |
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新撰組局長の近藤勇が剣の道に入ったとされる天然理心流原田道場はここにありました。
この天然理心流の創始者は遠江国の近藤内蔵之助で江戸に道場を開き、その二代目に当たる
近藤三助がこの多摩地方や埼玉神奈川などに道場を広めます。三代目に当たる近藤周助の
弟子であった原田忠司が国領名主谷戸市兵衛に見込まれ谷戸家の分家を引き継ぎこの地に道場を開く。
驚いたことに現在でもこの武術は引き継がれ、千葉の牛久に第九代目の宮川清蔵氏が道場を構えています。
近藤勇は、この地の農民宮川久次郎の三男、宮川勝五郎として生まれ、その宮川家の子孫が
道場を守る宮川清蔵というわけです。 |
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40m並びには佐伯園芸が店を構えています。所狭しと花を並べるディスプレイには驚かされました。
その道の反対側、圓福寺入口には、赤い涎掛けをした六地蔵が旅人を見守ります。
人間が死ぬと行く六道、天上界・人間界・修羅・餓鬼・畜生・地獄にはそれぞれ地蔵菩薩がいて
来る人間を救ってくれると言う六地蔵信仰。お寺の入口によく見ることができます。 |
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布田駅前交差点の右には常性寺があります。この寺の境内には薬師堂や不動堂があり
特に不動堂は、成田不動尊の分身を祀り布田のお不動さまとして近在の人々に信仰されています。
また、境内には小橋馬頭観音塔がありす。これは先ほど渡ってきた野川の馬橋から西に50mの
小橋にあったもので、「すてば」と呼ばれる馬の埋葬地に建てられたのが文政七年(1824)です。
この寺には通りに面したところにトイレがあるので、調布まで我慢できない方は拝借してください。
665m行くと賑やかな街になりそこが調布です。調布駅北口自転車駐車場はスリムなタワー。 |
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調布駅北口交差点は、右に西友、左にパルコがまるで街道の門のように立ちはだかり
我々旅人を圧倒します。調布とは律令制時代の租税である租庸調の調として布を納めた
土地からきています。ここの他にも荏原郡調布村は田園調布となり、雪女の舞台
西多摩郡調布村は青梅市にありました。この調布市の近隣には布田や染地といった
布に関する地名が残されています。路地に至っても街が綺麗という印象がありました。 |
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そんな綺麗な街の路地の一角に時代を感じさせる丸高食堂があり、本日の昼食場所と
決めました。今日のメニューは豚のショウガ焼きと鶏の唐揚げ定食、ご飯大盛り自由で750円と
リーズナブル。しかし腹を空かした街道ウォーカーは、更にメンチカツを食べます。
中ジョッキも入りご機嫌な三人の腰はなかなか持ち上がりませんでした。 |
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次の信号「小島町1」の手前40m右側、旧甲州街道の道路標識の下に小島一里塚跡の石碑が
ひっそりと建っています。江戸から六里目の一里塚には昭和40年代までは樹齢200年を越える
大きなケヤキがあったと伝えられています。左鶴川街道、右武蔵境通りの道路標識が
出てきたら、もう少しで下石原の交差点になります。 |
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いつも京王線踏切で渋滞していた鶴川街道も高架になり空いていると思ったら、ご覧の通りの
渋滞でした。川崎北部から中央高速に乗る人が多摩川を渡ってやって来ます。右へ行けば調布IC
今日は歩いてこの下石原交差点を東から西に進みます。 |
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下石原から国道20号からの道に合流するまで660mほど旧甲州街道は続きます。火の見櫓があったり
お地蔵さんがあったり、右から左へ字を書いた頃の看板、北田洋服店の前を通過。いよいよ
合流間近という場所で、再び六地蔵が並んでいます。ここは源正寺入口、お地蔵さんの
裏は京王調布幼稚園になっていてなつかしい仮面ライダーが園庭でポーズをとってました。 |
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上石原で国道20号からの道と合流したすぐ右側には、また近藤勇ゆかりの地があります。
近藤勇と新撰組ゆかりの地
上石原宿名主中村家
近藤勇が甲陽鎮撫隊を率い甲府城を目指す途中、故郷上石原宿の名主中屋勘六宅に
立ち寄って歓待を受けたと言われる。中村家は代々村役人をつとめた家柄であり勘六の
子克昌は自由民権運動のリーダーとしても活躍し、明治二十七年に衆議院議員となり、
帝国電気鉄道の取締役、調布銀行の取締役を歴任した。また彼は詩文書画にすぐれて
いた。若宮八幡宮内の凱旋碑、近藤勇の孫久太郎の名が刻まれている布多天神社内の
日露戦争忠魂碑などは克昌の書である。
近藤勇と甲陽鎮撫隊
鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍とともに、大坂より海路江戸に戻った近藤、土方に慶応
四年(1868)二月、天領甲州の鎮撫(甲府防衛)の命が勝海舟を通じて下った。新撰組は
新たに兵を募集し、甲陽鎮撫隊として甲州街道を通って甲府城へ向かった。上石原を通過
する際、故郷の人々に歓待を受けたといわれている。三月五日、甲州駒飼宿に到着した
とき、既に板垣退助率いる官軍は甲府城に入城していおり、翌六日勝沼の柏尾で因幡・
土佐藩兵らからなる官軍と戦ったが、圧倒的な戦力に敗れた
調布市観光協会
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西調布駅入口の交差点を過ぎ、中央自動車道の高架をくぐる手前左側には西光寺があります。
新撰組局長近藤勇の座像があるお寺で、調布市重宝の仁王門もあります。この門は
大僧都弁雄が宝永年間(1704-1710)に建てたと寺の記録にあります。ここに近藤勇の
座像が何故あるのかは、以下の説明により明らかになります。
新撰組局長 近藤勇
近藤勇は天保五年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1-6)宮川久次郎の三男として
生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌二年近藤
家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。
文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組
を結成、局長として洛中の治安の維持に当たる。中でも元治元年六月浪士達が画策した京都の大惨事を
未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の
戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を
編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り
小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の
名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知ら
れた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応四年四月
下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月二十五日江戸板橋で刑死、時に僅か
三十五歳波瀾万丈の人生を閉じた。
会津藩主、松平容保は【貫天院殿純忠誠義大居士】の法号を贈りその功績を称えている。
調布市『近藤勇と新撰組の会』は、没後百三十年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に
関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の
地西光寺に座像を建立することとした。
奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を
捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の
招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。
平成十三年十月八日
近藤勇座像建立委員会代表 土方貢
発起人一同
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西光寺前で中央自動車道の高架をくぐる。高架下には児童公園・水飲み場・トイレが併設されて
いるので、休んでゆくのも良いでしょう。高架を抜けると町並みに変化があり、右側には緑多いとても
大きな旧家があり、左にも農村を偲ばせる風景が続きます。 |
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ユニクロを過ぎると飛田給駅が近づきます。民家の屋根越しに味の素スタジアムも見えてきました。
上空には調布飛行場から飛び立った新中央航空のドルニエが頭上をかすめます。
実はパパはこの飛行機が好きで、大島までボクたちを乗せて飛んだことがあります。
そのとき上空から甲州街道を撮った 写真がありましたのでご紹介しましょう。 |